第196話 本の森

「おはようございます」

「――おはようございまっす」


 午前8時。

 仕事に向かう人々の流れもまだ収まっていない頃、ホテルの前にて、ギルはザグルヴを出迎えていた。


「王女様は?」

「『支度するから下で待ってて』とのことでした。あなたを先にお出迎えするように、と」


 ギルの言葉に、ザグルヴはふぅとため息をついた。


「一体どのようなつもりなのでしょうか?あの方は。こんな朝早くから」

「さぁ?――ったく、俺のほうが聞きてぇよ」


 思わずこぼれた言葉に、ザグルヴの冷たい視線が刺さる。


 おっといけない。


 ギルは慌てて目を逸らした。

 とそのとき、ホテルのエントランスから、タッタッタッと軽やかな足音が聞こえてきた。


「おはようございます!ザグルヴさん、急な変更にも関わらず、本当にありがとうございます」

「いえ――」

「では、早速行きましょうか!――あ、こっちに出ればいいんですかね」

「あぁ、はい。案内致しします」


 こちらはまだ調子が上がりきっていないというのに、アンジェリーナのこの張り切りようときたら――。


 テンションの差に、若干引き気味なザグルヴを先導として、三人は徒歩で目的地へと向かって行った。


 ――――――――――


「うわぁ」

「すっげぇ」


 歩くこと約10分。

 街の大通りから一本入ったところ。

 それは突然現れた。


 一昨日訪れた領主官邸と同じ、いやそれ以上の大きさはあろう建造物。

 石壁の質感は他と変わらぬものの、そのデザインはどこか現代的。

 特に目を引くのは、中央の建物に併設している、巨大なガラス張りのドーム。


 その光景に、アンジェリーナとギルは目を奪われた。


「ここが、ヤルパ中央図書館――旧ヤルパ国立図書館です」


 そう。昨夜、アンジェリーナに言われたお願い。

 それは、この辺りで一番大きい図書館に連れて行ってほしい、というもの。

 無理を承知で連絡を取り、どうにかこうにかザグルヴさんに手配してもらった。


「すごい、本当にガラス張りだ」


 図書館の中に入り、三人がやって来たのはひと際目立っていた、あのドーム。


「普段は一般公開していない棟なのですが、王女様たっての希望ということで、急遽要望を通しました。ここは、旧ヤルパ王国の重要な書物や禁書、その他貴重な本を収めている秘蔵書庫です」

「ひ、秘蔵――」


 本の多さ。それだけじゃない。

 確かに、これは見るからに――。


 床から天井をゆっくりと見上げて、ギルはぽかんと口を開けた。


 らせん状に壁に貼り付いた無数の本棚。

 それに付随するように天高くまで階段が続いている。


 外から見たときの衝撃も凄まじくかったが、中から見た光景は、言葉では言い表せないような感動がある。

 この階段を昇って行ったその果てに、一体どんな本が自分を待っていてくれているのだろうか。


 あまり本が好きではない俺でさえ、そんなワクワク感を掻き立てられるのだ。

 本好きのアンジェリーナならば、それは尚のこと――。


「ザグルヴさん、本当にありがとうございます!――あ、ちなみにここの使用はいつまで大丈夫でしょうか?」

「今日一日貸し切っております。必要ならば明日以降も確保できるかと思いますが――」

「じゃあ、お願いします。たぶん、時間かかるので」


 え?


 その言葉に、ギルは一気に現実に引き戻された。


 そういえばアンジェリーナ、この大量の本を前に、一体何をやろうと――。


「よし、ギル!始めるからこっちこっち」

「こっちって、え!?」


 心の準備もできぬ間に、、ぐいぐいと腕を引っ張られ、ギルは、一人気合十分のアンジェリーナによって、本の森へと攫われていった。




「で?結局俺、何も聞かされてないんだけど?」

「しっ!――昨日のザグルヴさんの言葉、覚えているでしょう?」

「え?」


 声を潜め、アンジェリーナはきょろきょろと周りを見回した。


「ほら、“無い土台”がどうのって――」

「あぁ。そういえばそんなこと言ってたな――え、でもそれが何?」


 首を傾げるギルに、アンジェリーナはぐっと顔を近づけた。


「考えたの。その言葉、一体どういう意味なんだろうって」

「それで、わかったのか?」

「うん、たぶん。その“土台”っていうのはおそらく、未来でもなく、現在でもない、それよりもっと前提的なものだと思うの」

「――そういえば、そんなことも言ってたかもな」


 ん?


 そのときギルは気が付いた。


 なんだろう。アンジェリーナが、期待の目でこちらを見てくる。


「何だと思う?」

「えぇ!?いきなりそんな難しい問題出すなよ」


 突然のむちゃぶりに、ギルはここが図書館であることも忘れ、大声を上げた。


「ほら、あるでしょう!?もっと根本的な、未来よりも、現在よりも前の事柄!」

「えぇー?えっと――」


 未来?現在?前提?根本?

 こういうの、苦手なんだけどなぁ。

 うーーーん。


 ぐるぐると頭を駆け回る単語たち。

 しばしの思案の後、ギルはすっと顔を上げた。


「過去?」


 自信なさげに発したその声に、アンジェリーナはうんうんと頷いた。


「過去ってそれ、ヤルパ戦争のことか?」

「わからない。そうかもしれないけど。でもなんか、そうじゃないような気もするんだよね」

「それは――直感か?」

「まぁ、そうかも」



「なるほどな。それを調べるためにここに来たっていうわけか」

「そうそう、そういうこと」

「――って言っても、アンジェリーナ」

「ん?」


 ギルは遥か彼方、上を見上げた。


「そんな曖昧な感じで、目的の本なんか見つけられるのか?こんな本の森の中で小虫を見つけるような真似――」

「だから、ギルの助けが必要なの」

「――え」


 その瞬間、嫌な予感がした。


 キラキラと目を輝かせ、上目遣いでこちらを見つめるアンジェリーナ。

 その顔はまるで悪魔のようで――。


「ギル、私が今までに読んだ本のタイトルって覚えてるでしょう?それから内容も」

「おい、まさか――」


 恐怖に息を飲むギルを前に、非情にもアンジェリーナは言い放った。


「ここにある本棚を一から漁っていって、背表紙を見て、見たことがある本だったらパス。タイトルだけじゃよくわからなくても、内容を軽く見て知っている内容だったらパス。その上で、全然見たことがない内容だったらキープ――これで行こう!」

「『行こう!』じゃねぇんだよ!!」


 出来る限り声を抑え、ギルは全力で訴えた。


「俺の負担大きすぎるだろうが!?」

「大丈夫だよ。私も今まで読んできた本は、大体内容覚えているし、分担すれば行けるって!」

「行けねぇって!どんだけ本あると思ってるんだ!?」

「普通の人じゃそうかもしれないけれど、何と言ってもここには瞬間完全記憶の方がいらっしゃるので」

「俺を辞書扱いするな」


 はぁ。


 大きなため息をつき、ギルは肩を落とした。


 まぁ、ここに連れて来られた時点で、アンジェリーナが目を輝かせていた時点で、俺は終わってたんだけどな。


「わかった。じゃあやろう。というか早くやろう。一刻も早く解放されたい」

「ありがとう、ギル」


 ったく、こいつの無邪気な笑顔は、どうしてこうも魅力的なのか。


 惚れた弱みとは何とやら。

 こうして二人は、無謀な探検に乗り出したのだった。

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