5-1 鉄の味

 夏の夜というのはどうしてこんなに蒸し暑いのだろう。


 狂ったような蝉の鳴き声を全身に浴びながら、僕とシオンは田んぼのあぜ道に並んで立っていた。すぐ横には大型の仮設照明が置かれ、接続された発電機から微かなガソリンの匂いを漂わせている。前後の田んぼには青々とした稲がうっそうとしげり、その稲穂の合間のどこかから、ウシガエルの気だるそうな合唱が響く。


「星、きれい」


 隣のシオンにつられて僕も頭上を見やる。ところどころに薄く雲がかかっていて、そこまで細々とした星座は確認できないけれど、夏の大三角ははっきりと夜空に描かれていた。


「あれがデネブ。ベガ。アルタイル」


 僕が空を指さしながらそらんじると、


「どれ、どれ?」


 興味深げにシオンが肩を寄せてくる。


 ドレスから露出した肩が腕に当たりドキリとする。仄かな柑橘系の香りが鼻腔をくすぐった。きっと、昨日僕がプレゼントしたばかりの香水をつけてきてくれたのだ。僕は単純なものだから、それだけで嬉しくなってしまう。夏の夜の蒸し暑さなんて忘れてしまうほど心が浮き足立った。気を良くして、夜空に指を突き立てる。


「ほら、僕たちの真上の一番明るい星。あれがベガだ。他の二つと結べば、夏の大三角になる」

「こと座のベガ?」

「うん。二番目に明るいのがわし座のアルタイルで、少し暗いのがはくちょう座のデネブだ」

「夏の大三角って、ベガだけ仲間はずれよね」

「どうして?」

「だって、白鳥とワシは動物なのに、琴は楽器よ」

「なるほどね、面白いことを言うな。でも実は、本当に仲間はずれなのはデネブだよ。デネブだけは、他の二つよりも地球からうんと離れた場所にある。遠い宇宙の果てにひとりぼっちなんだ。白色矮星っていって、本当はひどく明るい星のはずなのに、距離があるせいで全然明るく見えない。まったくもって不幸な星さ」

「ふうん」


 僕のとっておきの豆知識は、残念ながらシオンの興味をひけなかったようだ。聞き流すように曖昧に頷くと、再び距離をとってしまう。


 触れ合っていたやわい肩が離れてしまったのは名残惜しかったが、でも、間近でシオンの息遣いを感じることができたのは収穫だ。僕は常々、こういうスキンシップを大切にしていきたいと思い続けてきたのだけれど、こういう機会でもなければ、シオンは恥ずかしがるのでなかなか触れ合うことができない。それとも真剣にお願いすれば、聞き届けてくれるのだろうか? もう随分と長く一緒にいるのだし、嫌われているということは、ないと思うのだ。


 並んで空を見上げる僕たちの背後を、浴衣姿の若いカップルや子連れの家族が通り過ぎていく。市営の花火大会に、僕とシオンは二人きりで参加していた。


 最初、僕はシオンが浴衣を着てくれることを期待したのだけれど、着付けが面倒臭いからといってあっさり断られた。今のシオンはいつも通りの格好、サユリから譲り受けた薄手の黒いドレスに身を包んでいる。風勢はちっともなかったが、でも、ドレス姿のシオンも悪くない。


 黒地が闇に溶けているせいで、滑らかな銀髪がいっそう引き立てられており、その眩さに目を奪われた。はっきり言って、とても綺麗だ。今すぐ抱きしめてやりたくなるくらい。


「花火はまだ? 暑いし、セミもカエルもうるさくて仕方ないわ」

「あのね、本当は蝉って、夜鳴かないんだ」

「寝ているの?」

「いや、日が沈むと木の幹でじっと静かにしているんだ。でも今日みたいな熱帯夜だと、蝉は昼間だと勘違いして鳴くんだよ」

「バカみたい」

「どうかな。どうせ一週間の命なんだから、長く鳴けたほうが蝉も幸せだと思うよ」

「休む暇も与えず鳴けだなんて、ユウキは残酷ね」


 言って、シオンはクスリと笑う。


「そうかなあ」


 僕はどうやって言い返そうかと考える。すると、夜空がパッと白んだ。

頭上に、大きな花が咲いていた。


 少し間をおいて炸裂音がとどろき、腹の深いところを揺さぶる。


「おお」と、思わず感嘆の声が漏れた。


 思えば、こんなに近くで打ち上げ花火を見るのは初めての体験だった。小さい頃は父さんや母さんが虫刺されを嫌がるので連れて行ってもらえず、僕と妹はいつも二階のベランダから、遠くの花火を眺めていた。年を重ねるうちに、花火自体には興味が惹かれなくなっていったけれど、いつかシオンを連れて行ってやりたいと夢見ていた。


