4-1 歪み
「戻りましたよ、ユウキさん」
肩を揺すられて目を開けると、アカネが僕を見下している。
「おはよう」
「もう夜ですよ。まったくもう」
まだ倦怠感の残る体を起こすと、フローリングの上で寝ていたせいで背中が痛んだ。
ずいぶんと深く眠り込んでしまったようである。
アカネの後ろにはシオンがお化けのように立っていた。その顔はひどく浮かない。
今日は朝から二人で映画を観に行って、その後でショッピングをしてきたのではなかったっけ? だから僕はこうして一人寂しく不貞寝していたのである。ところが、楽しんできたはずの当人が沈鬱な面持ちをしているとは、いったいどういうことだろう。
そこで、シオンが両手に何かを抱えていることに気がついた。
寝起きで霞む目を凝らしてよく見ると、それはどうやら柴犬のようであった。子犬というほど小さくはないが、やせ細っているせいでシオンの胸にすっぽりと収まっている。赤茶けた毛にはところどころ黒い部分が入り混じっており、下顎から首元の部分だけがスカーフのように白くなっていた。たしか、胡麻柴というのだ。昔興味があって図鑑で調べたことがある。
「その犬、どうしたの?」
「拾ってくださいって書かれていたの」
言って、シオンは抱く両腕に力を込めた。
犬は随分と泥だらけのようで、シオンの腕に黒い泥の跡をつけている。その調子では、せっかくのドレスも泥だらけなのではなかろうか。
「捨て犬ですよ。段ボールに張り紙をして、河川敷に置いてあったんです。本当にひどいことをします!」
怒り心頭といった感じのアカネは、両手に抱えた重たそうなビニール袋を床に置いた。
ドックフード、ピンク色の首輪とリード、おもちゃのゴムボール。これは何かと尋ねると、犬を拾った後で、わざわざペットショップに行って取り揃えてきたのだという。
「さて、シオンちゃん。とりあえずこの子を一緒に洗いましょう」
「わかったわ」
そうして僕を置いて、二人で仲良く風呂場の方へ行ってしまった。
シオンが浮かない顔をしているのはひょっとしたら血液が足りていないせいかと心配したが、杞憂でよかった。きっと捨て犬に心痛めていたんだな。アカネと出会ってからのシオンは活力に満ちて幸せそうであるから、どうせすぐに元気を取り戻すだろう。
僕は再びフローリングの上で大の字になった。
ちなみに今日二人が見てきた映画は青春恋愛ものである。
昨日の夜シオンがタイトルを口走っていたので、僕は今朝それを調べた。そうして二人が出かけている間、未練がましく映画の予告編をリピートしては、全体のストーリーを予想する遊びをしていたのである。もちろん、僕が一人で残ったのは、シオンとアカネのかけがえのない時間を二人で大切に過ごしてほしいという僕なりの気遣いではあるのだが、一日を無駄に過ごしてしまったというのは、なかなかにむなしいものだ。悲しいものだ。
だって、あと数日以内にアカネを殺さなければ、僕はバーボンに殺されてしまう。そのことについて考えなければならないのだが、考えれば考えるほどわからなくなって、答えが出ないまま無為に時間が過ぎてゆく。まったくどうしたものだろうか。僕はずっと君のそばにいたいのだけれどな。その場のノリのようなものでシオンとアカネをわざわざ引き合わせてしまったから、余計に事態がややこしくなってしまった。でも、あんな風に懇願されたら、僕に断れるわけがないんだ。
シオンは言葉にこそ出さないが、随分とアカネに懐いているようだし、ここでアカネを始末したら、僕はシオンに嫌われて、文字通り永遠に口を聞いてもらえないのではなかろうか。それは困る。だが、アカネを生かす選択をすれば、僕は自分の幸せを諦めなければならぬのだ。
君と別れなければならぬのだ。
僕たちはすでにマグメルから離れているのだから、バーボンも試すようなことをする必要はないと思うのだけどなぁ。放っておいてくれればいいのになぁ。まあ、ロクロも同じようなことをさせられたと言っていたし、これはヤクザが兄弟の盃を交わすような、そういう儀式めいたものなのかもしれない。あるいは単なる面白半分か、暇つぶしか。いずれにしろ僕がバーボンの眷属である以上、避けて通れぬ道というわけだ。
