第154話 安い挑発
次の朝、アンジェリーナはドキドキしながら二人を待っていた。
昨日はどうにか乗り切れたけど、やっぱり何となく気まずかったし。
と思えば、ギルのほうは何だかやけに積極的な感じがするし。
――もしかして、吹っ切れたわけじゃないよね?
そのとき、コンコンコンと部屋の戸が叩かれた。
「おはよう」
「おはよう、アンジェリーナ」
「おはよう、ジュダ、ギル」
いつも通りジュダとギルが中に入ってきた。
「やっぱり今日は雨だったかぁ」
「そうだね。残念」
あれ?普通。
ギルは見た目特に変わった様子はなく、昨日感じた距離感の近さも元戻りになっているように感じた。
意外と気のせいだったのかな。
「じゃあ、剣術指導はお休みですかね?ジュダさん」
「――あぁ、そうだな」
え?
その一連の光景にアンジェリーナは目を疑った。
今ギル、『ジュダさん』って言った?
それに――。
アンジェリーナが目を向けたほう、ジュダは目をそらし、うつむいているように思えた。
結局あの後、何があったのか聞くタイミングもなく、時間だけが過ぎていった。
事前に言われていた通り、ジュダは戦勝記念日のパーティーの準備で駆り出されるようになり、そもそも顔を合わせる機会も少なくなって。
ギルに聞こうかと思ったけど、告白を立ち聞きしてしまったがゆえに、こちらから切り出すのは気が重いのであった。
たぶん、関連していると思うし。
それにしてもギル、何の予兆もなく『ジュダさん』呼びだなんて。
今まで散々ジュダに、『教官』呼びをやめろと言われても、やめる気配もなかったのに。
どうしていきなり?
というかそもそも、呼び方を変えようと思い立って、そんなにすぐに変えられるものなの?
ジュダも、せっかく望むとおり呼び名が変わったのに、全然嬉しそうじゃないし。
それどころかずっと気持ちが沈んでいるように見える。
本人は至って普通に仕事に励んでいるようだけど、それでもいつもより雰囲気が暗いことくらいはわかる。
それに加えて、ジュダめ、全然会えないし。
まぁ仕方のないことなんだろうけど。
こう、仕事に追われるってことは、ジュダがそれだけ周りに認められているってことなんだろうし。
このままどんどん重要な役割を任されるようになって、いつかはギルもそうなって、パレス兵の地位自体が上がっていけばいいんだけど。
そうすればジュダもちょっとは自分を卑下しなくなるかな、なんて。
そこまで考えて、アンジェリーナはため息をついた。
はぁ。それにしても、二人の間に一体何が?
アンジェリーナの心の中には、真っ黒な悩みの暗雲が立ちこめていたのだった。
――――――――――
そして特に何かが進展することもなく、迎えた週末――。
「だから、株だって」
「いやいやだから、カブ、なんだろ?」
「違う!」
日曜日、いつもの勉強会。
なぜかクリスを差し置いて、アンジェリーナとギルは言い合っていた。
「今話しているのは――」
「カブだろ?」
「違う。そっちじゃない。白くて丸っこくておいしい野菜じゃなくて、株券のほうの株!」
「だからなんであのおいしいカブが券になるんだよ!」
「だ・か・らー!」
「まぁまぁ」
白熱する二人に、クリスが割って入った。
「アンジェリーナ様、説明してあげては?ギルさんにもわかるように」
「あ、うん」
アンジェリーナはゴホンと咳払いして話し始めた。
「株、株券っていうのはね?会社が資金を投資してもらうときに発行する紙のこと」
「投資――つまり金をあげるってことか?」
「そう。この会社、将来性あるし良さそうだなぁって思ったら、その会社の株券を買うの。それで、問題はその株券をいつ売るかっていう話なんだけど」
「売る?」
えーっと。
アンジェリーナは頭の中で情報を整理し、説明を続けた。
