4-3 救助
――■■■、やっと起きたんだ
目が覚めると、妙にすっきりとした気分だった。憑き物が落ちていくような、本来の自分を取り戻す感覚。春の陽光の中でまどろんでいるような心地良さに全身が包まれている。
――膝枕してあげているのに、■■■は贅沢ね
満開の桜の下で、僕に微笑みかける少女の姿。名前は知らないし、顔も陰っていてよく見えないけれど、肩まで垂れた滑らかな銀髪は息をのむほど綺麗だ。
闇に隠されたその表情はどんなだろう? 澄み切った優しい声を持つ少女の正体が知りたくて、僕は手を伸ばす。眩しい光で視界は霞んでいるけれど、せめて少女の肌に触れてみたかった。その存在を確かめられたなら、きっと何かが変わる。そんな気がした。
――■■■、■■■?
しかし届かない。少女の周囲から湧き出てきた闇が、春の情景を瞬く間に侵食していく。
暗転。
「ねえ、これ血が足りないんじゃないかしら?」
「もう少し待ってみよう。慌てることはない」
軽やかな目覚めだ。身体が軽く、みずみずしい活力がどこからともなく湧いてくる。
「あ、目をあけたわ。ねえ、気分はどうなの?」
背後から声がして振り向こうとするが、首は少しも動かせなかった。
どうやら僕は椅子に座らせられているようだ。壁と向き合う格好になっていて、声の主はおろか部屋の様子すらも確認することができない。
ここはどこだろう? そして、僕は誰だろう?
「ねえ、あなた。そろそろ右腕を……」
「ああそうだな」
背後で男が立ち上がり、近づいてくる。唯一自由がきく眼球を必死に動かして、状況を把握しようと試みた。まず両足。根元から切り落とされている。左の前腕が欠けていて、唯一無事なのは右腕だけだ。不思議な事に痛みはなく、それどころか異様な多幸感さえある。
「やあ、ご対面だ」
キャスターを転がす音とともに椅子が回転する。僕を囲うように立つ中年男女の姿。二人ともゴム手袋にエプロン、マスクをしていて、手術後の外科医のように血潮に塗れている。
目の前に設置されたスチールラックには、体を構成する多種多様なパーツが整然と並べられていた。下段には手足。中段には臓物と目鼻耳。盆の四方から絶え間なく血が滴っている。
上段には、あらゆる部位が欠損した男の頭部が三つ。
心なしか、どれも同じ顔立ちをしているように見えた。
「右腕を一本追加だ」
手にした糸鋸の刃を取り替えながら、男が言う。
「ねえ、今どんな感じかしら? ちゃんと苦しんでくれているの? あなたがあの子
にしたこと、少しは後悔してくれたかしら?」
小太りの女がまじまじと覗き込んでくる。
「うーん。反応がイマイチだな。やっぱりミチコが血を打ちすぎたんだ。ハイになって痛覚が鈍ってる。台無しだよ」
「でもでも。死んでしまったら元も子もないでしょう? 加減なんてわからないもの」
「ああ、これはしばらく休ませないと駄目だなあ」
二人の会話が、どこか遠い世界の出来事のように感じる。
水に溺れたように視界が濁ってゆく。
「失礼します。ミチコさん、ヨウイチさん。ご主人様がお呼びです」
新たな誰かの声がした。遠ざかる足音。代わりに近寄ってくる人影。
誰だったろう? 思い出すことはできない。
自分が何者なのかも知りたかったが、驚くほど何も出てこない。
肩に柔らかい肌が触れて、そのまま包み込まれた。ひどい悪臭の中で、僅かな優しい香りが鼻腔をつく。懐かしさが込み上げ、焦燥感が脳を焼いた。何か大切なことを忘れている気がするが、思い出せない。手がかりが、ない。白いフリルが鼻先をくすぐり、ああこれはメイド服だなと気づいたが、それだけだ。
深い海の底に引きずり込まれるように、再び意識が沈んでいく。
どれくらい時間がたったのかはわからない。
次に目が覚めた時、僕はやはり同じ場所にいた。殺戮現場のように細切れの肉片が並べられたスチールラック。床に敷かれたビニールシートには血潮が溜まり、特有の鉄臭さを漂わせている。辺りを見回そうと首に力を入れると、今度はあっけないほど簡単に動いた。自分の体を確認する。手も足も無事だ。なくなっていたものが綺麗に元通りになっている。
そこで、何かを思い出しかけた。だが、脳に電気を流したような鋭い痛みが走り、それ以上を考えることはできなかった。
足元には先ほどまでなかった死体がひとつ増えている。人間のようだが、肉は削げおち、白く干からびていて、性別の判断はつかない。まるでミイラだ。
歯にまとわりついた異物感。舌で剥がして確認すると、それは何かの皮膚だった。
立ち上がろうと力を入れる。想像以上に自分の体が軽くてつんのめってしまった。受け身をとろうと敷かれたビニールシートに手をつくと、生暖かい血糊がべっとり付着した。
