第177話 導火線

 あの後、ジュダさんは現れなかった。

 結局、顔を見せたのは勉強会が終わって少しした後で。


「どうしたんですか?」

「急用が入った。悪い。何の連絡も入れずに」


 そう言ってジュダさんは深々と頭を下げた。


「また、パーティーの準備ですか?」

「まぁ、そんなところだ」


 口では肯定していたけれど、よくよく思い出してみればそのとき、ジュダさんは目を逸らしていた。



 平穏な日常を求めるアンジェリーナのために、俺もまたその日常を守りたいと思った。

 でも、これはまた別問題だ。

 これを見逃すわけにはいかない、そう思うから。


 ――――――――――


 7月18日。

 今日は午後から明日のパーティー準備のため、アンジェリーナ、ギル、ジュダ、全員が拘束されることになる。

 そして明日は一日、パーティーの最終準備と、夜は本番が訪れる。

 つまり、ジュダが出立するまでの期間、今日の午前中が最後の自由時間というわけだ。

 そんな貴重な時間を何に費やすのかといえば――。



「よし、やるぞ。鍛錬!」


 アンジェリーナはいつも通り、意気揚々と森を進んでいた。

 こうして見てみるとやはり、アンジェリーナは剣を携えているときが、一番生き生きしている気がする。


 森の広間へ到着するや否や、アンジェリーナはこちらをくるりと振り返った。


「じゃあ、今日もまた最初の30分は魔法の自主練習をしているから。ジュダとギルはノータッチでよろしくお願いします」

「了解」

「わかった」


 アンジェリーナはそそくさと広間の奥へ駆けていった。


「ふぅ。じゃあ俺たちも始めるか。いつものトレーニングから――」

「ジュダさん」


 ジュダの言葉を遮り、ギルは真剣な眼差しをジュダに向けた。


「話があるんですけど。少し移動しません?」




「昨日、仕事終わった後、本当は話そうと思っていたんです。でもすぐに、部屋に戻られてしまったので」

「悪かったな。昨日は少し疲れていたんだ」


 ギルを先導とし、二人は広間から来た道を戻っていた。


「あまりアンジェリーナから離れるなよ?」

「大丈夫です。この辺りで」


 そう言って、ギルは足を止めた。


 ここは少し開けた、泉の前。

 すぐ横には赤く輝く球体が見える。


 ここならアンジェリーナに聞こえることはない。

 落ち着いてちゃんと話せるだろう。


「何の話かは知らないが、できるだけ手短に――」

「ジュダさん、昨日どこに行ってたんですか?」


 そう問いかけた途端、ジュダの顔が一瞬にして曇った。


「勉強会のとき、いませんでしたよね?」


 下手に前置きをする必要はない。

 行くなら直球だ。


 顔を背け、目を逸らし、ジュダは明らかに動揺しているようだった。


「だから、あれは、パーティーの件で急用が――」

「昨日、たまたま夜に特別警備隊の人に会ったんで、聞いてみたんです。今日、何か緊急の集まりはあったか?って。そしたら、なかったって言ったんです」


 即座に看破され、ジュダはぱっと口を閉ざした。


 大丈夫。俺はまだ冷静だ。

 頭の芯は冷えている。


「ねぇジュダさん、嘘をついてまで、どこに行ってたんですか?」


 ギルの問いかけに対し、ジュダは黙りこくったまま。

 しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。


「正直に話してください。わかっているでしょう?これは、完全なる職務放棄です。真面目なジュダさんが嫌うであろうことです。それなのに、なぜ?このままじゃ、納得できません」

「――国王様に報告したいのならば、そうすればいい」

「そういうことじゃなくて――!」


 はぁ。


 ギルは深くため息をついた。


 ようやく口を開いてくれたと思ったら、このざまだ。

 このままじゃあ、おそらくいつまで経っても話が進まない。


 ギルはあくまでゆっくり、丁寧に言葉を選んでいた。


「どうしたんですか?ごまかすだなんてジュダさんらしくない」

「――“らしい”って何だ?」

「え」


 そのとき、ジュダがぼそっと何かを呟いた。

 しかし、聞き返したギルの問いに答えることはなく、そのままうつむいて――。


「俺だって昨日、あの場に行こうとしていた」


 ジュダは誤魔化すように話し始めた。

 視線はなおも下を向いたまま。


「でも、いなかったじゃないですか」

「いたんだ。本当に、あの場に」


 いた?