「株の価格は上下するの。例えば会社の業績が良かったら値段は上がるし、逆に悪かったら暴落する。その辺の予想をうまくして、株を売り買いする。そして結果的には自分が儲けるようにする。これが株式投資ってやつ」
「え。儲けるの?金渡したのに?」
「ほら。買ったときよりも高い値段で売れば、その分自分に返ってくるでしょう?」
「えぇー?なんか魔法みてぇ」
ふぅんとギルが唸る。
その横で、補足すると、とクリスが切り出した。
「その他にも、株式にはいろいろな使い方があります。例えば、株を保有していることで、その企業から優待を受けられる場合もありますし、株主総会といって、株を保有する、株主が会社の方針を一部決定することができる、といったこともできたりします。膨大な株を保有すれば極論、会社を乗っ取ることも可能なんですよ」
「は!?」
信じられないという顔でギルは声を上げた。
「何だよそれ!こっちが会社に、頑張ってねって投資しようとしていたのに、そうじゃなくて、こっちが代わりに会社を経営しようってなるわけ?わかんねぇなぁ」
ギルは眉間にしわを寄せて腕を組んだ。
「どうですか?経済の世界も結構面白いと思いませんか?」
そう言って、クリスは上目遣いにギルを見た。
「うーん。まぁ今のは結構おもしろいなぁって思ったけど――」
そう言ってギルは、アンジェリーナの机の上に積み上げられた本たちに目を落とした。
「その本を読む気にはなれねぇなぁ。だって文字いっぱいじゃん」
「いや、そうだけどね」
ギルの意見はもっとも。
私は本が好きだし、小さい頃から読んできたから抵抗はないけど、文字もよくわからないような人に、この本をいきなり読めと言っても、読めるわけがないというか――。
「じゃあ、手始めに『魔界放浪記』を読んでみては?」
「まかいほうろうき?」
「あ!その手があった!」
クリスの提案に、アンジェリーナはばっと立ち上がり、その足で本棚に向かった。
「これこれ!『魔界放浪記』!」
「ん?」
ギルに手渡したのは『魔界放浪記』の第一巻。
アンジェリーナが初めて外の世界のことを知った大事な一冊だ。
「ちょっと中見てみてよ」
「えー?俺、文字読めねぇんだけど」
「いいからいいから!」
アンジェリーナに急かされ、ギルは渋々というふうに、ページを開いた。
どうだろう?
アンジェリーナがじっと見つめる中、ギルはページとにらめっこしていた。
だが、しばらくして、パタンと本を閉じてこちらを見たギルの表情は、とても良いものではなかった。
「ダメだ。やっぱり文字酔いする」
「えー?」
アンジェリーナはがっくりと肩を落とした。
うーん、やっぱり駄目だったか。
まぁ、魔界放浪記ってそれなりに文字数多いしね。
内容だけで言えば、すごい面白いんだけど。
――残念。
「文字がわからないのであれば、この際勉強してみては?」
「「え?」」
暗い雰囲気の中、クリスは唐突にそう言った。
「その『魔界放浪記』は、社会的に勉強になることもたくさん書かれていますが、それ以上にストーリーの完成度の高い作品です。経済のことがわからないとしても、単純に楽しめるいい本だと思いますよ」
まぁそうかもしれないけど。
アンジェリーナはちらりとギルを見た。
ギルは突然の提案に少しぽかんとしていたが、はっと思い出したように、すぐさま反論にかかった。
「いやいやいや!無理だって。だいたい、そういうのって子どもの頃に勉強するんじゃねぇのか?大人になってからじゃあ――」
「遅いなんてことはありませんよ?大人になってからも勉強は続きますから」
「だけどなぁ」
ギルは納得のいかない様子でうーんと眉間にしわを寄せた。
その一方、アンジェリーナは密かに胸を高鳴らせていた。
文字を勉強――。
そうか。そうすればギルも本を読めるようになって、そうすればギルも一緒に――!