無意識にそれを舐めとる。底知れぬ多幸感が背中を這う。たまらず跪いて地面を舐めまわした。喉の奥から乾いた笑いが漏れる。そこで初めて自分の声を知った。どうしてこんなに笑えるのか自分でもわからない。何かが欠けているはずなのだが、それさえどうでも良く思えた。身体の芯から力がみなぎり、熱気が肌を焦がす。
「もう十分です」
声に振り返ると背後にメイド服を身にまとった女性が立っていた。存在感なく、死人のように立ち尽くしている。端整に切り揃えられた黒髪から、栗色の瞳が憐れむようにこちらを見ている。その凛とした立ち姿にやけに見覚えがあったが、細部を思い出せない。
「ユウキさん。今すぐここから逃げてください」
ユウキ。僕の名前だろうか? そういえば、そんな名前だったような気もする。だがどうだってよかった。名前よりも大切なものを僕は忘れている。そんな気がした。
なんの脈絡もなく、脳裏に滑らかな銀髪の少女が投影される。
柔らかい日差の中で、僕はその美しい銀髪を櫛でといていた。
おもむろに少女が振り返った。焦点を結ばない瞳はどこか虚空を漂う。僕は隠し持っていたスミレの髪飾りをその頭にそっと乗せてやる。少女は最初、不思議そうに首を傾げ、細い指で何度も感触を確かめる。やがて正体に気づいて、幸せそうに、はにかむように笑った。
そうだ。忘れていたのは、その笑顔だ。
少女の名前は思い出せない。自分が誰かもわからない。でも、関係なかった。
その幸福な笑顔さえ嘘でなかったのならそれで良い。
「ちょっと、ユウキさん。そっちはだめです」
メイドの慌てる声がして、肩を後から掴まれる。
「今すぐ逃げてください」
少女の喜ぶ姿がまぶたに焼き付いて離れない。銀色によく映える、紫色のスミレの髪飾り。
今はただ、あの笑顔が嘘でない証拠がほしかった。
この幸せの記憶が、偽物ではないと証明したかった。
メイドの制止を振り切って、おぼつかない足取りで前に進む。何も思い出せないが、進むべき方向はわかっていた。その先に望むものがあるかは知らないが、行くしかなかった。
階段を這うように上り、その部屋に入る。
正面の窓、樹木の隙間から青々とした空が覗いている。どうやら今は昼時だ。
陽気な日光に照らされた部屋の中央に、木製のテーブル。その上にあっさりと置かれていた。
探し求めていたもの。
僕がシオンに送ったプレゼント。
そう、シオンだ。名前。やっと思い出せた。
「やあ、待ちくたびれたよ」
室内に低くしゃがれた男の声が響く。
紳士服姿の男が、テーブルの椅子に腰掛けていた。シルクハットを深々と被り、白い手袋をした両腕には長いステッキを携えている。足元には革製の大きな旅行鞄。
「残念ながら、私はしばらく日本を留守にすることにした。もともとその気だったんだ。気づけば二十年近くもこの場所で過ごしてしまったが、やりたいこともやったし、娘の成長にも立ち会えたからな。今度はね、海外で私のテーマパークを建設する計画があるんだ。次はそこの最高経営者を名乗ることにした。監督業も悪くなかったが、そろそろ新しい刺激が欲しかったし、いい機会だと思ってね。シオリ・ユメハラの訃報はじきに全国ニュースの速報で流れるだろう。ああ、それにしても実に楽しみだ。今から心躍るよ。人生には好奇心と活力が重要だ」
男はそこで壁際をチラリと見る。無意識にその視線を追う。
壁際に設置されたパイプベッドの上に、先ほどの中年男女の生首が置かれていた。
仲良く向き合って並べられたシルエット。口づけを交わしているようにも見える。血が抜かれているのか二人の顔は真っ青で、周囲には、大量の写真が埋土のように積み重なっていた。
そのうちの一枚は、母親に抱きつかれて恥ずかしがる男の子の写真だった。
男は悠々と立ち上がると、手にしたステッキを振った。カランという子気味の良い音とともに、持ち手のみを残してステッキが分離する。中から現れたのは銀色に輝く刃だ。
「いいだろう? これ、仕込み刀になっているんだよ」
銀の刃が日差しを吸収して煌めく。刃先はこちらを向いていた。
「立つ鳥跡を濁さず、と言うしね。君とサユリにも消えてもらおうかな」
いつのまにか先ほどのメイドが僕と並んで立っていた。右手が強く握られている。
殺されるのは構わない。でも最後に、あの髪飾りに手が届くだろうか? 進行方向をふさぐ形で男がステッキを構えている。髪飾りを手にとれば、シオンという名前の少女との記憶や、僕自身のことも、ちゃんと思い出せる。そんな確信があった。
今の僕には何も残っていない。たぶん全部、取りこぼしてしまった。だから最後に一つくらい、確かなものを回収しておきたかった。すべてが正しかったと言い切れる、自信が欲しかった。幸せの瞬間の、証拠が欲しかった。
「お別れだ」
男がステッキを振り上げる。
刹那、窓ガラスが轟音とともに爆ぜた。ガラス片がキラキラと輝きながら散っていく。
剣呑な花吹雪。
「あはは、お父様」
