第10話 お母様の話

 泉の真ん中で輝くポップ石。

 その前に佇む人物。


 またこれだ。

 でも今日は昨日よりも鮮明に見える。


 長い髪をした女性。

 白くてふんわりとした装束を着ている。

 あまり見たことのない形。どこかの民族衣装だろうか。


 すると、女性はおもむろにポップ石の方に歩み寄り、そのまま泉の中に入っていった。

 足が水につかり、服が水中に広がる。

 水面が膝のあたりまで来たときだろうか、突然女性が後ろを振り向いた。


 顔が見える。

 なんてきれいな人。

 整った顔立ちに、どこかミステリアスな感じもする。


 女性はふいに両手を森の奥へ伸ばした。


 口が動いてる。

 もしかして誰かいるの?

 うーん、声が聞こえない。


 そのとき、またもや映像がぼやけ始めた。

 視界が真っ白になり、何も見えなくなる――。




「はっ」


 アンジェリーナは目を覚ました。

 部屋の中に日が差し込み、朝を告げている。


 昨日に続いてまた今日も。

 何なんだろうこの夢。


 アンジェリーナはむくっと起き上がった。


 ポップ石と謎の女性。あともう一人いたっぽいけど。


 アンジェリーナはうーんと唸った。


 なんかやけにリアルなんだよな。

 すぐ近くにあるっていうか触れそうっていうか。

 ポップ石出てきたし、もしかしたらポップに何か関係ある?

 本人に聞けば何かわかるかも。

 あ、でもそうだっだ。今外出禁止なんだった。

 ていうかそもそも夢の話、聞かせてもどうにもならないだろうけど。


 ――――――――――


「いいですか姫様。王族たるもの、侯爵閣下やそのご子息・ご令嬢との関わりも深く、お茶会や舞踏会での立ち居振る舞いが重要となってきます。一つの間違いが国を揺るがすことにもなりかねません。ですから――」


 家庭教師はアンジェリーナの腕をビシッと叩いた。


「いたっ」

「このようなはしたない振る舞いなど言語道断です!」


 アンジェリーナの本日のメニューは舞踏稽古場にてダンスのレッスン。

 数ある嫌いな勉強のうち、アンジェリーナにとってダンスは最も苦手とする科目だった。

 当然やる気が出るわけもなく、だからこそ余計に指導にも熱が入る。


「腕はこう!もっと高く上げて保つ。絶対に下げてはいけません。ほら足!もっと大きく踏み出して!本番では普段よりも豪華な、ボリュームのあるイブニングドレスを着るのですから。それでは転んでしまいますよ」

「前から思ってたけど、なんでそんな踊りにくいドレスわざわざ着なきゃいけないの?もっとシュッとしたやつの方が――」

「文句を言わない!伝統にけちをつけるものではありません」


 伝統って。

 そりゃ大事かもしれないけど。


「はぁ。これではほかのご令嬢に負けてしまわれますよ」

「別にいいじゃん」

「いいことなんかありません!姫としての品格を――ほんとにもう、あなたさまはどうしてそう興味がないのですか。国のためにあなたさまには果たすべき役割というものがあるのです」


 舞踏会できれいに踊ることが?


 アンジェリーナは言葉をぐっと飲みこんだ。

 ここでこの人に反論したところで何にもならないからだ。


 アンジェリーナが何も言ってこないのをいいことに、家庭教師は金切り声を上げ続ける。


「そもそも、姫様は王室教育が遅すぎます。本来ならば、10歳を超えれば社交界デビューなどざらにあるのに。これではあと何年かかるか。――やはり王妃様がいらっしゃらないのが問題なのでしょうか」


 アンジェリーナは、次から次へと飛んでくる言葉を左から右に聞き流していたが、家庭教師がぼそっと呟いた言葉に、目の色を変えた。


「お母様にあったことがあるの?」

「え、あ、いえ。私が王室に仕えるようになったのは、1年ほど前。お会いしたことはありません」

「そうなんだ」


 何か新しいこと聞けるかもと思ったのに。


 アンジェリーナは肩を落とした。

 その様子にさすがに気を使ったのか、家庭教師はアンジェリーナを励まそうと話を続けた。


「話は聞いておりますよ。伯爵家のご令嬢で、それはそれは美しく品のある方だったとか。姫様もいつか王妃様のような女性になられると、私は心待ちにしているのですよ」


 それは、今の私は“美しく品のある女性像”からは程遠いと言っているのでは?