今の幸せそうなシオンを見ていると、どうやらお邪魔虫は僕の方であるようなので、どちらかといえば僕の明るい未来はもう絶望的である。だから一秒でも長くシオンのそばにいて、一緒の話題に興じて、同じ感動を分かち合いあいたいのだけれど、肝心のシオンはアカネを痛く気に入っている様子だからタチが悪い。どこにも取り付く島がない。
本当は、僕だって幸せになりたいんだ。生前の君が願ってくれたように、幸せにならなければいけないんだ。でも、シオンはアカネとの未来を望むだろう。決して僕のことを選んではくれないだろう。それできっと、自分は幸せなんだと言い張るのだろう。
本当にそうだろうか? もちろん僕がいなくなれば、血を吸わない君はそう長くは持たない。自発的に人間を襲わない限り、君は血に飢えて干からびてしまう。永遠に続く飢餓感はさぞ耐え難いだろうが、不死身の君がそこから逃れる術はないのだ。考えただけでゾッとする話だが、でもね、これはまだマシな方なんだよ。本当に辛いのは、君が飢えの苦しみに耐えられずに、吸血鬼である自分を受け入れてしまった時だ。
想像してみてくれ。たとえ自分の気持ちに折り合いをつけて人間を襲えるようになっても、きっと君は友達のアカネを襲うことはしないはずだ。そして向こう数十年は楽しく暮らす。問題はその後で、アカネは人間なのだからいずれ死んでしまって、そうしたら君は正真正銘のひとりぼっち。新しく人間関係を作ろうにも、アカネを失ってしまった辛い過去が足かせとなって踏ん切りをつけることはできないし、その頃には精神が摩耗してだんだんと人間を餌としか認識できなくなっている。そこで君はようやくこの世界が自分にとって本当の地獄だと気づくわけだ。ある朝、窓の外からは笑い合う人々の喧騒が聞こえてくるし、自分もその輪の中に入りたいのだけれど、ひどく喉が渇いてしまって、今すぐにでも血が欲しい。そんな矛盾した願望を抱く自分に嫌気がさして泣くのだが、そんな時に限って、脳裏には昔の記憶ばかりが浮かんでくる。どうしようもなくすさんでしまった君が、まだアカネが生きていた頃の、毎日が宝物だった日々を思い出した時、そのとき君は、いったい何を思うのだろう?
アカネを諦めて僕がそばにいてやったほうがいくらかマシというものだ。それで本当に君が幸せになれるのかと問われれば返答に困ってしまうけれど。
でもまあ、こんなことを考えても全部無駄なんだ。シオンの大切な人を奪う勇気など僕にはないのだから、結局どうすることもできない。僕も君も、幸せにはなれない。詰みである。
そんな非生産的なことをひとり、グダグダと考えていると、洗面所の方からすごい勢いでこちらへ走ってくる影があった。さっきの捨て犬だ。風呂場の方からシオンとアカネの短い悲鳴が続く。
全身から水が滴り、地面に泥の足跡を残している。掃除が大変そうだなあ。他人事のようにその様子を眺めていると、犬はそのままの勢いで僕の顔面へと飛びかかってきた。
慌ててそれを引き剥がしたときにはもう遅い。執拗に舐めまわされたことで顔面は生暖かい唾液まみれになっているし、ひどい獣臭さが鼻をつく。
ため息をつくが、犬は悪びれもせずにぐるぐると僕の周りを回り続けている。
水分で毛の膨らみが失われているせいか、哀れなほど痩せた体の輪郭が浮き彫りになっていた。足の付け根など、どこからそんなに走り回る力が湧いてくるのか不思議なほどか細い。背中も肋も恐ろしいほど骨ばっているし、やはり捨て犬なのだなと、なんだかやるせない気分になってきた僕は、尻尾を振り続けるその犬を優しく抱き上げた。
底知れぬ暖かさと確かな心臓の鼓動。ああ生きているのだなと、すぐにわかった。哀れな捨て子でも、やはり持つべきものは持っていて、僕やシオンとは違うのだ。
そしてもう一度見つめ合った時、僕はあっと思った。濡れているせいか、ちょうど頭頂部のあたりの毛が逆立っていたのだ。あっ、アフロだ。
逆立った頭、パッチリとした瞳に、この愛くるしさは、まさにアフロ。
木から落ちて死んでしまった雛鳥の面影を、間違いなく目の前の犬は持っていた。
ひょっとしてアフロの生まれ変わりだろうか?