 その願いが、こうして奇跡のように叶ってしまった。


 赤。青。緑。連続する光の乱舞。黒い霧を残して、潔く散ってゆく花々。

揺れる空気がテンポよく胸を打ち、まるで心臓が本来の鼓動を取り戻したようだった。


 シオンも今、この瞬間、僕と同じ気持ちを味わってくれているだろうか?


 期待を胸に振り返る。


「ずいぶんとひどいことをするものだ。もうぐちゃぐちゃだよ。本当にそれが人間だったのかい? とても信じられないな。私には生ゴミと区別がつかないよ」


 先ほどまでシオンがいた場所に、燃えたぎる赤い目をした紳士服の男が立っていた。


 唇に醜悪な笑みを刻みながら、僕の足元を指差している。気がつけば、下半身を無残に破壊されたアカネが、僕の足元にすがっていた。


「……ユウキさん、話をしましょう……。話せば、きっと分かりあえると思うんです……」


 無様に叫びだしそうになったところで、不意に首筋に痛みが走る。


 刹那の幻想はあっという間にかき消え、変わりにシオンの整った顔が僕を覗き込んでいた。その見知った美貌に僕は安堵する。そうだ、もう何も心配することはない。何があったって、シオンは僕のことを助けてくれる。代わりに僕も、精一杯シオンを幸せにしてやりたい。


「ぼーっとしてたから」


 愛らしい弧を描いた口元から、真っ赤な血が滴っている。首筋に手をあてがうと、シオンの唾液と僕の血液が絡まって糸を引いた。すでに痛みはなく、傷もふさがっている。


「僕はおいしくないよ」

「そう? ユウキの血、案外おいしいのよ」


 まるで今まで何度も味わったことのあるような口ぶりだ。寝ている間にでも、襲われていたのかもしれない。


 悪びれもせずに屈託のない笑顔を浮かべて、シオンは僕の手を握る。


 僕もその手を強く握り返した。


 美味しいというのなら、いっそ、このまま食べてくれても構わない。君が本当に望むなら、僕は喜んでこの身を差し出そう。それで君が満足するのなら本望だ。


「さあ帰りましょう」

「え、花火は?」

「何言ってるのよ。もうとっくに終わってるわ」


 耳をすませば花火はおろか、蝉や蛙さえも鳴きやんでいた。


 あたりは真っ暗で、静寂に満たされていて、まるで僕とシオン、この世界に二人だけしかいないみたいだった。でも傍に君がいてくれるから、心細くはない。


「家で、サユリさんが料理を作って待ってるわ。早く帰りましょう。サユリさんのことだから、あまり待たせるときっとつまみ食いをしてしまうもの」

「そうだね。アフロにも餌をあげなくちゃ」

「あの犬はせっかく私の眷属にしてあげたのに、ユウキにしか懐かないから嫌いよ」

「死んで、すっかり性格が豹変してしまったからね」

「それにしても凶暴だわ。今朝起きたら右腕が食いちぎられていたの。ちゃんとしつけてよ」

「はいはい。あはは」


 僕が笑うと、つられてシオンも笑顔になった。


 ああ、それにしても、本当に幸せだ。これ以上なんて考えられないくらいの幸福を、僕は確かに手に入れたのだ。良かった。この場所にたどり着くことができて良かった。


 たくさん失って、犠牲にして、裏切って、殺したけれど。


 全部、必要な手順だったのだ。手放さなければ、手に入らなかった。切り捨てなければ、この場所には届かなかった。だから、取りこぼしてしまったものは潔く諦めよう。


 僕たちはこれからも他人の屍の上でのうのうと幸せになってゆく。とても不条理なことだけれど、なぜだかその権利が与えられている。不安に思うようなことは、何もない。


「シオン、ちょっと待って」

「なあに?」


 強引に肩を引き寄せ、その愛らしく結ばれた唇にキスをした。


 柔らかい吐息を漏らして、シオンもそれに答えてくれる。


 初めて味わう口内は、錆臭い鉄の味がした。


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ノット・バッド ころん @bokunina

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