第112話 少女は志を立てる
「私がやりたいことは――裁判所を作ること」
「――え?」
ジュダは思わず聞き返した。
これはまた、斜め上からの返答で。
「あ、裁判所っていうか裁判の制度っていう感じなんだけど――意外?」
首をすぼめ、アンジェリーナはこちらの様子をちらちらと伺った。
「あー、まぁ。意外と言えば意外かな。だってお前、そんなこと今まで一言も言ってなかっただろう?てっきり統一民族政策の廃止とか、パレス制度の廃止とか言うもんだと」
「うん。まぁそれもやりたいことの一つではあるんだけどね」
そこでアンジェリーナは言葉を切り、ふぅと息を吐いた。
「2年前、私が無断外出して事件に巻き込まれたのは知ってる?」
静かに吐き出された言葉に、空気が変わったのを感じた。
2年前――。
強盗犯の人質になったやつか。
「一応は。警護に就く前に資料で読んだ程度だが」
「じゃあそのときの犯人の人がどうなったかも知ってるよね?」
あいつが何を話そうとしているのか、わかった気がする。
ジュダはちらりとアンジェリーナを見て、目線を落とした。
「――『犯人は、その場で斬殺』と書かれていた」
「うん、そう。私はあの場で、犯人が殺されるところを直接見た」
少しうつむき、アンジェリーナは続けた。
「あれからね、ずっと、どうしてあのときあの人が死ななければならなかったのか、考え続けてきた。ずっとモヤモヤし続けてきたの。どうしてこんなに簡単に人が死ななければならないのか。こんなに命が軽くあっていいものなのか」
いつもより心なしか声が低い。
「だから、ジュダに『人を殺せるのか』と聞かれて、心の中がざわめいた。確かに、って思った」
その言葉にジュダは顔を上げた。
その目に、アンジェリーナの姿が映る。
「だってそうでしょう?私が知らなかっただけで、今この瞬間も、誰かがこの国のために戦っている。血を流している。それなのに、自分だけが覚悟も無しに、剣を握るのは違うんじゃないかって」
俺が背負わせようとしていた覚悟。
俺が見てきた世界。
俺が押し付けようとしていた使命。
「でもね、そうじゃなかった」
アンジェリーナは笑っていた。
静かに、微笑みを浮かべていた。
「ジュダ、私ね――」
胸の前にぎゅっと手を握り、アンジェリーナはジュダの目をまっすぐに見つめた。
「私は、この国の王になりたい」
その言葉に息を飲んだ。
ドクンと大きく鼓動が鳴った。
目の前の彼女がキラキラと輝いて見えた。
「この国の王になって、この国を、根本から変えたい。裁判制度を作りたいって言ったのはその第一歩」
アンジェリーナはあくまで穏やかに先を進めていた。
その様子にはっと正気に戻される。
ジュダは冷静になろうと、一つごほんと咳ばらいをした。
「そうは言っても、一応この国にも裁判はあるだろ?」
「うん。見せかけだけどね」
アンジェリーナは口元に人差し指を当て、ポンポンと叩いてみせた。
「これはもともと、自分でいろいろ調べていたんだけど、この国の裁判って、ただ刑を告げるために置かれている形式的なものなんだよね。実際、そこで審議が行われるわけではなくて、だから判決を覆すこともできない」
つまり抜け殻。裁判も何もないってことか。
知らなかった。
「理不尽、だな」
「うん。そしてその原因は法律にある」
「法律?」
ジュダは首を傾げた。
「そう。この国にはちゃんとした刑法が存在しない。だから、裁判官はほぼ独断で刑を決めることができてしまう。そしてそれは、本来捕まえる役目を負っているはずの兵士もまた同じ。ちゃんとした罰が定められていない以上、その場で殺してしまったとしても、罪に問われることはない。現に、不敬罪といったあやふやな罪によって、殺される人が年にどのくらいいるのか」
その言葉に思わず押し黙る。
それをやっているのは同じ兵士。
自分も『不敬罪だ』などと、非難することは多々ある。
「きちんとした裁判所を設置するためには法が必要。そしてその法を適切に作るためには議会が必要。こうした裁判所、議会、そして王宮の3つの権力がそれぞれを統制し合うことで初めて、秩序ある国が作れるの」
すらすらと飛び出す文字列に、ジュダはただただ圧巻されていた。
「――それは、お前が考えたのか?」
「え、いやいやいやそんなわけないよ。本からの受け売り!」
本からの受け売り?
そうお前は簡単に言うが、それがどれほどすごいことか。
10歳児の考えることにしてはずいぶんと――。
「無謀かな?」
黙り込むジュダを、アンジェリーナは不安そうに覗き込んだ。
そんなことはない。
そう問いに首を振ろうとしたものの、ジュダの体は動かなかった。
ったく、本当に俺は――。
しかし、その反応に怒る様子もなく、逆にアンジェリーナはふふっとこちらに笑いかけた。
「私もそう思ってた」
「え?」
ジュダはぱっと顔を上げてアンジェリーナを見た。
穏やかな瞳が優しくこちらを見つめている。
アンジェリーナはすぅっと息を吸った。
「クリスの話を聞くまではね、私も心のどこかで、そんなこと絶対にできない、って思っていたの、きっと。だけどクリスが――」
『あなたが、国王になればいいのです』
アンジェリーナはそっと胸に手を当てた。
「クリスが、私が国王になればいいって言ってくれて。それを聞いて体が震えた。そんなこと考えたこともなかった。いや、できるはずないって思い込んでいた。姫だから、女だからって、知らぬ間に自分で言い訳して。あんなに他人から言われるのは嫌だと思っていたのにね?」
アンジェリーナは笑ってこちらを見つめていた。
その自傷を含んだ笑みに、胸がズキズキと痛んだ。
「でもね、そんな私の世界を、クリスは大きく広げてくれた」
満面の笑みを浮かべ、アンジェリーナは大きく腕を開いた。
「それで私は決めたの、自分のやりたいことをやるって。もう迷わないって」
その様子に、ジュダは思わず顔を背けた。
アンジェリーナはしっかりと現実を見ている。
自分の欠点さえ気づいて克服しようとしている。
その上で、未来まで見据えて。
そのくせ、俺はどうだ?