「よし!」
アンジェリーナは再びばっと立ち上がり、本棚に向かった。
しかし、今度取ってきたのは、分厚い本だったのだが。
「アンジェリーナ、これは?」
「辞書!」
ドンと重い音を響かせ、アンジェリーナは机に辞書を置いた。
「じしょ?」
「え、もしかして辞書も初めて?」
その言葉にギルはおずおずと頷いた。
「辞書というのは、主に言葉の意味を調べるための本ですね。このように、綴り順に言葉が羅列してあるんです」
そう言うと、クリスは辞書をペラペラとめくって見せた。
「知りたい言葉があったときに、綴りを手掛かりにその言葉を探すんです。ほら、こういうふうに、言葉の欄にはそれぞれ意味が複数載っていて、慣れればこんなに便利なものはありませんよ」
「な、なるほど。つまり、この『魔界放浪記』で出てきた知らない言葉を、この辞書で探せばいいってことだな?」
「はい」
一連の説明を聞いて、ギルは思いが少し傾いたのか、うーんと悩んでいる様子だった。
私としては、ぜひとも乗り気になってほしいんだけど。
「いや、だとしても大変すぎるだろ。俺がどんなに言葉知らないと思ってるんだ?見た目薄そうな本ではあるけど、全ページ全単語調べていたら一体どれだけの時間がかかることか」
まぁ、そうだよね。
顔をぱっと上げて、否定したギルを見て、アンジェリーナは静かに頷いた。
残念だけど、こればかりはギルの問題。
仕方がないか――。
「じゃあ諦めるんですね」
「は?」
え?
思わぬ横やりに、アンジェリーナは耳を疑った。
嘘でしょ。今、あのクリスが、挑発した?
「何だよ」
案の定、ギルは喧嘩腰である。
しかし、クリスは臆することなく続けた。
「だってそうですよね。まぁ、文字が読めないこと自体は今の社会において、特段珍しいことではありません。ですが、文字が読めることで広がる世界もあるのですよ。そして現に、その世界をアンジェリーナ様は生きている。私もです。わかりますか?今、ギルさんと私たちの間にはとてつもなく大きな差があるのですよ。それを挑戦もせず諦めるだなんて。ギルさんってそんなに臆病でしたか?」
その発言に、アンジェリーナは絶句していた。
すごい。怒涛の詰めだ。
クリスってこんなふうに人を追い詰めるの?
というかこの挑発、一体どういう意図で?
え、もしかして告白の件関係ある?
だとしたらギルは絶対――。
そのとき、バンと大きな音が響き、アンジェリーナの体が跳ねた。
見ると、ギルが期待を裏切ることなく、
「あぁわかったよ。やってやるよ。やりゃあいいんだろ!?」
ギルはそう声を張り上げ、がばっと本をまとめて持ち上げた。
その雑な扱いに思わず二人が駆け寄る。
「ギル!」
「ギルさん、たぶんその本、特に辞書、1万マリンはしますよ」
「!!」
その言葉に、ギルは慌てて本をそっと机に置いた。
「そ、そんなの先に言えよ!びっくりしただろうが」
「いや、それはギルが」
そのぐだぐだな様子に、アンジェリーナははぁとため息をついた。
「ギル、その本と辞書、貸してあげるから」
「え、いいの?」
「うん。だからどれだけ時間がかかっても、ちゃんと一冊読み切ってね?それで読み終えたら、感想を共有し合おう」
「お、おう!?」
ギルはたぶんよくわからなかったのだろう。
小さくガッツポーズをして、首を傾げた。
それにしてもギル、いとも容易く安い挑発に乗ったなぁ。
今のギルの語彙力じゃあ、1年かかっても読み終わらなそうだけど。
でも――。
アンジェリーナはふふっと笑みを浮かべた。
楽しみが増えた。
そのとき久しぶりに、アンジェリーナは、心から笑っていた。
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