第187話 最期に一つ、我儘を

「会いに、来た?」


 ジュダは呆然とアンジェリーナを見上げていた。


「何言ってんだよ、お前。ここがどこだかわかっているのか?」

「うーん、そうだなぁ――ここは、カイオラ近くの森。今は8月3日の早朝かな?」


 どこか、おどけた様子のアンジェリーナに、今は何を言い返す気にもなれない。


「一体、どうやってここまで」

「――記憶を辿って」

「記憶?」


 あ。


 そのときジュダは気が付いた。


 そうか。そういうことか。


「俺は、死んだのか。お前のいる現実せかいでは」

「――うん」


 自分でも、よくわからない。自覚していたはずなのに。

 改めて、その事実を肯定されると、なんだか、胸にぽっかり穴が開いたような気がした。


「なんだ、そういうことか。話には聞いていたがまさか、こういう形で体験することになるとはな」


 記憶の旅人だったか?

 アンジェリーナの力のことは、前に聞いていはいた。

 魂に宿る記憶を辿るとかなんとか。


 ――ふふっ。


「それにしても、変な感じだな。記憶の中だっていうのに、こうして普通に話せてる。まるでタイムトラベルだ」


 言葉明るく、口の端をにっと上げ、ジュダはかすれた声で話し始めた。


「今、ギルはどうしてるんだ?お前と一緒なのか?あいつのことだから、きっと動揺しまくってるんだろうが。まぁ、なんだかんだ言って、あいつは良い奴だからな。たとえ、これから何があろうとも、大丈夫だろう。だから、安心しろ。俺なんかいなくても、お前は――」

「ジュダ」


 何かを制するように、アンジェリーナはぽつりと言った。


「もう、隠さなくていいんだよ」



 琥珀色の瞳が、まっすぐにこちらを見つめていた。

 その透き通ったまなこが、あまりに綺麗で、俺の心の奥底まで見通しているようで。

 自分の命の灯火が、あと少しで尽きてしまうという事実と、彼女の静かな優しさとに、俺はもう、無理だった。



「――本当は、死ぬのが怖いんだ」


 いざ蓋を開けてみれば、無理やり押し込めていた気持ち。


ギルあいつには格好つけたけど、そうじゃない。あれはただ、自分に言い聞かせていただけだ。そうしないと、不安が、恐れが、自分を飲み込んで離してくれないから」


 湧き上がってきては溢れて、もう止めどなく流れてくる。


「本当は、俺だって、お前らみたいに前を見て歩いていきたい。お前らと一緒に、明るい未来を夢見たい。“行けない”なんて言い訳だ。本当は、行こうと思えば行けたんだ。茨を切ろうと思えば自分で切れたし、川だって、渡ろうと思えば、どんなに時間がかかっても、辛くても、泳いで渡れたんだ。でもずっと、言い訳ばかりして、そこで立ち止まっていた」


 醜い心が、露呈する。


「お前とクリスが二人で、楽しそうに話しているときも、あれは自分とは身分も異なる、全く違う人間なんだって、絶対に届かない場所なんだって、そう信じ込ませて、わざと触れないようにしていた。それなのに、ギルがいきなりやってきて、俺なんか、軽々越していって、いとも簡単にその場所にたどり着いてしまった。だから俺は錯覚してしまった。自分でも、あそこに行けるんじゃないかって」


 薄汚い闇が、こぼれて、こぼれて。


「行こうと思った。行けると思った。実際、たぶん行けたんだ。でも――そのとき押し寄せてきたのは、希望じゃなく、絶望だった」


 情けなく、唇が震える。

 視界が潤んでもう、何も見えなくなっていた――。



「――っ怖かったんだ!本当は。ここで先に進んでしまえば、進める自分を認めてしまえば、今までの、過去の自分をすべて否定してしまうことになるんじゃないかって。これまで積み上げてきた何もかもを、無に帰してしまうんじゃないかって。