俺はクリスとは違う。
偉そうに覚悟覚悟と言っておいて、結局、何もできていない。
「だからね、ジュダ」
やっぱり、あいつのそばに俺はふさわしくな――。
「あなたにも、一緒に来てほしいの」
「――――え?」
あまりの衝撃に、ジュダはその場に固まった。
聞き間違いかと、数秒前の記憶を辿るも、思い出すのは紛れもないその言葉。
信じられないという面持ちで、ジュダはばっと顔を上げた。
「ど、どうして?だって俺は――」
「だってジュダは、私の専属近衛兵でしょう?」
至極当たり前な返答に、言葉を飲み込む。
そうだが、いやそうじゃないだろう!
「ねぇ、ジュダ、考えたんだけど」
戸惑うジュダに、アンジェリーナはそっと話し始めた。
「私はまだまだ未熟者で、こうやって一人で決断したところで、結局何もできない。だから周りの助けが必要になる。でもそれってたぶん、これから生きていくうえで絶対に必要なものなんだよね」
どうしてそんなことが言えるんだ?
ジュダはただただ呆然とアンジェリーナを見つめていた。
「ジュダが抱えているもの、私はまだ全然理解できていないと思う。私とジュダじゃ、今まで見聞きしてきたものが全然違うから。まぁ当然だよね?」
「だったら尚更――」
「私、わかったことがあるの。ジュダとクリス。二人が一体何者なのか」
俺とクリスが何者か?
ジュダは口をつぐみ、表情暗く、その先の言葉を待った。
「クリスは、私の前にある壁をぶっ壊してくれる人。常識を打ち破ってくれる人。そしてジュダは――」
俺は――。
「私に見えない壁を見せてくれる人」
え?
そのとき、ジュダの頭の上にはてなが浮かび上がった。
「見えない、壁?」
「そう、壁。世間知らずの私に、現実を見せてくれる人。知らず知らずのうちに壁にぶつかって、けがをしないように教えてくれる人」
その言葉に、ジュダの目が大きく見開かれた。
そんなふうに、捉えてくれるのか?お前は。
「どちらか一人じゃダメなの。わがままかな?」
「え、いや、そうじゃなくて」
「えー?」
煮え切らない返事に、アンジェリーナは不満そうに首を傾げた。
そう言われても、どう反応していいものか。
とここで唐突に、アンジェリーナがパンと手を叩いた。
どうやら我慢の限界に来たらしい。
「あぁもう、難しいことはやめにしよう!つまりはね――」
アンジェリーナはビシッとこちらを指さして言い放った。
「私が、ジュダに、そばにいてほしいの」
そのとき、心の中のおもりが一つ、外れる音がした。
すぅっと胸が軽くような感じ。息がしやすい。
「ジュダ、見て」
そう呼び掛けると、アンジェリーナはおもむろに右手を横に広げた。
言われた通りに視線を向ける。
白い手。
その手をぐっと握ろうとした瞬間、どこからともなく、銀の大剣が
そして小さな手に握られた大きな剣を、じっと見つめる。
「ジュダの言う通り、私が人を殺すと覚悟すれば、この剣は何人もの人を斬り殺してしまう。でもね、私はこの剣を赤く染めたくはないの」
銀の刀身がきらりと光る。
「それこそわがままかもしれない。実現不可能だと笑われるかもしれない。でも私はやれると思うの。だって、私にはその立場がある!」
アンジェリーナはドンと剣を地面に突き刺した。
「私は女王になる。そして誰も血を流さない、誰の血も流させない、そんな国を創りたい。私はそんな“象徴”の剣を振るいたい」
目と目が合う。
その視線がジュダをまっすぐに突き抜ける。
「だからジュダ、付いて来て!」
そのとき、すっと雲間から光が射し、アンジェリーナを照らし出した。
それはまるでスポットライト。
舞台に立つは齢10歳の姫。
偉大なる女王の始まりを予感させるかのように、辺りがキラキラと輝いて見えた。
視界が開ける。
初めて触れる煌めく世界。
はるか遠く、未来を見据える琥珀色の瞳にジュダは思った。
あぁ、俺も、いいのかな。
まだ、夢を見ても。
理屈よりも体が前に出ていた。
ジュダはアンジェリーナのもとへと歩みを進めた。
そしてその足元に、静かに跪く。
「はい、どこへでも、お傍に」
柔らかな日差しが二人に注ぐ。
遥かなる未来をその目に見据えて、二人は確かな一歩を踏み出したのだった。
そう。これは彼女が救国の戦姫となり、女王となるまでの物語。
(第二章 完)
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