第15話 決裂

 イヴェリオはアンジェリーナの目をただ見つめていた。

 そこにあったのは、ただのわがままな娘の姿ではなく、自分の意見を冷静に述べる一人の人間の姿だった。

 イヴェリオは少しの間、何を話そうかと考えあぐねていたが、ついに口を開いた。


「まず、そもそもの話、だ。読み書きや数学、歴史を教えていたのは、お前に政治をしろと言っていたわけではない。あくまで社交的な振る舞いをするのに必要最低限な教養を身に付けさせるためだ」


 イヴェリオはアンジェリーナの顔をちらりと見た。

 アンジェリーナは真剣な顔のままピクリとも動いていない。


「侯爵家のご令嬢の中には、初等教育も受けずに、花嫁修業ばかりさせられている方もいる。だが私はそれが最善だとは思わない。なぜなら将来誰に嫁ぐことが決まっていたのだとしても、いずれ社会に出るということには違いないからだ」


 その言葉にアンジェリーナはぴくっと反応した。

 心なしか顔も少しゆるんでいるような気がする。


「大人になるとはそういうことだ。どんなに大切に家で育てられたご令嬢とて、社交界においては新人に過ぎない。家柄という後ろ盾はあれど、本人がその格に見合っていなければなめられてしまう。それは巡り巡って家の評判自体を落とすことになりかねない。だから他人と問題なく交流できる程度の、最低限の教育は受けさせなければならない」


 そこまで言ってイヴェリオはアンジェリーナの顔を見つめた。

 その顔はいつものアンジェリーナに戻っていた。


「なるほど。そんなこと初めて聞いた」

「初めて言ったからな。こんなこと、8歳の娘に言うような内容ではないだろう」


 本当に何で話す羽目になってしまったのか。

 だがアンジェリーナにとっては、今の話は効いてくれたようだ。

 口元が緩んでいる。


「え、でも今の話なら、初等学校レベルの教育は受けさせるんでしょ。それならまだ」

「いやお前はすでにそのレベルを卒業している。確かに、本来ならば初等学校は12歳ごろまで通うことになっている。だがお前は勉強に関してだけは熱心だったからな。8歳ながら修了してしまっているんだよ」

「あ、そうだったんだ。気づいてなかった」


 アンジェリーナが嬉しそうに頬を赤らめている。

 そしてその表情のままイヴェリオに期待の目を向けた。


「じゃ、じゃあせめて12歳までは勉強させてよ。初等学校レベルはもう超えてるかもしれないけど。ほら、王族としてなめられないためにはもっと勉強しても――」

「いや、それはだめだ」

「え?」


 イヴェリオはぴしりと冷たく言い放った。

 その言葉にアンジェリーナの顔が一気に曇る。


「ど、どうして」

「これ以上の学はかえって品を落とすからだ」

「え?」


 雲行きがまた怪しくなってきた。

 だが、この際全部話してしまったほうがいい。

 この場以降、確執を残したくはない。


「いいか。姫というのは最低限の学を持たなければならない。理由はさっき説明した通りだ。だが同時に姫は国のである必要がある。そのためには、常に笑顔を絶やさず、おしとやかな像を作り上げなければならない。姫とはそういうものだ。万が一にも婿、要は未来の国王に口出しするようなことがあってはいけない。これはから決まっていることだ」


 そう言い終わって、アンジェリーナの顔を再び見たとき、イヴェリオは思わず口をぐっと結んだ。

 アンジェリーナの表情は一瞬にして、子どもの顔から先程の真剣な眼差しに戻ってしまっていた。

 しかも一段と睨みを増して。


「不服そうだな」

「はい。とても」


 アンジェリーナが臆する様子は全くない。

 そして口をゆっくりと開いた。


「さっきも同じ質問をしたと思いますが」

「何だ」

「お父様にとって姫は、王宮に籠っているのが正しい振舞いだとお思いですか」

「ああそうだ」


 イヴェリオは今度ははっきりとそう答えた。

 すると突然、バンとアンジェリーナは机を叩いた。


「あーもう、限界!どうにか穏便に済まそうって我慢してたのに。もう無理」


 いきなりいつもの調子で怒りをあらわにし始めた。

 その様子にイヴェリオは目を見開く。

 堪忍袋の緒が切れたアンジェリーナは、今までのうっ憤を晴らすように、すごい勢いで話し始めた。


「何なのお父様は、勉強するなだ、外に出るな、だ。そんなことしたって意味ないでしょ。古い慣習なんかどうだっていい。私は、私がやりたいことをやりたいの。わがままと思われるかもしれないけど、私なりに考えて行動してるの。どうしてそれを頭ごなしに否定するわけ!?」


