第90話 勉強開始

「はぁ、はぁ、どう思う?ジュダ」

「はぁ、何が?」


 禁断の森の広場、いつものようにアンジェリーナとジュダは剣を交えていた。


「何って、クリス様のこと」

「あぁ、許婚か――はっ!」

「うわっ!」


 一閃。

 ジュダの剣がこちらの剣の根元に直撃した。

 一瞬にしてアンジェリーナの剣は宙を舞った。


「痛ったぁ、ビリビリするぅ」


 思わずアンジェリーナはその場にしゃがみこんだ。


「まだまだ、力の受け流しが甘い」

「うぅ」


 手首を押さえるアンジェリーナの様子を、ジュダはじっと見下ろした。


 本格的に剣を教え始めてまだ1か月も経っていない。

 だがその上達ぶりは目を見張るほどだ。

 ここ最近は実戦形式の手合わせもできるようになってきたし。

 ――そろそろか?


「ねぇジュダ」


 その声にジュダは現実に引き戻された。


「だから、どう思った?って」

「あ?俺がとやかく言える立場じゃないことくらい、わかってるだろう?」

「いやそうかもしれないけど」


 アンジェリーナがぷくっと頬を膨らませる。

 その様子にジュダははぁとため息をついた。


「別に、良いんじゃないのか?容姿端麗だし。まぁ、ちょっと、変な奴ではあったが――というか、まだ一回しか会ってないのに、わかるわけないだろ」

「うーん」


 アンジェリーナは首を傾げて黙り込んだ。


 はぁ。ただでさえ、こいつとこんなふうに話しているだなんて、こっちは気が気でないのに。

 言わせるなよ。


「そういえば」


 顔を上げて、アンジェリーナは切り出した。


「ジュダ、舞踏会のとき変じゃなかった?」

「――!!」


 唐突な切り込みに、ジュダの体がビクッと動いた。

 平静を装い、アンジェリーナに目を向ける。


「な、んで、今更」

「だって、突然思い出したから。なんか始めのほう、ぼーっとしてなかった?」


 アンジェリーナの、つぶらな瞳に、ジュダは思わずたじろいだ。


 おいおい、そんな顔で見てくれるな。

 せっかく、こちらが忘れていたのに。


 ジュダはごほんと咳払いをした。


「その際は、すみませんでした。場の空気に少し飲まれていたのかもしれない。あぁあと、お前の姫様らしい姿があまりに新鮮で、困惑していたのかもしれないな」

「は!?何それ!馬鹿にしてる。私だってあんなこと――」

「はいはい」


 アンジェリーナがムカッと苛立ちを露わにしたのを見て、ジュダは早々に話を切り上げた。


 ふぅ。これでいいか。

 俺だって、どうして自分があんなに呆けていたのか、わかってねぇんだよ。

 ただあのときは――。


 ジュダの脳裏にぱっと、あの日のアンジェリーナの姿が浮かんだ。


 ――いつもとの違いに驚いただけだ。

 見ろ。普段の奴は、泥だらけになって剣なんか振るっているじゃじゃ馬だぞ?


「ねぇジュダ、続きやろ!」


 キラキラとした目がこちらを見つめている。

 その様子にジュダはふぅと息をついた。


「わかった。だが、お前もわかっているとは思うが、今日は日曜日だぞ?午後に響かないようにするからな?」

「はーい」


 アンジェリーナは不満そうに口を尖らせた。

 タッタッタッと楽しそうに剣を拾いに行く姿に、ジュダは無意識に口をほころばせていた。


 ――――――――――


 とうとう来たー!本格対面。


 自室にて、アンジェリーナは机に肘を乗せ、手を組んでいた。


 お父様の話では、念願の政治・経済の家庭教師をやってくれるはずだけど、そんなにうまい話があるのかな?

 あのお父様のことだ。何か裏があるのかも。

 気を引き締めていかなくちゃ。


 ――それとは別件なんだけど。


 アンジェリーナはちらりと後ろを振り返った。


「――何だ?」

「いやぁ?」


 なんで勉強会場が私の部屋なの!?


 そう。てっきりいつもの勉強部屋でやると思い込んでいたが、今朝突然、

 お父様が――。


『ん?お前の部屋でやるぞ?』


 やるぞ?じゃないよ!

