第183話 最後の手合わせ

「どうしたんだ。こんなところに呼び出して」


 薄暗い部屋。

 高く造られた天井の電灯は、光を灯すことなく静まっている。


「うん。ちょっとね」


 柔らかな声が稽古場に響く。


「なんで、電気も付けずに――」


 そう言いかけて、顔を上げたジュダははっと息を飲んだ。


 射し込む月光、大きな窓を背に、アンジェリーナがそこにいた。

 淡いブルーのドレスが光沢を放ち、透き通った肌が白く照らされている。

 逆光で表情は見えずとも、その姿が、影が、目を奪って離してくれない。


「――まだ、着替えてなかったのか」

「それを言うならジュダも」


 かすかに見える、琥珀色の目には、式典服を着たままのジュダの姿が映っていた。


「ねぇ、覚えてる?この部屋」

「え――」


 そう問いかけると、アンジェリーナはゆっくりと壁に向かって歩きだした。

 柔らかな笑みを含んだ横顔が、月の光に映し出される。


 その顔が、こちらを向いた。


「ジュダと、初めて剣の手合わせをした場所」


 途端、ジュダの脳裏に2年前の情景が頭をよぎった。


「――そうか。そうだったな」


 心ここにあらずのジュダがあまりにおかしかったのだろうか。

 アンジェリーナはふふっと笑うと、上機嫌にコトっと何かを動かした。

 数秒後、ジジッという音と共にゆったりとしたワルツが流れ出す。


 優しい弦楽器の音を背に、アンジェリーナは一歩二歩とジュダに近づいた。


「ねぇジュダ、一つ、わがままを聞いてくれない?」


 そう言うと、アンジェリーナはすっと右手を差し出した。


「――私と、踊ってくださらない?」



「はぁ!?」


 一瞬の思考停止。

 数秒後、ジュダは派手に声を上げた。

 信じられないという面持ちで、困惑を露わに声を荒げる。


「お、お、踊る?俺と、お前が!?――何言ってんだ!馬鹿じゃねぇのか!?」

「ふふっ」


 ジュダの混乱をよそに、アンジェリーナはさも楽しそうというように、悪戯っぽく笑った。


「お、俺は、お前と違って一般庶民だぞ!?踊りの作法なんか、わかるわけがない」

「大丈夫だよ!ちゃんとリードしてあげるから」

「そ――お前な!」


 そういう問題ではないと、ジュダはふるふる首を振った。


「第一!立場があるだろ、俺とお前とじゃあ。お前は、この国の姫様で、対する俺は、一介の近衛兵で、しかもパレス出身。どう考えても、俺なんか、不釣り合いだ――」

「いいじゃん、どうでも」


 その言葉に、ジュダはぱっと顔を上げた。


「最後なんだから」


 そのときようやく、彼女の顔が見えた。

 アンジェリーナは苦しそうな、今にも泣き出しそうな顔でこちらに笑いかけていた。


 そして気づいた。

 今までの、からかうような彼女の言葉。

 そのどれも、本当はどんな顔をして、放ったものだったのだろうか。


 もしかしたら、俺が部屋に足を踏み入れた、その瞬間からずっと――。


 かすかに震える彼女の声に、きっと絆されてしまったのだろう。

 あるいは、『最後』というずるい言葉に、決心を惑わされてしまったのかもしれない。


 何か、糸が切れたような音がした。


「――そうだな。『最後』だもんな」


 ジュダはぽとりと呟き、そしてふっと笑った。


「仕方ねぇなぁ。お前のわがままなんか、今までいくら聞いてきたことか。最後に免じて、乗ってやるよ」

「えぇ?何それ?私、そんなにわがまま娘だった記憶ないんだけど」


 売り言葉に買い言葉。

 子どものようなやり取りに、二人はそろってははっと笑った。


「で?俺はどうすればいい。本当に、踊りなんて一個もわからねぇぞ?――というかお前も、リードなんかできるのか?」

「えー?ジュダ知らないの?」

「あ?」


 あからさまにそう煽ると、アンジェリーナはニヤッと笑った。


「私、誰かさんのおかげで、ダンスの授業ではもらってるんだから」

「花丸?――あ」


『姫様がとする所作、ダンス、ピアノの授業において、教師から優秀の評価を得たならば、要望を受け入れましょう』

 ――『イェイ!優秀評定3つ!』


「――そんなこともあったな」

「ね?そうでしょう?」


 すると、アンジェリーナはすたすたとこちらに寄ってきた。

 距離の近さに、なぜか息が詰まりそうになる。


「左手を、こう差し出して」

「こうか?」

「そう」


 囁き声に、心臓が震えている。


 そのとき、二人の目が合った。

 何を言うわけでもない。ただ、見つめ合うだけ。


 しかし、アンジェリーナは訴えていた。何かを期待するかのように。

 そんな上目遣いな瞳を見て、ジュダは呆れたようにふっと笑ってみせた。


 何も言わなくていい。

 今は、それでいい。


 右足を一歩後ろに引き、腰を落とし、左足を床と垂直に立てる。

 そして彼は、ささやかな笑みと、ぎこちない左手を贈ってくれた。


「俺と、踊ってくれないか?アンジェリーナ」


「えぇ、もちろん」




 きっと、言わなければならなかったこと。

 そんなもの、山ほどあったのだろう。


「足をこっちに――ってわっ!」

「いや、あぶねぇって」


 でも、どうしてだろうか。


「お前なぁ」

「ねぇ、もう少し力抜いてよ」

「無茶言うな!」


 こうして、くだらないことで笑い合って、こうやって、手を繋いで。

“当たり前の日常を”なんて言ったけど、最後の最後に、欲が出てしまった。


「もう!――ふふっ」

「くっそ、ははっ」


 結局、私はリードなんてろくにできなかったし、ジュダも全然うまく踊れなかったけど、二人一緒に鼓動を躍らせて。

 曲が終わるまでずっと二人、笑っていた。


 その日、その空間だけには、確かに、二人の世界が広がっていた。



 その翌日、早朝、何者にも別れを告げることなく、ジュダは城を後にした。






 ――――――――――


 ダッダッダッ――。


 誰かが、廊下を走っている。


「ハァ、ハァ、――」


 息を切らして、誰かが、こっちに走ってくる。


「アンジェリーナ!!」


 バンと勢いよく扉を開け、ノックもなしに飛び込んできた男を見て、すべてを察した。

 汗を滲ませ、目を見開き、ギルは告げた。



「ジュダ教官が――――戦死したって」



 それは、ジュダが城を発ってからわずか、二週間後のことだった。

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