 アンジェリーナははぁとため息をついた。


 ――――――――――


 これまでもお母様のことを聞いたことは何度もあった。


「え?王妃様ですか?」

「うん、そう!」


 アンジェリーナは元気よく返事をした。

 使用人は自分に向けられるキラキラした眼差しに、困った顔を向けた。


「申し訳ございません。私は王妃様と直接お会いしたことがなくて」

「えぇー」

「あ、でもご評判は伺っていますよ。それはそれは美しく品のある方だったと」


 お母様のことを聞くたび、どの使用人も同じことを言った。

『それはそれは美しく品のある方だった

 直接会ったことのある者は誰もいなかった。


 その当時、私が知っていたのは、私には母親がいないという事実。

 使用人から話を聞いていくうちに、すでに亡くなっているのだということは何となく気づいていった。

 しかし、一向に亡くなった経緯、および人となりの詳細がわかる気配はなかった。


 だからこそあの日、私は直接お父様に聞いてみることにした。


「ねぇお父様。お母様ってどんな人だったの?」


 あれはたしか、5歳の誕生日だったかな。

 特別な日だからと思ってくれたのか、お父様はいつもより早く仕事から戻ってきていた。


「またその質問か」


 イヴェリオはうんざりとした表情でアンジェリーナを見下ろした。


「だって仕方がないじゃん。みんなに聞いてみても同じことしか教えてくれないし」


 アンジェリーナはぷくっと小さな頬を膨らませた。


「その話をするなと言ったはずだ」

「またそうやってはぐらかして。いいでしょ教えてくれても。お父様しかいないんだもん、お母様のこと知ってるの」

「だからな――」


 たぶんそのとき私は少しわがままだったんだと思う。

 しばらくお父様の仕事が立て込んでて、そもそも会えない日が続いていたから。

 そしてお父様もまた仕事の疲れでいつもより機嫌が悪かったんだと思う。

 だから互いに引き際を間違えた。


「いいじゃん!いつまでそうやって教えてくれないの?もしかして何か隠し事でもあるの?お母様ってなんで死んだ――」

「いい加減にしろ!」


 イヴェリオの怒号が部屋中に響いた。

 あまりの勢いにアンジェリーナはびくっと震えた。

 怒られたことは今まで数えきれないほどあったが、これほどまでに大きな声を聞いたことはなかった。

 びっくりして涙を浮かべるアンジェリーナの様子を見て、イヴェリオははっと気づいたようだった。

 目をそらして口を抑える。

 イヴェリオ自身、自分が取り乱したことに驚いているようだった。


「なんじゃさわがしい」


 そのとき、部屋の外から声が聞こえてきた。

 見るとオルビアがこちらの方に歩いてきていた。

 アンジェリーナの誕生日だからと、一緒に食事をする約束をしていたのだ。


「イヴェリオ、自分の娘相手にそのような態度はみっともないぞ」

「――申し訳ございません」


 イヴェリオはオルビアに向かって頭を下げた。

 声がいつもより弱々しい。

 その様子を横目に確認すると、オルビアはしゃがみ込み、アンジェリーナと視線を合わせた。


「せっかくの誕生日じゃというのに、泣いていては損じゃぞ。どれ、わしが代わりに母親のことを教えてやろう」

「え、いいの?」


 さっきのどんよりとした気持ちから一変、アンジェリーナは目を輝かせた。


「おうおう。アンジェリーナの母、ソフィアは伯爵家出身の令嬢じゃった。それはそれは美しい人でのう。王妃として十分な品格も備えておった。じゃがな、もともと体が弱かったせいでな、アンジェリーナを産んですぐに亡くなってしもうた。実家の伯爵家も、ソフィアが一人娘だったせいで、跡継ぎがおらんでのう。今はもうなくなってしまったんじゃ」

「そうだったんだ」


 だから誰もお母様の家のことも何も知らなかったんだ。

 お母様は私を産んですぐに死んじゃったから、今仕えてる人はお母様に会ったことがないんだ。


「本当にソフィアはいい女性じゃった。亡くなったのが惜しまれる。アンジェリーナに会わせてあげられないのが残念じゃ」


 へぇ、そんなにすごい人だったんだ。


 そう思ってアンジェリーナはふと、イヴェリオを見上げた。


 次の瞬間、私はぎょっとして目を見開いた。


 イヴェリオは見たこともないような怖い顔で、オルビアを静かに睨んでいた。


 まるで宿敵と対峙したときのような、深い憎悪。


 当時そこまで感じ取れていたかは覚えていないが、ただ一つ、確信したことがあった。


 みんなが言うお母様の話は、でたらめに違いない。

 きっとまだ何かある。

 たぶんとても重要な何かが。


 その疑念は今もなお、アンジェリーナの心の奥底で渦巻いているのだった。

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