一度そのイメージが湧いてくると、もはやアフロとしか思えない。アフロ。アフロ。
「なにしてるの」
アフロ、アフロと言いながら、僕はアフロに頬ずりをする。そしてアフロはそんな僕の耳をハグハグと甘噛みしてくれた。それがよほど滑稽に映ったのか、シオンはぷっと吹き出す。
「ばかみたい」
「この子の名前、まだ決まってないならアフロにしよう」
「あのときは…………、ごめんなさい」
ああ! そういえば君が窓から無理やり触ろうとしたせいで、アフロは死んでしまったんだっけな。だが、そんなことは関係ない。過去を悔いても仕方ない。僕たちは前に進まなければならぬのだ。そうしてペットといえば、幸せな家庭の象徴である。
「いいんだ。こいつはアフロだ。それしかない」
そう言うと、シオンは気まずそうな顔をして押し黙ってしまった。
無言は肯定の証とみなします。
「いいんじゃなですか? アフロちゃん。かわいいと思います」
アフロの足跡を一つずつ雑巾で拭き取っていたアカネが賛同してくれる。
「よし、お前は今日からアフロだ」
そう呼びかけると、アフロは尻尾を立ててワンと吠えた。
ソファーでアカネに膝枕をされながら、シオンは安らかな寝息を立てている。
「シオンちゃん。本当に可愛い子ですね。お人形さんみたい」
アカネはシオンの銀髪に指を通しながら、その寝顔を堪能していた。
人形という表現は言い得て妙だな、と思う。狙って言ったのならたいしたものだが、そうではないのが残念なところだ。
「そういえばこのアパートはペットを飼っていいのかな」
「それは大丈夫です。いつか犬を飼おうと思って、大丈夫なところを選んだので。お父さんの仕事や私の学校が忙しくてなかなか踏み切れていなかったんですが、今は二人がいるので安心です」
「動物、好きなんだね」
「わたし、昔は獣医になりたかったんですよ。大学も獣医学部を選ぼうかと思ったほどです」
「へえ、以外だな」
僕は足元で丸くなっているアフロを見やる。
先ほどまでゴムボールを投げて遊んでやっていたのだが、今は気持ちよさそうに眠っている。
嬉々としてはしゃぐアフロを満足させるのはなかなかに大変だった。リビングルームは犬が走り回れるほど広いわけではないので、何度投げてもすぐに拾ってきてしまう。そうして僕の前にボールを落としては、もう一度もう一度とせがむように吠えるのである。
やせ細った今でもこんなに元気がいいのなら、たくさん食べて体重をつけたらいったいどうなってしまうのか。少し不安ではあるけれど、とにかく元気なのはいいことだ。ボールを拾ってくるというのもなかなか賢い。こういうのは小さな頃からきちんと躾をしなければできない芸当だと思うのだけれど、案外子犬の頃はまともに育てられていたのかもしれない。
犬は飼い主の顔を決して忘れないと聞いたことがあるが、あれは本当だろうか? ひょっとしたらアフロもこう見えて、捨てられたことに傷ついているのかもしれない。それとも捨てられたことにすら気づけずに、死ぬまで元の飼い主が迎えにくるのを待ち続けるのだろうか。
「知ってますか? 獣医学部を出たからって、獣医になる人は少ないんですよ。これは友人からの受け売りなんですけど、大抵は普通に就職してしまうらしいんです。もしも私が獣医の道を選んでいたらどうなっていたのかなって、たまにそんなことを考えます」
「でも君はお父さんみたいな立派な警察官になるんだろう?」
言うと、アカネは少し苦い笑みを浮かべて、
「もちろんです。わたしはお父さんみたいな正義のヒーローになって、世界中の困っている人を助けてあげるんですよ。泣いている人のそばにいって、大丈夫だよって、安心させてあげるんです。でもですね、実は隠していたんですが、インターン、まだ期間があったはずなのになぜだか中止になっちゃって。わたし、才能なかったのかなって」
涙ぐむアカネに、しかし僕はかける言葉を持たない。
……そういえば、シオンはこの件について触れようともしなかったな。
もちろん記憶を失っているというのもあるだろうが、君だって仏壇の上の写真は何度も目にしているはずなのに、それでも無反応を貫き通すということは、やはり君は人間の心を完全に失っているのだと思うよ。いくら人間らしくありたいと願っても、その崇高な精神だけが先行していて、他のあらゆるものが全然追いつけていないんだ。
「シオンちゃんも、将来の夢とかあるんでしょうか」
「どうだろう? あるんじゃないかな夢くらい。叶うかは別としても、やりたいこともなりたいものも、きっとたくさんあるだろう。シオンはね、基本的にロマンチストなんだよ。いつも大きな空ばかり見上げて歩くから、自分が落ちていることにすら気づかない不幸な子だ。だから君が幸せにしてやってくれよ。どうにも僕には無理そうだから。それともさすがの正義のヒーローも、こんな状況ではお手上げかい?」
アカネは僕の言葉の意味がわからないのか小首を傾げる。僕も自分がなんでこんなことを口走ってしまったのかわからなかった。
「ユウキさんも相当なロマンチストだと思いますけどね」
「まあ、僕は戦士だからな。シオンのために戦う、愛の戦士なのだ」
そこで突然、テレビの電源が入った。リモコンを操作したわけではない。テレビがひとりでに点いたのである。あまりの怪奇現象に、僕たちは目を丸くして見つめ合う。
『ユメハラ監督、今作はバーボン・シリーズの続編という認識でいいのでしょうか?』
画面に映ったのは対談形式の特集番組だった。女性キャスターとバーボンが向かい合って座っている。いたるところに白いノイズが走っており、画質も音質もひどく悪い。
『まあ間違いではありませんが、どちらかといえばスピンオフです。今作ではバーボン・ド・ブロイの幼少期にフォーカスを当てていますからね。規制ギリギリの表現も積極的に狙っていきました。苦手な方には一部ショッキングな場面がありますが、かなりいいものに仕上がったと思うので、ぜひ劇場の空気で味わってほしいです』
『簡単にあらすじの紹介をお願いします』
『はい。バーボン・ド・ブロイが吸血鬼になるきっかけの銃乱射事件。そこに至る過程を丁寧に追っています。幼少期、バーボンは不幸な境遇にあるのですが、やがて暖かい家庭に養子として迎え入れられる。そこでつかの間の幸福を享受した後、なんと養子先の子供を殺してしまうのです。それからの展開は秘密ですが、彼が狂気に染まる仮定を丁寧に描いています』
『ずばり、今作のテーマは?』
『優しさへの恐怖、ですかね。皆さん想像してみてください。自分が全てを失ったところを。そしてある時、突然膨大な幸福が降りかかってくるのです』
『それは怖いことでしょうか。救われたのなら、とても幸せなことでは?』
『もちろんそういうこともあるでしょう。ですが主人公はそう考えない。優しさの恐ろしいところは、それまで抱えてきたすべての不幸ごとが、本当にただの不幸ごとだったのだと突きつけてくるところです。優しさは、悪びれもせずに心の奥深くに入り込んできては、それが真っ当な人間の与えられるべき当然の権利なのだと主張する。だから主人公は葛藤するわけです。今まで感じていた凄惨な苦しみは、本当にただの不幸ごとに過ぎなかったのか。意味はなかったのか? 絶望に抗うために積み上げてきた自分の価値観が、優しさの前ではただ見下されるだけだと気づく。手に入れた幸福の眩しさに、主人公は耐えられない。そしてだんだんと何かがずれていく。引き返せない事件を起こしてしまい、退路を断たれ、あとは突き進むしかない。そんな絶望感を丁寧に表現した映画です。さて、ここで皆さんにとある映像をご覧入れましょう。少々ショッキングな映像ですが、どうぞ楽しんでください』
そこで画面が切り替わる。
最初に映ったのは僕だった。
目の前には誕生日ケーキが置いてあって、母親役のミチコと父親役のヨウイチが取り囲むようにしてバースデーソングを歌っている。幸せの瞬間。すると、奥からジュンが現れる。どうやら僕のために誕生日プレゼントを用意してくれていたようである。
お兄ちゃん。お誕生日おめでとう。
リボンを解いて開封すると、中には青いミサンガが入っていた。
やがてバースデーソングが歌い終わり、僕はケーキに刺されたロウソクに息を吹きかける。一度目では一本しか消えず、全部消すのに三回かかってしまう。恥ずかしさに顔を赤らめるが、ミチコとヨウイチ、ジュンは満面の笑みで拍手を送ってくれる。
画面がブラックアウト。
僕の右手にはナイフが握られている。浴槽で、僕はジュンを解体していた。
足元には肉片の絡まった糸鋸が落ちている。
僕は呑気に鼻歌など歌っており、そのメロディーはバースデーソングだ。誕生を祝う歌と共に、ジュンの腹部をサイコロステーキのように等間隔に裁断していく。切り出した肉塊は円柱上に固めておかれ、その上にはイチゴに対応する目鼻口が並ぶ。
醜悪なバースデーケーキ。僕は淡々と解体に耽っている。
何も知らないミチコがバスルームの扉を開け、広がった光景に絶句する。
耳をつんざく金切り声は心臓をしぼりあげるほど強烈で、驚いた僕はナイフを落としてしまう。拾い直そうとするが、脂で滑って上手くいかない。ミチコはこの世のものとは思えぬ鬼の形相で何かを訴えかけてくるのだが、僕は耳鳴りがひどくて音を上手く拾えない。
なんだって? なんて言っているんだ? 全然聞き取れないよ。
画面の中の僕が言う。
子供を失った親の悲しみはそんなものなのかい?
悲しいなら、もっと大声で泣き喚いてくれなくちゃ。
* * *
「どうしたんですか、こんなところで」
植物の海を抜けて入り口のガラス扉の前で立っていると、ジャージ姿のヨウイチに話しかけられた。朝のジョギングでもしてきたのだろうか。息を切らして白い霧を吐いている。
「そんな薄着で、風邪でも引いたらたいんへんだ。中に入りましょう」
誰かがここを通りかかるのを待っていたんですと、僕は言う。
まだ日の出前で薄暗いけれど、見落とすはずがないから。
そこにあったはずのものがどこにもない。強烈な違和感。
「ここにあった看板。どこにいったんですか?」
「看板? そんなものありましたかね」
互助会マグメル。そう彫られた木の看板があったはずだ。ロクロが立てたと言っていた。
「うーん、勘違いじゃないですか? ロクロなんて人も知らないなあ」
呑気に首を捻るヨウイチに、僕はそうですかと答える。
ひょっとしたら、誰かが撤去しただけかもしれない。
ひょっとしたら、すべては僕の勘違いなのかもしれない。
「ジュン君に会いたいんですが」
「はあ、ボクには誰だかわかりませんが」
ポケットに押し込めた青いミサンガを握りしめながら、僕はそうですかと答える。
「とりあえず中に入りましょう。こんな冬の朝に、どうしてそんなに薄着なんですか。驚きましたよ。幽霊のようにそんなところに立っていたら、みんなを驚かせてしまいます」
「みんなとは?」
「もちろんここの住人ですよ」
「名前を挙げてみてください」
「はあ。ミチコとサユリさんに、ご主人様です。シオンさんはあなたが連れ出してしまいましたからね」
「もういいです」
ヨウイチの不思議そうな視線を背後に感じながらマグメルに入る。
サユリの部屋の扉を何度も叩き、目をこすりながら現れた寝間着姿のサユリにも同じ質問をしてみたのだけれど、帰ってきたのはヨウイチと同じ答えだった。
「ロクロは口の悪いカメラマンで、ここを互助会マグメルと呼んでいました。ジュン君はミチコとヨウイチさんの子供です。見た目が小学校の高学年くらいの」
「ここにそんな人はいませんし、ミチコさんとヨウイチさんにお子様なんていません。だいたいお二人の生前のお子様なら、もうとっくに成人しているはずですよ」
「いえ、ミチコさんが眷属になってから産んだ子です。眷属の子供は見た目が変わらないから、定期的に外見を変えることで擬似的に成長させているんです。知りませんか?」
懸命に訴える僕に、しかしサユリは眉を寄せる。
「聞いたこともありません」
なるほど。
「本当に、大丈夫ですか?」
「さあ、わかりません。僕は大丈夫だと思いますか?」
逆に尋ねると、サユリは手を伸ばして僕の額を引き寄せ、自分の額に当てた。
昔、熱を出すとよく母さんがやってくれた仕草。だが、今ここでやられるとわざとらしく感じてしまうのは気のせいか。きっと全部バーボンが仕組んだ罠なんだ。僕を陥れるための。
これが伏線なら、次に存在を消されるのはサユリかもしれない。そうしたら僕は再び慌てふためいて、あの男の嗜虐心をどんどんと満たすことになるだろう。困ったことに、右も左もわからない状況で優しく接してくれたサユリには少なからず好感を持っている。
「とりあえず、ご主人様に相談したらどうでしょう? その二人の名前にも、何か心当たりがあるかもしれません。少し待っていてください」
僕は頷き、言われた通りに扉の前で待つ。すぐに、メイド服に着替えたサユリが現れた。
寝起きとは思えないほど凛とした表情で手を引いてくれるサユリに連れられて、僕は二階の廊下の突き当たりの部屋に入る。中央には格調高いマホガニーの机。そこに深々と腰をかけながら、紳士服姿のバーボン・ド・ブロイは呑気に新聞を読んでいた。
「やあ」いつも通りの能天気な口調で、バーボンは言う。「今朝はずいぶんと早いね。実に良いことだ。早起きは三文の徳というからね」
「ロクロとジュンがいないんです」
言うと、血のように赤い瞳がこちらをじっと睨む。
「ああ、そのことか」
バーボンは机の引き出しから金属製の鍵を取り出すと、ゆっくりと立ち上がる。
「……すべての人間の最終目的地は墓場だが、人間はあらゆる素晴らしいものが蓄積した生涯最後の日を過ごすために生まれてくるわけじゃない」
いったい何を言っているのだろう?
「どうして僕のポケットの中に青いミサンガが入っていたのか、教えてください」
ふん、と鼻を鳴らして、バーボンはクローゼットの扉に鍵を突き刺す。
「経過が重要、ということだ。途中経過がね。その結果失うものがあったとしても、それは仕方のないことだと思わないか?」
ぎい。錆びた蝶番が擦れる嫌な音とともに、重々しいクローゼットの扉が開け放たれる。
ウォークインクローゼットの中に、何かが吊るされていた。人型と呼ぶにはあまりにも色々なものを失いすぎているロクロ。後ろからサユリの悲鳴が続く。
僕は見ないふりをして、言う。
「ジュンはどこですか」
「ロクロは随分と殺し甲斐があったよ。実のところ、今まで私は眷属を手にかけたことはなかったからね。初めての体験だった。傷をつけてもすぐ回復してしまうというのは、ずいぶんと骨が折れる反面、達したときの喜びもひとしおだ。これまで人をたくさん殺してきたが、やはり家族のように大切に接してきた眷属ともなると、格別だな」
そんな話は聞きたくない。
ジュンがどこにいったのか。頼むから、今はそのことだけを教えてくれ。
「ロクロは最後になんて言ったと思う? 助けてください、貴方のお役に立てるように努力しますから、だよ。そんなありきたりなセリフを訴えかけてきたものだから、私は腹を抱えて悶死しそうになった。ああ、勘違いしないで欲しいのだが、ロクロを失う結果になったのは本当に辛いことだよ。愛情を持って育ててきたのだから当たり前さ。だが、その喪失感が、鏡写しの快楽となって、私に襲いかかるのだ。まさに、私がここで少人数の眷属を囲って長い時間を過ごしていた狙いのひとつはこれだよ。ようやく蒔いた種に実がなったというわけだ。実に甘美な果実がね。サユリとミチコとヨウイチ。あと三回だけしかこれを味わえないのだと思うと本当に残念だが、仕方ない。増やしすぎると愛着がわかないからな」
……教えてくれ。
ジュンはどこなのか。あの映像のように、僕が殺してしまったのか。
「くくく。君にはなかなか魅力がある。だからね、こうなったのは君のせいでもあるんだよ。だってそんな期待通りの反応をされちゃ、くくく、私は堪らないよ。ああ、でも君は、私の課した試験を乗り越えられない落第生となりそうだから、ロクロと同じことをしなくちゃなあ。残念、実に残念だ。そうしたら、あの娘は怒るかな。それは非常にまずいのだが、たとえ愛娘に嫌われる結果になろうとも、そこに至る過程を存分に楽しむことができれば良しとしよう。それこそが私の生きがいだからね」
何を言っているのかわからない。
ジュンは僕が殺したのか。あの映像は本物なのか。すべて幻だったのか。
僕は何度も何度も訊くが、バーボンはただ肩を揺らして高々と笑い続ける。
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