 そういうことは先に言っておいてよ。

 まぁ、そんなに散らかっていたわけではないし、普通に掃除とかで使用人の出入りはあるから、人が入ること自体に抵抗があるわけではないんだけど。


 アンジェリーナはもう一度後ろを見た。


「だから何だ!」


 ジュダも一緒かぁー。

 いや嫌じゃない、嫌じゃないけど、なんか、あまりに知り合いだと恥ずかしいっていうか。

 仮にも女の子の部屋だし。

 向こうは何とも思っていないのかな?

 まぁ、護衛は岩だなんて言うような人だし、聞くだけ無駄だろうけど。


 はぁ。心配だ。


 アンジェリーナが何度目かわからないため息をつこうとした、そのときだった。


 コンコンコン、とドアが鳴った。


「アンジェリーナ様、クリスです」


 来た!


「はい。どうぞ」

「失礼します」


 静かにドアを開け、クリスが入ってきた。

 休日というのに上下ぴっちりとスーツを着込んでいる。


「こちらに座っても?」

「あ、はい、どうぞ」


 失礼します、とまた丁寧に、クリスは向かいに座った。


 うぅー、緊張する。


「改めて、ご挨拶を」

「え、はい」


 会話を切り出したのはクリスのほうだった。


「クリス=ミンツァーと申します。これからしばらくは、父のもとで仕事を学ぶことになっています」

「あ、アンジェリーナ=カヤナカです。よろしくお願いします」

「はい、よろしくお願いします」


 二人は互いに礼をした。


 ――やっぱり気まずい。

 何かこっちからも話したほうがいいかな?


 嫌々ではあったが、これでも将来の夫となるはずの相手。

 実質初めての対面に、アンジェリーナは妙に気を遣っていた。


「えーっと、クリス様って誕生日は?」

「誕生日ですか?11月7日です」

「なるほど」


 会話終了。


 あー、なんでこういうことしか聞けないの!?

 確か、ジュダのときも最初の頃、誕生日聞いていたよね?

 王宮籠りでちゃんと会話したことがないから、経験不足が露わになる。

 次は何を切り出そう。


「えーっと」

「アンジェリーナ様」

「はい」


 クリスの呼びかけに、アンジェリーナはぴたりと止まった。


「クリス、とお呼びください」

「え?」


 予想外の要求に、アンジェリーナの思考が停止した。


「どうぞ呼び捨てで。敬語もいりません」

「えーっと?え、いやいやいや、許婚の方に、敬語なしはちょっと――」

「いえどうぞお気になさらず」

「いやあの」

「どうかクリスと」

「え、あ、はぁ――じゃあクリス?」

「はい」


 表情変わらず、しかし満足そうにクリスは頷いた。

 その様子に苦笑いを浮かべる。


 完全に押し切られた。

 なんか無表情のまま迫られると妙に圧迫感があるんだよね。

 あぁタメ口になっちゃったけど、お父様怒らないかな?

 もしかして、ジュダもこんな感じだった?

 それならちょっと悪いことしたかも。


 アンジェリーナは改めてクリスを見つめた。


 この人、いろいろとやばい。


「さぁ、大して盛り上がる話もありませんし、始めますか」

「え?」


 唐突に話を切り替え、クリスはガサゴソと持ってきたかばんを漁り始めた。


 始めるって何を?


 するとクリスはドンと机に本の山を置いた。


「政治経済の勉強を」

「――え!?」


 アンジェリーナは驚いてその本たちに目を向けた。

 確かにそこには政治や経済に関する言葉が並んでいる。


 アンジェリーナは目を丸くして、クリスを見た。


「ほ、ほんとうに、やってくれるの?家庭教師!」

「えぇもちろん。そのつもりですよ」


 当然だと言わんばかりに、クリスは淡々とそう言った。

 その言葉に、アンジェリーナは、心の中が一気に熱く、湧き上がってくるのを感じた。


 なんてこと!本当に、本当に、本当なんだ!

 私、勉強できるんだ!


 心の中で語彙力が激しく喪失しているのがよくわかったが、アンジェリーナの高揚は止まらなかった。


「それではまずはこの本から始めましょう。ごくごく入門編ですが、よろしいですか?」

「うん!!」


 あくまで一定のトーンで話すクリス。

 その一方で喜びを露わに声を高ぶらせるアンジェリーナ。


 二人の勉強会が今、幕を開けた。

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