第208話 不快感
楽園に慣れ切った人間は、その傍にある地獄に気づけない。
そこは楽園などではなく、地獄への入り口だということを、彼らは忘れてしまうのだ。
水の溢れるオアシスにも、肌をひりつかせるような乾いた風が吹くことを、彼らはもう覚えてはいない――。
――――――――――
――チリッ
!!
領主の館を出た瞬間、その感覚にアンジェリーナは足を止め、天を見上げた。
やっぱり、気のせいなんかじゃない。
ここに来てからずっと感じている。
頭を差すような、不快な何か――。
「どうしましたか?」
その声に、アンジェリーナははっとして、目線を下ろした。
「いえ、なんでも」
「5月とはいえ、もう夏も近いですからね。日傘お貸ししましょうか?」
「ありがとうございます。でも、こうやって陽の光を浴びるのは心地よいものですから――行きましょう」
日差し?いや、これはそんなものじゃない。
アンジェリーナの心に、正体のわからないざわめきが広がっていた。
デュガラの街は、馬車の中から見たとおり、いやそれ以上の美しさだった。
特に目を引いたのが、水。
街中に張り巡らされた水路は、大通りだけではなく、路地にまで及んでおり、ちらりと覗かせてもらったところ、家の前の水路で、で洗濯をする住民の姿が見られた。
水が綺麗な証拠だろう。
ライさんに聞いたところ、やはりこの水は地下水であり、この街のちょうど真ん中あたりで大量に湧き出ているのだとか。
荒野の入り口にあるこのオアシス。
なんでも、1000年以上前から街として栄えていたらしい。
そんなこんなで、街をぶらりと歩きながら、一日目の視察は一見、何事もなく終わったように見えた。
が、その夜。
アンジェリーナは一人ホテルの部屋の中、眉間にしわを寄せていた。
駄目だ。気が休まらない。
原因はわかっている。
あの謎の感覚。
頭を刺すような不快な感覚が今も続いている。
領主の館を出たときよりは、少しは楽になった気がする。いや、単に慣れただけかもしれないけれど。
王女として、仕事はどうにかこなせたつもりだ。
実際、光輝く街並みはとても綺麗だったし、ライさんのお話もためになることがたくさんあった。
でも、その半分も果たして、頭の中に入ったのだろうか。たぶん、全然集中できていなかったように思える。
後で、ギルに内容聞いておかないと。
――というか、この不快感のこともギルに相談したい。
これは、誰か他の人に話さなければ、やってられない感じのやつだ。
うーん、こんなの、あと二日続くかも知れないとか言われたら、耐えられない。
一体いつまで――。
いつまで?
そのときアンジェリーナははっと気づいた。
いつまで、じゃない。いつから?
その途端、心臓がバクバクと大きく音を立て始めた。
そうだ。思い出してみれば、この不快感は館を出たときからじゃない。もっと前。馬車で館に着いたときから感じていた。
――いや、あくまでそれは強く感じた瞬間。
実際、最初に違和感を感じたのはいつだ?
「デュガラに入ったときから?」
ドンドンドン。
――っ!?
ドアが強く叩かれた音に、アンジェリーナは身をすくませた。
「アンジェリーナ」
その聞き馴染みのある声。
その瞬間、体の力をふっと抜けるのを感じた。
なんだ、ギルか。
気が付けばもう、警備会議も終わる時間。
アンジェリーナはゆったりとした足取りでドアに向かった。
これでやっといくらか心が軽くなる。
「ねぇ、ギル。相談したいことが――」
「ごめん、アンジェリーナ!!」
え?
ドアを開けるや否や、ギルは食いぎみに顔の前に手を合わせた。
「今から外、出てきていい?」
「え、外!?なんで?」
アンジェリーナの言葉に、ギルは気まずそうに体をもじもじとくねらせた。
「あのぉ、その、忘れ物しちゃって」
「どこに、何を?」
「馬に、地図を」
「地図!?」
その大声に、ギルの体がビクッと跳ねた。
「え、警備会議のときとか必要なんじゃないの?」
「うん、だからそのときに気付いたというか――」
アンジェリーナははぁと大きなため息をついた。
「わかった。いいよ。行ってきなよ。困るんでしょう?」
「ご、ごめん本当!警備の人はちゃんと付けておくから」
「はいはい。というかもう外真っ暗だよ?気を付けてね?」
「うん、ほんっとうにごめん!!」
そうやって、本当に申し訳なさそうにペコペコと頭を下げながら、ギルは急いで廊下を駆け抜けていった。
っもう、ギル!
こんなときに忘れ物とか間が悪いにも程がある!
あの人、本当に記憶力良いのかな?
違う、そうか。
それを凌駕するほどの頭の悪さ。
あれが真の馬鹿なのか。
変なところに納得がいってしまったアンジェリーナは、なぜか疲労感の増した体をばふっとベッドに投げた。
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