第71話 澄みきった瞳
静寂が流れる森。
アンジェリーナの放った一言は、ジュダの心を大きく揺さぶった。
まるで一滴の雫が水面を揺らすように。
「おいこら、アンジェリーナ。その兵隊、カッチンコッチンに固まっちまってるぞ」
「え?――は!」
ここでようやく正気に戻ったか、アンジェリーナは、はっとして辺りを見回した。
あ、目が合った。
その瞬間、アンジェリーナはボンと顔を赤らめ、しゃがみ込んでしまった。
「うっわぁ、恥ずかしい。ついぽろっと心の中身が」
「ははっ、“ついぽろっと”ならずいぶん小綺麗な心の中だな?さすが王族様」
「はい?」
ポップの嫌味にアンジェリーナは顔をしかめた。
さっき、俺、なんて言われたんだ。
すでに頭がパンク状態のアンジェリーナに引けを取らず、ジュダもまた現在進行形で混乱中なのであった。
美しい?なんだそれ。
今までそんなこと、言われたこともない。
おちょくっているのか?
いや――。
ジュダの脳裏に先程のアンジェリーナの顔がよぎった。
あれは、そういう感じじゃなかった。
キラキラとした、澄んだ瞳をこちらに向けて。
ジュダは足元に沈むアンジェリーナを見下ろした。
狙いすましたかのようにバチッと目が合った。
アンジェリーナは思わずばっと顔をそらした。
まだ顔が赤い。
なんだかその反応は、たとえガキの照れ隠しだとしても、ちょっとこっ恥ずかしいというか。
「そんで?アンジェリーナ。これからどうするんだ?」
「え?」
「剣術指導だよ。今日ので満足、なんてはずはないだろ?」
ポップの言葉に、アンジェリーナはようやく立ち上がった。
そして何か考え込むように、あごに手を当てる。
その一方でジュダもまた考えを巡らせていた。
一つ業を見せたところでどうにかなるものではない、そう思っていた。
あの方は剣を諦めないし、特に何も変わることはないだろうと。
だから今の、姫様の反応は完全に想定外だった。
自分の剣技がこんなにも、人に影響を与えるものだなんて、考えたこともなかった。
甘かった。
安易に見せるべきではなかった。
当たり前だが、剣術というのは魅せるためのものじゃない。
戦い、相手を制圧するための武器。
強くなれば強くなるほど、業を極めれば極めるほど、その手は血に濡れる。
そこには、なんの輝きもなく、残酷がただあるのみ。
剣とは本来そういうものだ。
だから、期待させるべきではなかった。
下手な好奇心は身を滅ぼす。
ましてや姫などという高尚な立場の者が、手を出していいものでは――。
「ジュダ」
その声に、ジュダは我に返った。
いつの間にかアンジェリーナはまっすぐにこちらを見据えていた。
次は一体何を要求してくるのだろうか。
たとえどんなものが来ようとも、俺はこれ以上何も教える気は――。
しかし、ジュダの覚悟はすぐに折られることとなった。
え?
それが、あまりに自然な動きだったものだから、ジュダは一瞬気づかなかった。
アンジェリーナが自分に頭を下げていることに。
「お願いします。私に剣を教えてください」
ジュダは唖然として、アンジェリーナの後頭部を見つめた。
だが置かれている状況に気がつくと、今度は怒りに体を震わせた。
「馬鹿じゃないんですか!一兵士に頭を下げるなど。おやめください」
王族が平民以下の、こんな下等兵に首を垂れるなど、あってはならないことだ。
こんなの、他の誰かに見られてはただではいられない。
冗談抜きに首をはねられかねない。
ところが、ジュダの怒りに満ちた声にも全く動じず、アンジェリーナはひたすらに頭を下げ続けた。
その様は、ジュダは耐えられないものだった。
「いい加減に――!」
「私は、あなたの剣に惚れました」
下を向いたまま、アンジェリーナは唐突にそう言い放った。
その言葉に思わずたじろぐ。
そんなこと、気にも留めず、アンジェリーナは話を続けた。
「あなたの見せてくれた剣技、純粋に感動しました。今まで、ただ無鉄砲に挑み続けてきたこと、今は恥じております。私も、あの剣が使えるようになりたいと、そう思いました」
落ち着き払った、静かな声。
こいつ、こんなにも穏やかな雰囲気だったか?
アンジェリーナはふぅと息を吐くと、決心したように強く発した。
「私の、剣の師匠になっていただけませんか?」
「だから、それは――」
そこでアンジェリーナは顔を上げた。
その表情に、ジュダは息を飲んだ。
「私にはあなたが必要なんです」
これは、本当に齢10歳の子どもの目なのだろうか。
さっきの、輝きに満ちた瞳も驚くべきものだったが、これは、なんというか、あまりに静かで、俺はただひたすらに圧倒されてしまった。
即決するはずだったろ。
それは、できませんと。
だが、だが――。
ジュダは顔をしかめ、目を閉じ、少し天を仰いで、そして、うなだれた。
「少し、考えさせてください」
突いて出た言葉は、あまりに情けないものだった。
「そういうことが言える立場でないことは重々わかっています。ですが、今すぐには――申し訳ありません」
「わかった、いいよ。待ってる」
アンジェリーナは柔らかな笑顔を浮かべ、そう言った。
その表情に、ジュダは胸が締め付けられるような思いに駆られた。
10も年下の、こんな子どもに俺は一体どんな顔をさせているのだろう。
向こうの方がよっぽど大人だ。
それはわかっている。わかっているが――。
ジュダは改めてアンジェリーナの顔を見つめた。
どうしても今すぐには決められないんだ。
こいつの澄んだ瞳になんて報いればいいのか、言葉が見つからなかった。
真剣に訴えてくれた言葉を、無駄にするわけにはいかない。
そのときジュダは、自分の中で、何かが変わり始めていたと感じていた。
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