第38話 千里眼
「また来てくださったのですね」
月明かりの泉の前、ソフィアは笑顔でこちらを振り返った。
「来るつもりは、なかった」
イヴェリオは気まずそうに顔をしかめた。
「それでも今日来てくださったんでしょう?一週間前もそうでしたが、何のもてなしもできずに申し訳な――」
「聞きたいことがある」
ソフィアの言葉を遮り、イヴェリオは低く発した。
「お前――」
「お前、ではなくソフィアです」
「え?」
今度はソフィアがイヴェリオの言葉を遮った。
「ソフィアとお呼びください」
ソフィアは真剣な表情でイヴェリオを見上げている。
イヴェリオはその様子にぐっと目を細め、そしてたまらず顔をそむけた。
「――ソフィア、聞きたいことがある」
「はい。何でしょう?」
イヴェリオの絞り出したような声に、ソフィアは一転してぱっと笑顔を向けた。
こいつ――。
してやられたような気になりながらも、イヴェリオは言葉を押し殺した。
今は、聞かねばならないことがある。
そのために、今日は再びここへ来る羽目になったんだ。
「禁断の森の民について調べた。普通の本には一切乗っていなかったからずいぶん手間取ったが――。結局見つけたのは海外の歴史学者が書いた本、いわゆる禁書の中だ。そこに気になる記述があった」
イヴェリオはソフィアの目をまっすぐに見据えた。
「『ビスカーダの森の民には全てを見通す
言ってから、イヴェリオはソフィアの様子を注意深く伺った。
何せ一般の書物には載っていないほどの秘匿情報。
そう易々とは教えてくれまい――。
「いいですよ」
「え?」
あまりにもあっさりした返事に、イヴェリオは拍子抜けした。
いいのか?
ここまで簡単に教えられると逆に何か裏があるのではないかと思えてくる。
すると何の前触れもなく、ソフィアは右手でイヴェリオの頬にぴとっと触れた。
!?
突然の出来事に体がビクッと跳ねる。
透き通った琥珀色の瞳が静かに私を見つめている。
イヴェリオは言葉を失い、その場に固まった。
「『全てを見通す瞳力』、ですか」
「え?」
「ふふ、少し語弊があるかもしれませんが概ねその通りです」
目線を外すことができない。
ソフィアは手をそのままに、話を続けた。
「私ども、ビスカーダの森の民が代々受け継ぐその能力、それは“千里眼”です」
千里眼。まさに全てを見通す力。
「といっても、一人が過去から未来まで全てを見ることができるというわけではありません。その幅は世代ごとにばらばらで、正確に言えば瞳力でもないんですが――それに、森の民全員が持っているわけでもありません」
「だがお前は持っているんだろう?」
「えぇ」
さっきからなぜか自分の声が遠い。
情けないほどか細い声ばかりが出てくる。
「私の力は“未来を見通す力”。人の魂に触れることで、その人の辿る未来を見ることができる力です」
未来?
その言葉にもちろん驚きはあった。
だがそのとき私はなぜか、目の前の彼女が嘘をついているとは一ミリも思わなかったのだ。
それほどまでに、私を見つめる彼女の目はまっすぐだったから。
「もしよければ見て差し上げましょうか?」
すっかり黙り込んでしまったイヴェリオに、ソフィアはふふっと笑った。
いたずらっ子のような純粋無垢な笑顔。
こう見ると結構子どもっぽく見えるな。
――じゃなくて!
頭をよぎった余計なことを振り払い、ようやくイヴェリオは正気に戻った。
「結構だ。俺は未来視など信じない。そんな迷信に頼っていては合理的な政などできまい。王族失格だ」
そうぴしゃりと言い放ち、イヴェリオはゆっくりソフィアの手を降ろさせた。
反応がない。
イヴェリオはソフィアの顔を見た。
すると、ソフィアはどこか悲しそうな顔をしていた。
その憂いを帯びた表情にドキッと心臓が跳ねる。
しかしソフィアは、すぐに普段と変わらぬ笑みを浮かべた。
気のせいだったか?
そのとき、私は彼女の様子にどこか違和感を感じた。
だが、それを深く考えることはなかった。
「そうですね。それもまた正しいことです」
「正しい?」
「えぇ。未来はそうあるべきだと信じなければそうなることはありません」
疑問符を浮かべるイヴェリオをやさしくソフィアは見つめた。
「つまり、信じなければ絶対にその未来は訪れない、ということです。逆に、ほんの少しでもそうなるかもしれないと信じてしまえば、その未来は必ずやってきます。ですから王子――」
ソフィアはこれまで見せたことがないような鋭い眼差しでこちらを見た。
「あなた様が思う未来を進んでください。決して迷わないように。あなた様が信じる未来を私は信じます」
その言葉は妙に私の心に刺さった。
今にして思う。
どうしてあのときその言葉の意味をもっと考えておかなかったのだろうかと。
見つめ合う二人の間を、静かに夜風が通り抜けた。
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