 初めての戦場で、人を斬り殺したとき、俺は、ここでしか生きられないんだって、そう思い込むことにしたんだ。だって、そうじゃなきゃ、俺は一体何者なんだ?周りが固まっている中で、平然と、何人もの人を殺せるやつなんて俺は知らない。戦場にしか、俺の居場所は存在しないんだって、そう思わなきゃ、心が耐えられなかった。


 でも、俺はお前と出会って、それがわからなくなった。俺も、もしかしたら、お前の隣にいられるんじゃないかって、淡い期待を抱いて、抱いたときにはもう遅くて。生まれた気持ちはもう消すことなんてできなくて。ふとした瞬間に、どんどん膨らんで、俺の心を狭めるだけ。でもそんなこと、見つかってはいけないから、我慢して、隠して――でも、また辛くなって、そのたびに溢れ出そうな気持ちを抑えて、飲み込んで――でもまたすぐに胸が辛くなって、喉が痛くなって、隠して、隠して――でも結局、抑えきれなかった。


 お前を傷つけた。一番傷つけてはいけないものだったのに。ギルも、苦しめた。謝らなきゃいけなかったのに、謝ることができなかった。それなら、自分をずっと悪い奴にして、この気持ちは墓場まで持って行こうと、そう決めたのに――今、溢れてしまった。


 俺は結局、全部全部中途半端で、覚悟も何もなくて、お前らの眩しさと自分の闇との間に勝手に苦しんで、俺は、俺はっ、もうどうしていいのかわからない――!」




 本当は、そうじゃないって否定してあげるべきなんだと思う。

 だって、そうでしょう?