記憶の通りの美貌を持つ銀髪少女が、空を舞っていた。
僕の大好きな人。シオン。
「おお、愛娘よ。また会えるとは奇遇だな」
シオンは恐ろしく俊敏な動作で男に飛びかかった。男は軽々と躱す。巻き込んだ椅子とテーブルが粉砕し、充満した煙で視界が遮られる。渇いた打撃音がして、悲鳴のような風切り音とともに勢いよく吹き飛ばされたシオンが天井に激突した。あまりの衝撃波に鼓膜が一瞬音を拾わなくなる。
「うふふ、痛い。あはははは!」
「ふむ。ずいぶんと機嫌が良いようだ」
立ち上がるシオンの様子を確認した途端、僕の胸は引き裂かれるように痛んだ。
顔面に横一線――両目を抉る深い刀傷ができている。
吐きそうなほどの嫌悪感。今すぐ男に飛びかかって、同じように眼球を引きちぎってやりたい衝動に駆られる。メイドの腕を振りほどき、怒りに任せてがむしゃらに地面を蹴った。
直後、男が片手で投げはなった抜き身の刃が僕の肩に直撃し、あっという間に壁際まで無様に吹き飛ばされる。すぐに立ち上がろうとしたが膝に力が入らない。脳を強く打ちすぎたのか視界の半分が黒く覆われていた。滝のような鼻血が止まらない。ひどく苦しい。僕は無力だ。
「くくく。親子水入らずの機会だ。邪魔をしないでくれよ」
「お父様!」
半分の視界の中で、両目を負傷したシオンが床を蹴る。骨と骨がぶつかる生々しい音。再び弾き飛ばされたシオンの肩から血が吹き出した。それでも不敵な笑みは崩さない。その姿はひどく痛々しくて、僕の心はますます引き締められる。やめてほしかったが、言葉が出ない。シオンは獣のように四足で壁を登ると、そのまま自重を生かした跳躍で男の懐に潜り込み、わき腹に回し蹴りを食らわせる。そんな渾身の一撃を受けても、男はピクリとも動じない。
「視界を奪ってここまで動けるとは、驚いたな」
「あはははは、お父様! 私は幸せになるわ。とびきりの幸せものになるわ! 人間なんて、もう、ただの餌なんだってわかったの。本当、バカみたい。みんなみーんな、バカみたい。 あなたもよユウキ。そんなにウジウジして情けない。私と幸せになるんでしょう。底抜けに明るい未来を掴み取るんでしょう。なら笑わなきゃ。あはははは! あはははは! 本当もうおかしくって、たまらないわ」
全身に傷を負ったシオンは僕を見て、歯をむき出しにして笑う。
斬りつけられた両の瞳からはとめどなく血が滴っている。
「くくく。そうか。そんな風に考えられるようになったとは、ずいぶんと成長したようだね」
男は床に落ちたシルクハットを拾い上げながら、唇にシオンとそっくりの弧を刻む。
「いいさ、好きにしたら。ほんの冗談だよ。君が近くに来ているのがわかったから少しからかってみただけさ。ユウキくんは君にやる。この建物も好きにするといい。もともと我が子に譲ることを想定して準備していたものだからね。人目をしのぐには、ここは良い場所だ」
「ついでにそこのメイドも貰っていくわね。だって私、人間をうまく料理できないもの」
「サユリは私がこの手で壊すために、手塩にかけて育ててきた逸材でね。ロクロ並みに気に入っているんだ。いくら娘だといっても、易々と渡すわけにはいかないなあ」
「知らないわ、そんなこと!」
「……まあ仕方ないか。愛娘の頼みならば断れまい」
あっさりと引き下がった男は降参だというように両手を軽く挙げた。
それから瓦礫に埋もれた旅行鞄を軽々と拾い上げ、埃を払う。
「シオン、せいぜい楽しくやりなよ。またいつか、会うこともあるだろう。なにせ私たち親子には無限大の命があるのだから。一つ教えておくが、この不死身に飽きないコツはね、人間の気持ちを考えることだよ。決して人間をただの餌などと思わないことだ。特にサユリは食い気が強いから、一緒に過ごすつもりなら気をつけなくちゃいけない。ただの人喰いの化け物になったって、たいして面白くはないからな。大切なのは世界との付き合い方だ。私の場合それは映画を撮り、眷属を愛でることだった。君たちの場合は何になるんだろうね? 家族ごっこでもするのかな? なんでもいいが、とにかく楽しくやることだ。せいぜい趣向を凝らして頑張りなよ。これは父親からの忠告さ。私は君に嫌われているようだがね、シオン。君の存在は、確かに私の生活に潤いを与えてくれていたよ。生まれてきてくれてありがとう。では、嫌われ者は大人しく退散するとしよう。それじゃあ」
上機嫌に手を振ると、男の身体は蜃気楼のようにかき消えた。
「ユウキ、あなたを助けにきたわ」
僕の前に歩み寄り、ボロボロの立ち姿で手を差し出してくるシオン。
足元ではスミレの髪飾りが、シオンに踏みつけられて粉々に砕け散っている。
もう、二度と元には戻らないだろうなと思った。
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