 何を言っているんだ?


 どこか論点のずれた受け答えに、ギルは訳がわからなくなってきていた。


「あの、この期に及んでまだ――」

「本当に!どこにも行っていないんだ」

「え?」


 急に声を荒げたジュダを、ギルはぽかんとして見つめた。


 どこにも行っていない?


 なおも息を荒げたまま、ジュダは矢継ぎ早に続ける。


「勉強会のとき、俺は所用で少し遅れていったんだ。お前にもちらっと言ったよな。書類を提出してから行くって」

「えぇ、まぁ。でも、そんな小一時間かかるようなものじゃ――」

「だから、すぐに戻ったんだ」


 見たこともないほど、興奮している。

 こちらが口を挟む隙もない。


「すぐに戻った。たぶん15分もかかっていない。部屋の扉の前に立って、ドアノブをに手を掛けようとした。でも――!」


 そのとき、ジュダは両手をぎゅっと握りしめた。


「手を伸ばした途端、震えが止まらなくなった。体が硬直して動かなくなった。何が起こったのか、自分でもわからなくて。そうしたら部屋の中から話し声が聞こえてきて、でも内容はよくわからなくて、ただ、三人が楽しそうに話しているのだけはわかった。そう思ったらなぜか、ますます腕の震えが止まらなくなって、動揺したまま、気が付いたら30分ほど経っていた」


 心なしか声が、手が、震えている。


「もうすぐ勉強会が終わってしまう。どうしよう。そう思って慌てて、でもやっぱり中には入れなくて――それで、どこに行くでもなく、時間が過ぎるまで、中庭の隅っこに座り込んでいた」


 衝撃的な真実に、ギルはただただ呆然と言葉を失っていた。


 どうせ、ジュダさんのことだから、なんだかんだ言って、俺の知らないところで何か、緊急の用事が入っていたものだと思っていた。

 でも――。


 ここにいるのは、誰だ?


 目の前には、肩を震わせ縮こまる、見たこともない男の姿があった。

 まるでお化けを怖がる子どものように。


「もうわからないんだ。どうすればいいのか。お前が来てから」

「俺?」


 弱々しい声。

 突然の切り替えに、ギルは怪訝な目でジュダを見つめた。


「俺の目の前にはずっと、越えられない障壁があると、そう思っていた。だがお前はそんな俺の常識を易々と超えて、その壁を乗り越えてしまった。文字だってほとんど読めなかったのに、いつの間にかアンジェリーナやクリスと同じ本を読んで感想を言い合えるまでになっている。それに、勉強会も。二人の高度な会話の中に簡単に入り込んで――」


 果たして、俺の存在は、今の彼の目に入っているのだろうか。

 おそらくブレーキが壊れてしまったのだろう。

 自分の世界に入り込んでしまったかのように、ジュダの口は止まらない。


「俺の後ろについて来ていたと思っていたお前が、気が付けば俺のはるか先を走っている。俺ができないと思っていたことを、全部否定されて――それなら、これから俺はどうすればいいんだ?」




『易々と』とか『簡単に』とか、こちらの気持ちも考えずにぺらぺらと。


 最初に襲ってきたのは、どうしようもない苛立ちだった。


 自分のことを拡大解釈されたようで、腹が立った。

 俺だって、俺なりに苦労してきた結果なのに。


 でも、それよりも――。


 自然とギルは、歯を食いしばっていた。


 ジュダさんもきっと、自分の気持ちを整理できていないのだろう。

 発言はどれも脈略が無くて、抽象的。

 俺に語りかけているようで、どこか自問自答のようにも聞こえる。


 要するに、昨日来なかったのは、己と俺ら三人との間に、何か大きな溝が見えたから。

 怖くなってどうしようもなくなって、動けなくなってしまったから。

 この人は、自分がどうすればいいのかわからなくなっている。


 でも、その答えは、単純なことなんじゃないのか?



 ――だからこそ、どうしようもなく頭にきた。



「そんな私情のために、アンジェリーナの思いを踏みにじったんですか」

「――あ?」


 腹の底が熱い。

 形容しがたい怒りが、自分の中で渦巻いている。


 鋭い眼光を突き刺し、ジュダを睨む。

 導火線に、火が付いた瞬間だった。

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