 私だって、ギルだって、クリスだって、今の自分と未来の理想との乖離に苦しんで、それでもどうにかこうにかやっている。

 結局、毎日毎日誤魔化しているだけなんだよ。

 あなたと私は何も変わらないんだよ、って――。


 でも、きっとそれは、じゃない。


「ジュダ」


 涙を拭うこともできず、ただ苦しそうに声を上げるあなたに、今、私ができることは――。


 アンジェリーナはゆっくりと、ジュダのもとへ近寄り、そして仰向けの体、その右すぐ側に腰を下ろした。


「私は、ジュダとただ、話がしたい。どんなことでも、小さなことでも、二人だけの秘密の話がしたい」

「っ秘密?」

「そう。本音を言い合って、くだらない思い出話で笑い合って。そういうの、意外としてこなかったんじゃない?」


 すんと鼻を話すジュダに、アンジェリーナはニコッと微笑んだ。


「――だからね、ジュダ。もう、自分を責めないで」


 そう言うと、アンジェリーナはジュダの頬をなぞった。

 ゆっくりと、優しく。


「ごめん、ごめんっ。アンジェリーナ。ごめん――」


 それからしばらく、ジュダのその肌が乾くまで、アンジェリーナはずっと涙を拭い続けた。




 ――――――――――


 ――今でもよく思い出す。


「――で、あのとき、ジュダが先回りしていてさぁ、いやそりゃあびっくりしたよ」

「馬鹿。俺がどんだけ大変な思いをしたことか」

「えぇ?それを言うならこっちだって苦労したよ?だってジュダ、本当に岩みたいだったんだもん」

「はぁ?それならお前は、ただのじゃじゃ馬娘だったろうが」


 ジュダと過ごした、二人きりの時間。


「ジュダがさぁ、クリスのせいで打ちひしがれて――」

「やめろ!恥ずかしい」

「ははっ、必死!」


 今思うとあれは、たった10分程度の時間だったのだろう。

 それほどまでに、ジュダの体は弱りきっていたから。


「ギルって、初め本当に生意気だったよね」

「お前も似たようなものだったろうが」

「でも、あれほどじゃなかったでしょう?」

「――まぁ、そうだな」


 でも、どうしてだろう。

 たぶん二人とも、あの時間がとても長く感じられた。


「最後の最後まで、本音を言わないって、人としてどうかしていると思うけど」

「――悪かったよ。ったく」


 本当に、くだらない話をした。

 他愛もない思い出話をした。

 特に何の、色付く話もなく。


「本当、ジュダって頑固だよね」

「お前に言われたくねぇよ」


 ただただ、楽しかった。

 二人とも、その時間が有限であることを知っていたとしても。


「ふふっ、似た者同士」

「ははっ、どうだろうな」


 二人は確かに、笑っていた――。




 ――――――――――


「ん、うっ――」


 月が、ぼやけて見える。

 視界が、霞む。

 瞼を開くのが、だるい。


「ジュダ?」


 柔らかなアンジェリーナの声が、遠く聞こえる。


「もしかして、眠い?」

「――ん。そうかもしれない」


 ――駄目だ。見えない。


「アンジェリーナ、もう少し、近く――」

「ん?こう?」

「――もう少し」

「ん?」

「もっと」

「――これなら、どう?」


 そのとき、二人の顔の距離は30センチにも満たなかっただろう。

 アンジェリーナの爽やかな笑みが、こちらを覗き込んでいた。


「うん、よく見える」

「よかった」


 こうして死の間際になってみて改めて、目の前の光景を不思議に思う。

 まさか、一国の姫様に見守られながら、死ぬことになろうとは。

 数年前の自分に言ってもきっと、信じてくれなかっただろう。


 死ぬのが怖い。そう言って泣き叫んだくせに、今はただ、彼女のことだけを考えている。

 月の光に照らされて、白い肌が輝き、黒い髪が煌めき、琥珀色の瞳が透き通り、そのどれもに胸動かされる。

 こんな、死に方ができるだなんて、俺は本当に――。


「ジュダ、言い忘れていたことがあるの」


 唐突に声が聞こえ、ジュダは閉じかけていた瞼をぐっと見開いた。


 アンジェリーナ、今さら、何を――。


「私、クリスに『ごめんね』って言ったの」

「え」

「舞踏会のときに」


 あ――。


 頭にふっとあのときの映像が浮かんだ。

 去り際、クリスに何かを伝える、アンジェリーナの姿が。


 あれは、そういう――え、“ごめん”?


「ねぇジュダ、それでね、私一つ、嘘をついたの。舞踏会の夜に」

「う、そ?」

「そう。大事な嘘」


 ふっと吹けば飛んでしまうような意識をどうにか保ちながら、ジュダはアンジェリーナの声に耳を傾けた。


「あの夜、私、『一つ、わがままを聞いてくれない?』って言ったでしょう?でもね、もう一つ、聞いてほしいの」


 そのとき、左頬に、アンジェリーナの右手が触れた。

 そして、細まる目にはっきりと、彼女の表情が映し出された――。


「ジュダっ、大好き――!」



 あぁ本当に、こんなことがあっていいのだろうか。


 必死で涙を抑えようと、泣き笑いの顔をして、アンジェリーナが俺をまっすぐに見ている。


 こんな、美しい女性ひとを永遠に、俺の心に縛り付けるような真似――。



 ――まぁいっか。

 最期に一つ、我儘くらい。



 最後の力を振り絞り、震える右手を持ち上げ、俺はアンジェリーナの左頬に、そっと触れた。


「愛してる、アンジェリーナ――」



 落ちゆく右手を必死に支え、ゆっくり顔を近づける。


 それは、唇と唇を重ねるだけの、軽いキスだった。

 でもそれは、二人にとって、永遠にも代えがたい、甘い甘いひと時だった。


 俺は、なんて幸せ者なのだろうか。


 沈みゆく世界の中で、俺はそれだけを想っていた。






 ――――――――――


 え?今、ジュダさんが笑ったような気が――。


 教会の冷たい石畳の上、かすかに、ジュダの口元が緩んだように見えた。


「なぁ、アンジェリーナ、これ、ジュダさん笑って――」


 そのときふと横を向いて、ギルは言葉を失った。


 曇りなきまなこに、穏やかな死に顔を捉え、アンジェリーナは一筋の涙を流していた。

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