 その発言にようやく冷静さを取り戻したはずのイヴェリオも感化される。


「考えて行動してる?嘘をつけ。公務棟に侵入することがそうなのか?仕事を妨害することが?そんなやつの意見など聞くに値しない」

「それは悪かったと思ってる。でも、じゃああの剣は何なの結局。一切教えてもらってない!」

「あの剣のことは忘れろといったはずだ」

「忘れられるわけないでしょ。あんなビリリッとした感覚。初めてだった。運命だって感じた」

「運命?笑わせるな。そんなもの信じているのかお前は」

「でも――」

「いいか。忘れろ。この話はしまいだ」


 イヴェリオとアンジェリーナはにらみ合ったまま膠着状態に入ってしまった。


 結局こうなった。

 これでは2年前と同じだ。

 だがここで引くわけにはいかない。

 あの剣のことだって――。


「許婚の件だけど、あれ、お母様のことと何か関係してるの?」


 イヴェリオの体がぴくっと動いた。


「今なんて言った」

「お父様が私の婚約話に消極的なのってお母様のせいなんじゃないの?」


 イヴェリオは自分の中でこらえていた感情の制御蓋が、こじ開けられていくのを感じた。


「その話はするなと言ったはずだ」

「ほらやっぱり。お父様が冷静でなくなるのはその話題のときだもん。だってお父様、許婚の話になるとすごく苦しそうになるし」

「私が苦しそうだ?」

「そう。それにおじい様のことも嫌いなんでしょ。たぶんお母様のことで過去に何かあって――」

「いい加減にしろ!」


 イヴェリオは大声を上げた。

 アンジェリーナの体がびくっと跳ね上がる。


「お前には一切関係のないことだ。子どもが首を突っ込むんじゃない」


 その言葉にアンジェリーナも見る見る顔を赤くさせた。


「関係ないことないでしょ。私のお母様なんだよ。昔っから全然教えてくれないし。使用人やおじい様が話す“お母様像”は、たぶん偽物だし。教えてくれるのはお父様しかいないの」

「黙れ!」


 そのときにはすでに、イヴェリオは完全に制御不能になっていた。

 ありとあらゆる感情が溢れ出してくる。


「そもそも、なんでお前は昔から大人しくできないんだ。王族として、この上なく優遇されて育ったはずだろう。これ以上何を望む。姫なんてなりたくてなれるものではない。お前は特別なんだ。姫は未来の国王を支えられればそれでいい。勉強は無駄だ。どうせ役に立たない。お前は姫として、悠久なこの国に閉じこもっていれば幸せになれるんだよ」


 そこまで一息に喋ったせいで、イヴェリオの息は上がっていた。

 そこでイヴェリオは気づいた。アンジェリーナがやけに静かであることに。


「お父様、今の話本気で言ってるんですか」

「どういう意味だ」

「勉強は無駄。閉じこもっていれば幸せになれるって」

「言ったとおりだ」

「じゃあ、最後にこれだけ質問させてください」

「なんだ」

「お父様はこれからも、この国が悠久に続くとお思いですか」


 そこで初めてイヴェリオは顔を上げた。

 アンジェリーナの顔は真剣そのものだったが、怒りよりも何かを懇願しているような、そんな表情を浮かべていた。

 しかし、今のイヴェリオにそれが何を意味するのかは理解できなかった。


「国の行く末ってやつか。当然だろう。ポップ王国はこれからも未来永劫続いていく。私が統治する限りはな」








「は?」


 アンジェリーナはそうぽつりと声に出した。

 それはイヴェリオの耳にも届いた。

 イヴェリオがアンジェリーナの顔を改めて見、そして固まった。

 アンジェリーナは今まで見たこともないほど、怖い顔をしていた。

 イヴェリオはしばらく口をパクパクさせていたが、どうにか言葉を絞り出した。


「な、なんだ」

「え、あ、いえ。別に何でも。お話わかりました。夜分遅くに申し訳ありませんでした。私、もう寝ますね。おやすみなさい」


 イヴェリオが何か発言する前に、アンジェリーナはとっとと食堂を立ち去って行ってしまった。

 ぽつんとイヴェリオが取り残される。


 さっきのアンジェリーナ、一体何だったんだ。

 何だったんだあの表情は。


 イヴェリオは先程のアンジェリーナを思い出して身を震わせた。


 最後の言葉、まるで感情が乗っていなかった。

 特段怒っているようすでもなかったが、あの感じは一体なんだ?

 最後にアンジェリーナは何を思っていたんだ。


 どう思考を巡らせてもいい考えが思いつかなかった。


「あ」


 そのときイヴェリオは気づいた。

 自分がまだ自室に一度も戻っていないことに。

 そして体が異様に汗ばんでいることに。


「戻るか」


 イヴェリオは食堂を後にした。

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