第53話 他愛ない話

 それからというもの、お腹の子どもは何の問題もなく、順調に育っていった。

 その一方でソフィアは日に日に、目に見えて弱っていった。

 私はずっと考えていた。

 彼女のために自分には一体何ができるのか。

 しかし、結局その答えが出ないまま、ついに臨月を迎えることになる。




「そんな暗い顔しないでください」


 ベッドに横たわり、ソフィアは静かに微笑んだ。

 大きなお腹をゆっくりとさすっている。

 一方イヴェリオはその隣、険しい顔でうつむいていた。


「予定ではあと一週間。楽しみですね。あ、でも、やっぱり痛いんですかね。それは心配かも」


 気丈に振舞ってはいるが、白かった肌の色はさらに青白く、声も前と比べて明らかに細くなっている。

 何もできない自分の無力さに、イヴェリオは打ちひしがれていた。


「あ、今動いた。ほら、触ってみます?」

「ソフィア」


 せっかくこちらを励まそうとしてくれていただろうに。

 ソフィアを無視して、イヴェリオは低く発した。


「私のどこを好きになったんだ」

「――え、急にどうされたんですか?」


 らしくもない、突拍子のない発言に、ソフィアは目を丸くした。


「私は、お前に何もできていない。それどころかお前から故郷も命さえも奪って」

「それは――」

「わかっている」


 イヴェリオはソフィアの言葉を遮った。


「わかっている、それはお前自身の選択なんだと。だが、だが、私はあまりに何も知らな過ぎた。それもまた事実だろう?こんなどうしようもない男をお前はどうして好きになってくれたんだ?」


 なんて女々しい質問なのだろう。

 今思うと恥ずかしいことこの上ない。

 だが、当時はそんなことを考えられないほど、私は追い詰められていた。


 ソフィアは目をつむり、うーんと唸った。


「だからこそ、ですかね」

「え?」


 ソフィアはぱっとその目を開いた。


「確かにあなたは無知で不器用で無愛想で、とてもじゃないけど理想的な男性像ではありません」

「う゛っ」


 矢継ぎ早に出てきた事実に、イヴェリオは胸を刺された。

 改めて本人から言われると傷つく。


「ですが――ふふっ」


 言いかけてソフィアは突然吹き出した。

 その様子に、イヴェリオは首を傾げた。


「私とイヴェリオ様が初めて会ったときのこと覚えておいでですか?」

「え、また急に。舞踏会の夜だろ?」

「はい」


 ソフィアは天井を見上げた。


「あのとき、なぜか迷い込んできた王子様に、それはそれは困惑したものですよ?はっきり言って、私も王族を憎んでいましたし。そんな方がわざわざどうして一人で、と。何か裏があるのではないかと訝しむのは当然でしょう?」


 今考えてみると確かにそうだ。

 ソフィアにとってみれば、王族なんてものは一族の仇。

 自分の、家族同然の人たちを追いやった張本人がのこのこと訪ねてきて、何もないと思わない方がおかしい。


「ですが」


 ソフィアはくるっと首を回してこちらを見た。


 ん?


「あなたがあまりに何も知らない様子なものだから、呆れを通り越してもうなんだか可笑しくって。でもそれが不思議なことに、イライラはしなかったんです。それどころか愛おしく思えたんです。可愛いなぁって」

「か、かわ!?」


 突然の告白に、イヴェリオは口をあんぐりと開けた。

 目の前のソフィアはいたずらっ子のような悪い笑みを浮かべている。


 この歳になって5歳も年下に“かわいい”なんて言われようとは。

 

 イヴェリオは目を細めてじぃっとソフィアを見た。

 その様子にソフィアは、今度は優しくふふっと笑って見せた。


「結局のところ、たぶん、あなたに初めて会ったときから、私はあなたのことが好きだったのだと思います。どこを好きになったというわけでもなく、それを考えるより前からすでに」


 イヴェリオは思わず目を伏せた。


 なんだか姿勢が落ち着かない。

 自分で聞いておいてなんだが、そこまでストレートに言われると体がむず痒い。


 そのとき私は完全に油断していた。

 ソフィアがここで終わるはずがない。


「イヴェリオ様は?」

「え?」


 イヴェリオがぱっと顔を上げると、ソフィアはまっすぐにこちらの目を見てきた。


「人に聞いておいて、自分は言わないなんて不公平ですよ。さぁ、教えてください。私のどこを好きになってくれたのですか?」

「は、はぁ!?」


 思わず出た言葉にはっとして、イヴェリオは口を押さえた。


 口が悪くなってしまった。

 はぁ、ソフィアめ。完全にしてやられた。

 いや、反撃が来ることなど想像できただろうに。


 イヴェリオはちらっとソフィアの様子を伺った。

 ソフィアは期待の眼差しでニヤニヤしながらこちらを見ている。


 自業自得か。


 イヴェリオは観念してため息をついた。


「――私も同じだ。初めてお前に会ったあの夜、泉に佇むお前を見て、どうしてかはわからないが、一瞬でお前の仕草、その一つ一つに釘付けになった。はっきり言ってこの世のものではないような気さえした。――今ならわかる。私はあのとき、名も知らないお前に一目惚れしたのだろう」


 しーんと部屋に沈黙が流れた。


 あぁ恥ずかしすぎる。

 ここまで言うことはなかったか?


 イヴェリオは横目でソフィアを見た。

 するとソフィアは唇をぎゅっと結んで今まで見たこともないような顔をしていた。


「なんだその顔」

「いいえ?ただなんだかにやけてしまいそうなので」


 そのときイヴェリオはぐっと何かがこみ上げてくるのを感じた。


 まずいな、これは。


 それからイヴェリオとソフィアは、ただただ他愛ない話をした。

 何の意味も持たない話を。

 確かに記憶に残る、思い出してはにやけてしまうような、そんな話を。


 それが彼女と過ごした最後の楽しいひと時となった。

 

 そしてそのときがやってくる。




「――はぁ、はぁ、それでですね」

「ちょっと待ったソフィア」


 イヴェリオはソフィアを制止した。


 息が上がっている。

 顔色も少し悪そうだ。

 今日はもう切り上げたほうがよさそうだ。


「今日はもうやめようか。また明日話そう。じゃあ、私は一回戻るから――」

「イヴェリオ様」

「ん?なんだ?」


 イヴェリオが反応すると、ソフィアは目を背けてしまった。

 口を開いては閉じ、何かを躊躇っているような。

 しかしすぐに意を決したように、再びまっすぐイヴェリオを見つめた。


「お話しておかなければならないことがあります」


 今日一番の強い口調。

 イヴェリオはその様子に動きを止めた。


「今はいいだろ。散々話して、お前も疲れただろうし」

「今、話しておきたいんです」


 引かないソフィアに、イヴェリオは浮かせた腰を再び戻した。

 その表情があまりに真剣そのものだったから。

 ソフィアはふぅっと一息吐くと話し始めた。


「この子が生まれてくるまであと一週間、その後私がどうなるのか、はっきり言ってわかりません」

「え、いきなりなんだ?そんなこと」


 戸惑うイヴェリオをよそに、優しくこちらに微笑みかけた。


 ソフィアは目をすっと閉じた。

 そして再び瞼を開いたとき、彼女の瞳は力強く輝いていた。


「あなたに、隠していたことがあります」


 ソフィアは静かにお腹をさすった。

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