第209話 闇夜の邂逅
「駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ、もう駄目だ、私はもう駄目なんだ」
ハァ、ハァ、と荒い息遣いが響き渡る。
暗い部屋の中、男は一人書斎机で頭を抱え、血走る目で虚無を見つめていた。
「駄目だ、もう全員駄目なんだ、もうおしまいだ、私も、誰も彼も、皆――」
「誰が、終わりなんですか?」
それは、まるで死の宣告。
間もなく、う゛っ、と一言だけ呻き声上げ、男はその体を机に投げ出した。
血飛沫舞う中、石壁に空いた窓の縁に黒い影が揺らめく。
――――――――――
あぁもう!なんで忘れ物なんかしちゃうかなぁ?
闇夜深まる時頃、ギルは街の大通りを爆走していた。
見たかよ?あのアンジェリーナの顔。それと、忘れ物取りに行ってきていいですか?って聞いたときの護衛兵の顔!
揃いも揃ってあんな呆れ顔しなくてもいいじゃん!
せっかくアンジェリーナが王女になってからは、立派な近衛兵らしい風格が出てたのに。
この期に及んで白い目で見られるだなんて、辛いにも程がある!――まぁ自業自得なんだけど。
それにしても、アンジェリーナの言った通り、この時間になると結構暗いな。
昼間はあんなにきらきらしていた街も、夜になれば大通りでもこの様。
一本中に入れば街灯もほとんどないし、警邏が回っているとはいえ、こりゃあ早めに戻ったほうがいいな。
――というか地味に遠いんだよな、ホテルから領主の館まで。
普通に歩いて片道15分くらい?走っているからもうちょっと早く着きそうな気もするけど――ところどころで警邏に身元確認のために止められているから、もしかしたら15分以上かかるかも。
「ったくもう、自分が虚しくなる!」
とそのとき、ようやくギルの目に、物々しい石の砦が映った。
目的地である
ギルはそそくさと厩の暗い電灯を点け、中へ駆けこんだ。
えっと、確か俺が乗ってきた馬は、入ってすぐ左の三番目――あ、いた。
毛艶のいい茶色の肌、くりんとした大きな目。
間違いない、この子だ。
「ごめんね?ちょっと失礼して――」
ギルはそろりそろりと内に入り、鞍横についたポーチをごそごそと探った。
あ。
「あった!!」
ポーチの中からギルが取り出したのは、地図とコンパス。
やはり、馬から降りるときにそのまま忘れてしまっていたのだ。
はぁ、よかったよかった。
これでどうにかなる――。
そのとき、ダッダッダッダッと外から土を蹴り上げる音が聞こえてきた。
「あれ?灯りがついてる」
入ってきたのは、怪訝そうな顔をした兵士と馬。
まぁ、この時間馬小屋に人がいることなんて滅多にないだろうし、当然の反応といえるが。
「あ、どうも、お疲れ様です」
「あ、お疲れ様です」
お互い目が合うや否や、ギルとその兵士はぺこりと頭を下げた。
この時間、馬でやってきたってことは――。
「速達ですか?」
兵士が馬を中へ入れる最中、ギルはその男の手元をちらりと見て言った。
「えぇ。これを届けに」
その兵士が掲げたのは、茶色い封筒。
兵士というと街を守ったり、戦に繰り出したり、あるいはギルのように護衛をしたりというイメージがあるだろうが、役所宛ての重要書類なんかは、このように、兵士が届けることになっている。
特に、速達なんかは時間を問わない場合も多く、一人で道中の安全を確保できる、兵士にしかできない仕事なのだ。
えーっと、なになに?
『ワグナー=リブス様へ』。差出人は――。
「では、私はこれで」
その言葉に、ギルははっと気が付いた。
急いでどうもと頭を下げ、兵士を見送る。
危ない危ない。つい盗み見してしまった。
たぶんバレてなかったけど。
昔ジュダさんに教わっただろ?
“無駄な詮索をしない。世の中知らないほうがいいことのほうが多いんだから”って。
自己反省を終えて、ほっと一息。
ギルは厩を出た。
さて、なんだかさっきより暗くなってきたし、早く帰ろう――。
そう思って領主の館の横を通り過ぎようとした――そのときだった。
「――え」
「――!?」
その瞬間、体が硬直した。
建物の陰から音もなく現れた何者か。
正体不明。顔も見えない。
判断ができない。
しかし、それは互いにとって予期せぬ邂逅だった。
相手もまた困惑していた。
巡回兵でもない。
こんな時間に忘れ物を取りに来ていた馬鹿と相対するなど、誰が想像できよう。
ただ一つ、二人の違いがあったとすれば――。
そのとき、ギルには見えていた。
己が消し忘れた馬屋の光に、ほのかに照らし出された、血染めの袖口が。
――敵。
刹那、ギルは剣を振り抜いた。
二人が相対してからこの間わずか1秒。
果たして奴が本当に敵なのかどうか。それは、賭けにも近い直感だった。
戦場にいると、頭が空っぽになる瞬間がいくらでもある。
そのときに何が大切か。
そういうときに日々の積み重ねが顕著に表れる。
そんなことを誰かが言っていたような気がする。
人を殺めないように、剣を振り抜く瞬間から癖を付けておく。
アンジェリーナの剣の振り方から着想を得た、手首を返して剣の背を相手に向ける“打撃”。
己の肉体と身体強化のおかげで、気絶もしくは一時的な行動不能を生み出すことができる。
――そう。だかそれは、当たればの話。
「っ――!」
声を殺して、間一髪、相手が下がる。
ギルの目にも留まらぬ剣撃は、虚しくも空を切った。
こいつ――!
目では追えていない。
おそらく音。
初動、ブンと空を切る音に、反射的に動いたのだろう。
体を仰け反らせ、引いた足に体重を乗せて後ろへ跳ぶ。
スレスレの見事な回避。
只者じゃない。
初撃を躱したその何者かは即座に体を切り返し、館の裏へと逃げ込んだ。
「っ待て!」
ここで逃すわけにはいかない。
すぐさま奴を追って陰に飛び込む。
だが――。
あっ、しまった。
次の瞬間、ギルは思った。
頭が動くよりも先に、体が悟ってしまった。
そこは月の光も何も存在しない、完全なる闇。
何も見えない。
何も聞こえない。
足音も、息遣いさえも、何も。
肌をかすかに撫でる風の揺らめきさえも、何もわからない。
何も、感じられない無の空間――。
「う゛っ――!?」
首の後ろ、鋭い痛み。
思わず喉から声が漏れる。
途端、猛烈な倦怠感と眠気が全身を襲った。
バタンと音を立て、体が地面に投げ出される。
状況がわからない。
自分が今、どういう態勢でいるのか。
敵が今、どこにいるのか。
「くっ、そ――」
かすかな呻きも、ただ闇に飲まれていくのみ。
薄れゆく意識の中、ギルの目には真っ黒い景色だけが映っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます