3-2 互助会マグメル
醜いほどに肥大した鼻と、左右で大きさの違う歪んだ目。
両開きのガラス扉から外の様子を確認しようと思ったのだが、いつのまにか日は沈んでいて、ガラスには変わり果てた自分の顔だけが映し出されていた。
逐一元に戻すのは面倒だから新しい顔を受け入れろと、バーボンは言った。
「なるほど、お前はその子が好きだったわけだな」
目の前に立つロクロは腕を組んで深く頷く。初めて会った時は、もう少し清涼感にあふれた青年に見えていたのだけれど、こうして相対していると、目の端には小さなシワが寄っていて、額には小さなニキビができているし、歯も黄ばんでいて、妙に汚い印象を与える。
「それは傑作だな。死んでなおこだわり続ける男というのも粘着質で気持ちが悪いが、まあ愛というものは多かれ少なかれ他人には理解できない要素を含んでいるものだからな。だから、胸を張って告白してこいよ。彼女、いつも部屋にこもっていて、俺はまだ会ったことすらないんだ。なあ、ヨウイチ。あの子はどんな子なんだい? こんな顔の悪いやつでも好いてくれそうな優しい子なのかい?」
ヨウイチと呼ばれた男は、コモンスペースのソファーに深々と腰をかけてテレビを見ていたが、話が自分に振られたとわかると、手を振って話しかけるなというジェスチャーをする。
テレビ画面には囲碁の試合が映し出されていた。碁盤の上には白と黒の石が多く入り乱れていて、素人であってもそれが試合の最終盤なのだろうということが予想できた。
「くそ、ヨウイチもノリが悪い。それにしても、お前の話を聞く限り、お前は最高に頭のおかしなやつだな。いくら腹が減っているからって、そんな見境もなく人間を襲うか? 俺たちは獣のように身勝手に襲いかかったりしない。死んでいたって理性を持っているのだからな。そのルールを守ってきたからこそ、これまで穏やかな日々を送ってこられたんだ。お前もこの場所で共同生活をしようというのなら、騒ぎを起こさないよう、肝に命じておくことだ」
そこで、ヨウイチが雄叫びを上げた。何やら興奮冷めやらぬ様子で腕を掲げて、ソファーの上に立ち上がっている。どうやら勝敗が決したらしい。
「ちょっとあなた、行儀悪いわよ」
廊下の奥から、大きな土鍋を両手に携えたミチコが現れた。鍋蓋にあいた穴から、白い煙が立ち上っている。ミチコはそれをテーブルに置かれたガス式の卓上コンロの上に乗せて、ダイヤルを回す。チチチ、という子気味の良い音がした後に火がついた。
「あなた、本当に囲碁が好きよね」
「悪いね。でもすごいな、名人はやっぱり。ボクは名人がデビューした時からずっと追いかけているんだ。初めてテレビに出た時から、こいつは只者じゃないと思ったよ。もう歳なのに、まだまだ現役なんてすごすぎる」
そこで、テレビが切り替わって全国ニュースになる。アナウンサーが言う。一家全員と警察官三名の命を奪った猟奇的な殺人犯、安原優希容疑者の半生を特集します。僕は慌ててリモコンを手に取り電源を切った。
「よぉ、有名人」
「ロクさん、かわいそうですよ」
からかうように僕を小突くロクロを、ミチコが制止する。
「だって、俺にはあのイカれた犯罪者が、目の前のブサイクな男と一緒だとは思えないぜ」
「そういえば、以前お会いした時とお顔が違いますね」
「死んだはずの犯人がまだ生きてましたなんて、間抜けな話ではあるからな。ご主人様の計らいらしい。それにしても、もう少しなんとかならなかったのかい? その非対称な顔は、なんというか、あまりにも哀れだ。雑誌や新聞で取り上げられているお前の顔が別段良いわけでもないが、いくらかましだぜ。どうだい、その変わり果てた顔をまだ、愛する彼女に見せていないんだろう? 今すぐ見せてきたらどうなんだ? なあ、おい。犯罪者め。何とか言えよ」
「皆さん。準備が整いました」
先ほどミチコがやってきた廊下の奥から、両手で一升瓶を大事そうに抱えたサユリが現れた。丁寧に切りそろえられた前髪から覗くその顔は、いつになくうれしそうである。
ロクロ。ヨウイチ。ミチコ。サユリ。僕。
一階のコモンスペースで、五人の眷属が鍋を囲む。ミチコとヨウイチの子供、ジュンはいなかった。アフロが死んだ日に、幸せな家庭にはペットがいるなどといって僕が傷つけてしまった男の子。あの時のことをもう一度ちゃんと謝りたかったのだが、夜も遅いし、眠ってしまったのかもしれない。
「今日はこの素晴らしき犯罪者くんの、少し早い歓迎会だ。なんでもまだこいつはご主人様の課したテストに合格できていないそうだからな。まあ、前祝いというのも良いだろう。なんせ久しぶりの新入りだ。皆、今宵は、存分に飲みたまえ。その許しはご主人様から出ている」
ロクロが口上を述べている間に、サユリが一升瓶の中身を全員分のグラスに手際よく注いでいく。右隣に座ったヨウイチがそのグラスを二つ手にとって、片方を僕に渡してくれた。
受け取ったグラスの中には赤い液体がなみなみと注がれている。明らかに血液であり、内心動揺してしまったのだが、顔に出すのは我慢した。これが彼らのやり方なのだろうし、せっかくの僕の歓迎会なのに、ここで水を差して空気を壊してしまうのも悪い気がしたからだ。
「では本日の主役くん」ロクロは僕の肩を掴んで無理やり立たせる。「挨拶をしてくれ」
「……あの、ユウキです。上で寝ているシオンとは家族でした。皆さんともこれから仲良く過ごしていけたらと思います。よろしくお願いします」
こういった宴会に参加するのは初めてだったので妙に緊張してしまったが、ロクロが先陣を切って大きな拍手をし、つられてコモンスペースは拍手喝采に包まれた。
「ようこそ、互助会マグメルへ。俺のことは親愛を込めてロクさんと呼んでくれ」
互助会マグメル。
入り口のガラス扉付近に立てられていた木製の看板を思い出す。確かそこにもそう彫り込まれていたはずだ。妙な名前だったので不思議と印象に残っている。
「表に看板がありましたね」
「おお、どうだった?」
「どうだったって、よく分かりませんでした」
「ここをマグメルと呼ぶのはロクさんだけですよ」と、赤い液体を眺めながら舌舐め釣りをするサユリが呟いた。なるほどサユリはきっとこの一升瓶を開けることを心待ちにしていたのだな。だから先ほどから、妙に浮かれた顔をしていたのだ。
「お前たちは本当に、センスがない。マグメルというのはね、ケルト神話に登場する死者の国だ。どうだ、これだけでも随分とイカした名前だと思わないか?」
ロクロは得体の知れない血液をゴクゴクと美味しそうに飲みながら、言う。
「マグメルには病気や死が存在しなくて、幸せは永遠に持続し、欲しいものはなんだって手に入る。選ばれたものしか辿り着くことができない理想郷だよ。まさにこの場所にピッタリだろう? それに助け合いの意味を込めて、互助会マグメルだ。ご主人様もなかなか気に入ってくれたネーミングだが、こいつらはセンスがないんで無視をする。せっかく俺が、看板まで作ってやったのにな。だからお前くらいはこの場所を、互助会マグメルと呼んでくれよ。マグメルだよ。マグメル。いいかい? 互助会マグメルだ」
気がつくと、ロクロの頬は仄かに赤みがかっている。見ると、サユリやロクロだけでなく、ミチコとヨウイチも顔を紅潮させながら仲睦まじく会話に興じていた。なんというか全員、まるで酔っ払っているような面立ちである。
これはどういうことだろう?
僕がまだ手をつけていないコップの中身を眺めていると、
「この一升瓶飲み物はね。血液を殺虫剤で割っているんですよ」
サユリが少し舌の足りない口調で説明してくれた。
「殺虫剤ですか?」
「ええ、アルコールの代わりなんです」
「よくわかりませんが、お酒では駄目なんですか?」
「馬鹿、酒なんて人間が飲むものを、俺たちが飲めるわけがないだろう? 途端に吐いてしまうさ。お前はまだ経験したことがないかもしれないが、あれは相当きついぜ」
「確かにあの感覚はひどいわよね」とミチコが続く。
「酒のような人間的なものでは、俺たちは酔えないんだよ。そして、殺虫剤のアルコール成分では酔えるんだ。これを発見したのはヨウイチだぜ。殺虫剤を飲もうと思うなんて気が狂っているが、お手柄だったな、おい」
ヨウイチは恥ずかしそうに頭をかく。
「ボクは生前からお酒が好きだったので。死んだからって諦めたくなかったんですよ。アルコール系洗剤も良い味を出すのですが、やっぱり殺虫剤には敵わない。ところで、そろそろ煮込めているんじゃないかな? ミチコ、具合はどうだい?」
「ええ、一度火を止めましょうか」
そうしてミチコが蓋を開けた。土鍋の中には肉が入っている。なんの肉かは知りたくなかった。非人間的なものしか受け付けない存在が、一体何の肉を食べると言うのだろう。
「うーん」ロクロが身を乗り出し、わずかに鍋を持ち上げながら言う。「これは男かな」
「またロクさんのデタラメがはじまったわ」
ミチコは呆れ顔だ。
「失礼な。男と女では血の重さが違うんだぞ。ヘモグロビン濃度によって変わるんだ。そしてこの重さは。うーん、やっぱり女かな。なあサユリ、どっちだ?」
「いいかげんだなぁ」肩を竦めながらヨウイチが言う。「だいたい肉が入っているんだから、血液の重さなんて関係ないだろう。まったくロクさんはすぐに酔っ払うから始末が悪い」
「みなさん、この方は男性です」
「ほら見ろ、ヨウイチ。肉がなんだって?」
「もういいよ。ボクが悪かったから、早く食べよう。腹ペコなんだ」
胃の奥に不快感がこみ上げてきて、慌てて唾液を飲み込む。祝いの席で嘔吐など論外だ。これから彼らと永遠とも呼べる時間を共にすることになるかもしれないのだから、もう手遅れかもしれないが、僕はできる限り彼らから受け入れられる存在となりたいのである。
サユリが鍋の中身を順番に取り分けていき、ついに手元に器が回ってきた。
湯気は白いが、汁は赤黒く濁っている。
トマトジュースで煮込んだのかもしれない。
僕は箸で手頃な肉塊を掴むと、目を閉じて口に含んだ。
最初に錆臭い味が口全体に広がる。しかしそのまま歯を動かして咀嚼すると、最初の生臭さは何処へやら。重厚な肉の旨味が感じられるようになって、思わず感嘆の声が漏れた。やや筋肉質ではあるが、舌の上で転がすときめ細やかな繊維質を感じられて、歯切れも良い。飲み込んでから後を追うように汁をすする。出汁が口内に残された脂分と絶妙なハーモニーを奏でて、さらなる一口を誘惑した。
どんどん箸が進む。合わせて殺虫剤割りの血液をゴクゴクと飲んでいたら、あっという間に器もグラスも空になった。すかさずサユリがおかわりをよそってくれる。身体中が潤って、満たされていく。頭の芯がじんわりと熱を帯びて、わずかに平衡感覚を失った。
「よう、食いしん坊。しっかりしろよ」
肉を頬張りながらふらつく僕の上半身を、ロクロが支えてくれる。
「食欲があるのはいいことだ。なんだかずっと、元気がなかったからな。ようやく調子がでてきたのか? 俺にはよくわからないが、ロマンチックな恋をしていると、気苦労も多いのか」
「僕、あの子、諦めようと思うんです」
「シオンか。なんでまた?」
「だって、よく考えたら、僕の好きだったシオンはもう死んでいるわけじゃないですか」
ブッ、とロクロが吹き出した。生暖かい液体が顔にかかる。袖で拭うと真っ赤になった。脱色剤でも使わないといけないのかなあと、ぼやけた頭で考える。
「いや、悪い。あはは。だって、そりゃ、ぐふふ」
見ると、サユリも俯いて、必死に笑いを堪えている。まだ口に物を含んでいたようで、ふごふご、とおかしな音が漏れた。サユリは慌てて口元を押さえると、ティッシュを掴んで後ろを向いてしまう。僕は何か、そんな衝撃的な発言をしてしまったのだろうか。
「それは本心で言っているのか? お前のような奴が、粘着質で気持ちの悪いストーカー野郎が、諦めるだって? あはは。いや、お笑いぐさだ。お前は気づいていないのかな。会話の端々から、子供だってわかるくらい未練が駄々漏れているんだぜ」
失礼なことを言うものだ。僕はこれでも結構本気だというのに。
「じゃあ、彼女のどこが好きだったんだよ。今じゃない。生きている時だ。言ってみろよ」
ロクロは僕の背中を乱暴に叩く。
シオンの好きなところ。そんなこと言われるまでもない。どこが好きか? 全部だ。でも問題はそこじゃなくて、僕の好きだったシオンはすでに死んでしまっていると。それなのにこうして僕は化け物になりながらものうのうと幸せを感じていると。生前のシオンが見たら悲しむんじゃなかろうかと。そういうことを心配しているわけだ。まったくロクロは、何にも分かっていない。
笑われて少し頭にきたので、僕はそんなようなことをできるだけ感情を込めて言ったつもりだった。なにせ目眩が酷いので、うまく伝えられたのかはわからない。
「分かってないのはお前だ。じゃあなんでお前はこの場所にいるんだ? その言い分を聞く限り、お前は破滅を望んでいるんだろう。いいさ、ご主人様に跡形もなく消し飛ばしてもらったら。アカネという子だっけ? その子を庇って、お前は粉微塵になればいい。そうしたらこの宴は歓迎会じゃなくて、送別会になるわけだが」
アカネ。あの夜にバーボンからもらった猶予は一週間だった。一週間以内にアカネを殺さなければ、僕はバーボンに殺される。あれから二日がたったから、選択の期限は五日後だ。
「俺のときもそうだったよ。恋人を殺せと、ご主人様に言われたんだ。もちろん生きている恋人を、だぜ。ご主人様は最も大切な人を殺させることで、本当に自分に忠誠を誓っているのか、人間的な心を残していないのかを試しているんだな。しっかりと眷属としてご主人様に尽くすことができるのか……。ところで、俺はご主人様に対して何か奉仕できていたっけ? 食事もこうして提供されて、ただ、延々と同じ毎日を繰り返している。俺は日頃フリーのカメラマンをやっていて、確かにできたアルバムを見せるとご主人様は喜んでくれるのだが……。もっと他に何か、存在意義のようなものはなかったかな。うーん」
ロクロはそれからしばらくの間、うーん、うーん、と腕を組んで考え込んでいたのだが、突然電池が切れたように動かなくなった。ひたすらに空間のある一点を凝視している。
「……まるで、豚箱で飼育されているみたいだ」
ポツリとそう呟いて、それから青ざめた顔で黙り込んでしまった。
僕はようやくロクロの詰問から開放されたので周りを見た。ミチコとヨウイチは夫婦水入らずと言った感じで楽しそうに団欒している。サユリは鍋に残った細々とした肉を、汁とともに自分のお椀に流し込んでいた。その顔はこの場の誰よりも真っ赤だ。頰も耳も鼻も紅潮していて、まるで赤鬼のようである。
「サユリさんは、いつごろからここで暮らしているんですか?」
「えーっと、はい。私はご主人様の眷属第一号です。もちろん、国外での事情は知りませんが。なので最初からですね。ご主人様が日本に来られた頃からずっとです。ミチコさんとヨウイチさんもほとんど同じ頃なので、初期メンバーと言っていいです。それからロクさんは、一番の新入りです。新入りなのに、少々態度が大きいですが」
「では、ジュン君が生まれたのは? 会って話した感じだと、小学校の高学年くらいだと思っていたんですが。なんだかジュン君には不思議と惹かれるんです。だって、ミチコさんとヨウイチさんが眷属になってからできた子供だなんて。見た目を変えることで擬似的に成長させていると聞きました。そういえば、シオンはどうやらオリジナルの吸血鬼らしいのですが、シオンと僕の間にも子供は授かれるのかな。どうなんでしょうか。サユリさん何か知っていますか?」
言ってから、少々恥ずかしい願望を口に出してしまったことに気づく。ついさっきシオンを諦めようと話していたばかりなのに、こんなことを言ってしまって、どうしたものだろう。僕は思った以上に酔っているようだ。このまま喋り続けていたらもっと変なことを口走ってしまいそうなので、黙らなければならない。
だけど、吸血鬼と眷属の間に子供が授かれるかどうかには非常に興味があったので、サユリが答えてくれるのを期待する。バーボンは人間の母親と一緒になってシオンが生まれたと言っていたから、眷属と眷属、吸血鬼と人間の組み合わせは可能だということだ。では、眷属と吸血鬼は?
……ああ、そうか。
そこまで考えて、ようやく僕は自分の進むべき道を悟った。
そもそも死んだシオンだって最期まで僕の幸せを願ってくれたのだから、僕の方も幸せになる努力をしなければならない。そして僕が幸せになるためには、中身がすっかり別人になっているとはいえども、やはり吸血鬼と化したシオンの存在が必要不可欠なのである。生前と別人になっていたって、それは、仕方のないことじゃないか。
やはり、今のシオンと幸せにならなくてはならない。
納得のいく論理が組み上がったおかげか、ふっと心が軽くなった。気持ちが浮き足立って、今すぐ二階で寝ているシオンに会いたくなる。その宝石のような目を見て、その優しい声を聞いて、元気と温もりをもらいたい。
――二人で太陽の元に出て灰になるの。そうしたらずっと一緒にいられるから。
いつかの君の言葉が脳内にこだまする。
大丈夫。僕たちは永遠の存在になったのだから、願いは叶うのだ。灰にならずとも、これからは無限に続く時間を一緒に過ごすことができるのだから。
ニヤける口元を必死に正す。
ところで先ほどから、サユリは黙り込んだままだった。
「どうしたんですか?」
「いえ、すいません。ですが」サユリは首を傾げる。「ジュン君、誰でしょうか?」
そこで、サユリの背後に一升瓶が隠されていることに気づいた。しかしテーブルの上には別の空き瓶がある。きっと一人で隠れて飲んでいたのだろう。いくら飲んだくれているからといって、ジュンの存在ごと忘れてしまうなんてあんまりだと思う。けれど先に変なことを口走ってしまったのは僕なわけで、一概にサユリを責めることもできない。
天井を見上げて必死に思い出そうとしているサユリを置いて、僕はシオンの様子を確認するため席を立つことに決めた。
時計を見ると、すでに時刻は午前零時を回っている。気づかぬうちに随分と時間が経ってしまったものだ。このままでは終電を逃してしまうだろう。もちろんアカネは父親の死を認識できないくらいなのだから、僕が帰らなかったところで心配などするはずがないが。
シオンの部屋の前に立ち呼吸を整える。そして起こさないようにゆっくりと扉を開けた。
部屋の奥にはこの建物で唯一蔦の絡まっていない窓がある。そのカーテンが開いていて、木々の隙間からは少し欠けた月が覗いていた。
明るくもなく、かといって暗くもない月光が、ベッドで静かに寝息を立てているシオンを包み込み、その銀髪を微かに煌めかせている。
シオンは寝返りを打ってこちらに背を向けていた。改めて、その身に纏う壮麗なドレスの美しさに息を飲む。厚手の生地が幾重にも重ねられたそれは、サユリから借り受けたものなのだろう。黒を基調として、ところどころにメイド服を模した白いフリルが縫い付けられている。黒地と白地のコントラストは、まさに、今の君にぴったりだ。
僕はポケットの固い感触を確かめて、音を立てないようにそれを取り出した。血液の入ったアンプルと、プラスチック製の注射器だ。
シリンジには前回使った時に残留した血液が凝固してこびりついている。本来ならばこういうものは衛生面に気を使わなければならないのだけれど、サユリに相談すると、気にすることはないと笑われた。確かに、今更気にすることでもないのだろう。
アンプルの頭部を親指で折ってから、針を差し入れて血液を吸い上げる。
血液はすでに冷え切っていた。けれどこの液体が、シオンの原動力となっていく。文字通り血肉となってゆくのだ。それを僕が影で支えていると考えると、妙に感慨深かった。
「ん……」
露出したシオンのうなじ、その白い肌に針を刺すと、シオンがわずかに吐息を漏らした。そのまま血を流し込む。心なしか表情が和み、頰は赤らんでいるように感じられた。
「なに……してるの」
突然シオンの声がして、僕はほとんど飛び上がりそうになる。
幸い注射針を抜いたタイミングだったので、必死に証拠をポケットに押し込める。
さっ、と自分の顔から血の気が引いてゆくのがわかった。
「かゆい……」
シオンは気だるそうに、先ほどまで針が突き立っていた場所を引っ掻く。
「なんだか、人間の匂いがするわ」
「ああ、下でね。僕の歓迎会があって、いろいろ食べてきたんだ」
「悪趣味ね」
なんとかごまかせたようだが、でも、このままではどのみち嫌われてしまいそうである。
まずい。なんとかしなければ。
そこで僕は、ここに来る途中コンビニであるものを購入していたことを思い出した。
「これを君にあげるよ。僕からのプレゼントだ」
「これは?」
「キャンディーだよ。知っているだろう?」
可愛らしい花柄で包装されたレモン味のキャンディー。シオンはそれを興味深そうに見つめている。思いつきで買ってみたものだが、どうやらつかみは悪くなかったようだ。
「食べてもいい?」
「もちろん。そのために買ってきたんだ」
シオンはおそるおそる包装紙をめくると、中から金色に輝く球体を掴み上げて、それを月明かりに透かした。月の子供のように、キャンディーが光り輝く。
「きれい」
シオンはそうつぶやいたけれど、僕はそれよりもシオンの瞳の方が綺麗だと思った。
妖艶なサファイア。翡翠、オパール、エメラルド。
角度を変えるたびに次々と色合いを変えていく宝石群。
世の中の美しいもの全てが、その両の瞳に凝縮されているようだ。
極彩色の瞳は世界で君だけしか持っていないものだろう。バーボンの瞳を近くで見ても、ただ赤いだけだった。サユリやロクロたちの瞳は、人間のそれと変わらない。
君だけが、その素晴らしい瞳を持っている。存在を知れば、世界中の人々がその宝物を奪おうと躍起になるのではないかとさえ思えるほどの、絢爛な瞳。
そんなに美しいものを通してみる世界はどうだい? 輝いているだろうか。生前の君の瞳は光を拾わないガラクタだったけれど、人一倍の努力で懸命に生きていた。ある意味で、その時の努力がこういう形で報われたのだ。不幸ばかりの君の人生は、決して無駄ではなかった。これからは、あらゆる素晴らしいものを、両手いっぱいでは抱えきれないほどの幸福を、永遠にその身に刻み込んでゆけるのだ。
死んでいたって関係ない。君は、世界一の幸せ者になれるのだ。
キャンディーを口に頬張って幸せそうに微笑む彼女。次の瞬間、ごっ、という変な音を口から漏らして、ベッドの上に吐き出してしまう。唾液が絡まって口元から透明な糸を引いた。
「ごめん。キャンディーくらいなら平気だと思ったのに」
しかし、シオンは健気にも、それを掴み上げて再び自分の口へ戻してしまった。再び苦しそうに咳き込んで吐き出すが、また拾い上げて口に含む。それを何度も繰り返す。
「もうやめてくれ」
僕の懇願にもシオンは聞く耳を持たない。しまいには両手で口を塞いで強引にそれを飲み込んでしまう。そうして苦虫を噛み潰したような複雑な顔で笑った。
「……おいしかったわ」
「そんな顔で言われても説得力がない」
「うるさい。わたしは、食べたいものを、食べるの……」
そのままシオンは布団をかぶって丸くなってしまう。
呼びかけてみたのだけれど反応はない。
顔が見たくて会いにきたのに、それが叶わなくなった僕は手持ち無沙汰になる。
「ねえ」
布団の中からくぐもった声が響いた。
「なんだい?」
「あなた、人間と暮らしてるって、ほんとう?」
「今はアカネという子と一緒に暮らしている。でも僕はもうすぐここに引っ越すよ。そして君と一緒に暮らすんだ。それが僕の夢だから」
「それなら」シオンは布団から顔を出して僕を見る。「わたしも、つれてって。こんなところにいるのは嫌なの。わたしも、普通の人間と一緒に、暮らしたい」
体を起こしたシオンは僕の腕に縋りついてくる。余りの勢いに僕はたじろぐ。そんなに真剣な眼差しで見つめられてしまっては、なすすべがなかった。
「お願い。なんだか体の調子が良いの。あなたに迷惑はかけないから」
それは僕が君を裏切っているからだよ。
心の中で呟くが、声に出して言えるわけがない。
「わかったよ。わかった」僕は大仰に手のひらを見せて降参のポーズをとった。「でも迷惑をかけないだなんて、寂しいことは言わないでくれ。僕としては取り返しのつかないほどの迷惑をかけられた方がいい。君との関係性が強くなる感じがするからね」
「いいの? 本当に?」
「ああ、もちろん。そうと決まったら、すぐ出発しよう。乗ってくれ」
僕はしゃがみこんで手を後ろに伸ばし、背中にシオンを迎え入れる。
「ありがとう」
微かなシナモンの匂いが鼻をつく。それはかつてのシオンと同じ匂いだった。思い返すと胸の奥が締め上げられる感じがして目頭が熱くなるが、零さないように必死にこらえる。
「ないてるの?」
耳元で、シオンの愛らしい声が響く。それだけで底なしの活力が湧いてきた。背中に密着するシオンの息遣いが感じられて心踊る。
欲を言えばお姫様抱っこを試してみたかったのだが、さすがにそれは言い出せない。
「……あなた、変な顔ね。さっきは影になっていて、気づかなかったわ」
後ろから顔を覗き込みながら、シオンが言う。
「君だって、ここから出たいなら顔を変えなくちゃ。被害者の君も、顔写真はテレビや新聞に出回ってしまったからね。まったく、ひどいことをするものだと思うよ」
「わたし、なにかの被害者なの?」
「テレビを見ていないのか。君はね、僕が猟奇的に殺したことになっているんだ」
「あはは、ばかみたい」
シオンが朗らかに笑い、つられて僕も笑顔になった。
「確かに馬鹿みたいな話だ」
「さっきはアメ、ありがとう」
「あんなので良ければ、これから何度だって買ってあげるよ」
そうして僕たちは歩みを進める。
衝動的に行動を起こしてみたのは良いものの、脱出の算段などまったく立てていなかった。
一階の窓はすべて蔦で塞がれているので、必然的にロクロたちのいるコモンスペースを通り抜けるしかない。二階のシオンの部屋から飛び降りることも考えたが、いくら調子が良いといってもシオンはまだ自分の足で歩けないほど衰弱しているし、これ以上、身体に負担を掛けることはできるだけ避けたかった。
やはり愚直に正面突破を敢行する他ない。
息を殺して廊下を進む。
「いや、そうじゃない。君は何もわかっていない」
コモンスペースから、聞きなれない男の声がした。
慎重に様子を窺う。
「彼女のことが大切で仕方がない。そんなときに君は、他の何かを優先できるのか?」
眼鏡をかけた神経質そうな中年男性が、片手に携帯電話を携えて会話に熱中していた。
テーブルには散乱したグラスや食器が放置されたままだが、どういうわけかサユリやロクロたちの姿は見えない。皆、自分の部屋に戻ってしまったのだろうか?
「もっと登場人物になり切れよ、プロデューサー。あのセリフは魂の叫びだ。それをカットするだって?」
男は先ほどまで僕が座っていた場所で足を組んでいる。電話中にジェスチャーをする癖があるのか、右手は忙しなく動き続けていた。
このまま隠れてやり過ごすのも手だが、もたもたしていたら他の眷属たちと遭遇してしまうかもしれない。さり気なく会釈でもして通り抜けよう。シオンに小声でそう提案すると、コクリと頷くので、意を決してコモンスペースに歩み入った。
すかさず男がこちらを見る。
「やあ」マイクを手で押さえ、男は気さくに手を振る。「ちょっと待っていてくれ」
構わずそのまま立ち去ろうとしたのだが、不思議と両足に力が入らない。いったいどうしてしまったのか。石化でもしたように、足の関節がぴくりとも動かせないのである。
「君の言い分はこうだな」
男は電話をしながら向かいのソファーを指差した。そこに座れ。
すると、両足が自然とそちらへ向く。
そこで僕は理解した。男の正体はバーボン・ド・ブロイだ。
「マーケットへの流れやすさこそが、その作品の価値基準になる」
ソファーに向かう途中で段差のようなものにつまずく。
……こんなところに何かあったかな?
足元を確かめると、それはメイド服を着たサユリだった。
「ああ、そうだな? 君の言う通り」
テーブルを挟んだ反対側にうつ伏せのロクロ。ミチコとヨウイチは少し離れた場所で折り重なるように倒れている。
「だが俺が訴えたいのは、そんなものはクソ喰らえだということだ」
バーボン・ド・ブロイ。語り継がれる伝説上の人物。
そのモデルは実在した大量殺人鬼。
「伝えずにはいられない本物の感情を視聴者に届けるために、俺たちは映画を撮っている」
ある冬の日に、彼は農業地帯にあった小さな小学校へ侵入し、銃身が真っ赤に溶け落ちるまで、二本のマシンガンを十五分間に渡り撃ち放った。
「これが本物だと世界に突きつけるために、俺たちは生きている」
その後すぐに保安官に射殺されたが、その死体は蘇り、不死身の吸血鬼となった。
「賢明な判断を頼むよ。君は優秀だが」男はそこで乱暴に通話を切って、言う。「あまり私を怒らせないでくれ。殺してしまいそうになるから」
投げ捨てられた携帯電話が土鍋に当たって間抜けな音が鳴る。
それからバーボンはこちらを向き、思い出したかのように笑みを浮かべた。
「そう怯えないでくれ。ただ眠っているだけだよ」
言われてもう一度確認する。たしかにサユリたちに外傷はない。耳を澄ませると微かな吐息が漏れており、どうやら本当にただ眠り込んでいるだけのようである。
「ああ、そうそう。気まぐれにこんなものを撮ってみた」
バーボンは懐から取り出した紙切れをこちらへ投げつける。
それは写真だった。豚のように人肉鍋を頬張る僕の姿が写っている。
足元に舞い落ちたそれを慌てて踏みつける。背中のシオンが見てしまったのかはわからない。
「なかなか良く撮れているだろう? 写真のテクはね、ロクロから教わったんだよ。口は悪いが彼の撮る写真はどれも繊細だ。美しい精神性の現れなのだろうね」
屈み込み、足元に転がったロクロの頭を愛でるように撫でながらバーボンは言う。
「それで、私に用があるんだろう?」
「シオンをアカネに会わせてやりたいんです」
「約束は覚えているかい? 選択のタイムリミットはあと五日だ。わかっているのなら、私は止めはしないよ。シオンは君にずいぶんと心を許しているようだし、君に任せておけば安心だろう」
あまりにもすんなりと受け入れられてしまったので拍子抜けしてしまう。
「ただちゃんと、本人の口からも聞いておきたいな」
背中のシオンが抱きつく腕に力を込めた。僕は安心させるようにその腕を撫でる。
大丈夫、君の想いは伝わるさ。思い出はなくとも、親子なのだから。
「お父様」シオンは掠れた声を振り絞る。「私は外へ行きたいの」
「もちろん構わないさ。愛娘よ。人間の世界を学んでくるといい。だが、その顔はまずいな。自分で変えられるかな? やってごらん」
頷いたシオンは僕の背中から降りると、虚空を真剣に見つめ始める。
どうやら必死に顔を変えようとしているようだが、一向に変化が起きる気配はない。
「大丈夫、すぐにできるようになる。私の娘なのだから」
バーボンがシオンに近づき、肩に手を置く。
不意に、テーブルに放置された雑誌のインタビュー記事が目に入った。バーボン・ド・ブロイの伝説が世間的に受け入れられるきっかけをつくった名作映画の監督が写っている。
「ああ」
僕の視線に気づいたのか、バーボンはインタビュー記事を手に取ると、自分の顔と並べるように持ち上げて、唇に笑みを刻む。まさに、瓜二つだった。
「シオリ・ユメハラ。映画監督だ。名前は女みたいだが、見ての通りさ」
なるほど、壮大な自作自演だったわけだな。
「……できたわ」
シオンが気だるそうに呟くので振り返る。
死んだ妹の顔がそこにあった。
「今度の映画は良い出来になる予定だ。どうか、楽しみにしていてくれ」
そこで僕は頷く。はい、ご主人様。
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