3-1 死ねるぞ僕は

 嫌に甲高い音がずっと鳴っていることに気が付いて、霧散していた自分の意識が徐々に焦点を結び始める。


 目の前にはモノクロの情景が広がっていた。


 焼け焦げたタイヤの臭気、燃えるガソリンの陽炎、ひしゃげた鉄塊から滴る血の黒色と、吹き飛ばされたシオンのバッグ。底が破けて財布やポケットティッシュがコンクリートの上に散乱している。いくつかは原型も残さないほど砕け散っている。


 白いワタを首筋から曝け出しているクマのキーホルダーは、シオンのお気に入りだった。


 先ほどまで大切に扱われていた者たちが、無造作に地面に投げ捨てられている様は異様である。非日常的な世界の中で、僕のそばに唯一残されていたのは、左手の中に残る柔らかな温もりだけだった。目の見えない彼女のために、僕たちは手を繋いで歩いていた。ショッピングモールへ向かう途中だった。明日から雪が降り始めるというので、母さんに頼まれて、僕たちは食材の買い溜めをする予定だったのだ。


 本当は僕一人だけで来るつもりでいた。でも、引き閉じこもりがちのシオンが珍しくついてくるというので、二人で並んで大通りの歩道を歩いていた。


 世界は相変わらず色を失っていて、耳鳴りはちっとも止まないし、いつのまにか、冷たい雨が降っている。さっきまでは降っていなかった。……ああ、そうだ。出発前にシオンと確認した天気予報は晴れマークだったけれど、どうみても怪しげな雲がかかっていたから、折り畳み傘を持ってきていたんだっけ。それはシオンのバッグの中に入っている。もう、使い物にはならないだろうが。


 雨は益々勢いを増していく。


 この雨が、やがて雪に変わるのだ。辺りを一様に白く覆い隠してしまう美しい雪だ。春の桜も好きだけれど、冬の雪も好きだった。細やかな粒子があらゆる雑音を吸収して、シンと静まり返った街の中を、君と二人でどこまでも歩いていく。僕の夢の一つだ。君は笑うだろうから今まで口にしたことはなかったけれど。そういった日常の一コマこそが、後になって思い返してみれば掛け替えのない宝物となっていることに気がつく。人生とはそういうものだから。


 雨の冷たさは気にならない。ただ、左手の温もりが消えていくような気がして、それだけがとても怖かった。


 遠くでサイレンの音が鳴っている。


 目の前の鉄塊は、当事者でなければ、それが軽自動車であったなどとは夢にも思わないだろう。それくらい小さく圧縮されていた。似たものを小学生のときに見たことがある。あれはたしか、空き缶のリサイクル工場を特集したテレビ番組だ。大小様々な形の空き缶が圧縮されて一つの大きな立方体となる様は、なかなか爽快で、強く印象に残っている。


 目の前の軽自動車も綺麗にプレスされている。中身の入ったスクラップだ。隙間から絶え間なく血が滴っている。その勢いはとどまることを知らない。冷たい雨も鳴り止まない。シオンはどこかへ飛んで行った。


 突然肩を叩かれる。大丈夫ですか、と男性の声がした。


 大丈夫なわけがない。


 その手を振り払う。


 僕は跳ねられたシオンの様子を確認しようと、足を前に出そうとしてつんのめる。そもそも僕は立っていなかった。膝をついて、上半身だけを起こしていた。改めて立とうとするが、膝が笑ってしまって、うまく力が入らない。それでも無理やりにバランスを取ろうとして、右に左によろめく。


 無様なダンスを披露する僕に、じっとしていた方がいいですと、誰かが言った。巻き込まれた人間はあなただけですか。もうすぐ救急車が来ますから。


 愚かなことを言うものだと思った。誰も目撃者はいないのか。シオンが、僕の大切な家族が、車に轢かれて吹き飛ばされたのだ。あそこの、リサイクルショップとコインランドリーの間に茂る雑木林の中へ、吸い込まれるように消えていった。そう訴えかけたかったが、引きつった声が漏れるばかりで、一向に伝わらない。そばにいた男性も怪訝な表情を浮かべる。


 埒が明かないので、僕はそのまま雑木林の方へ向かうことにした。途中何度も人にぶつかって倒れそうになる。皆バカみたいに色とりどりの傘をさしている。


 野次馬がこんなにいるのなら、誰か一人くらい、シオンのことを見ていなかったのか。だいたい地面には明らかに女性のものの所持品が大量に散らばっているじゃないか。実に浅はかである。僕は頭にきてしまって、人混みを強引に押し払いながら歩みを進める。


 雑木林の入り口には折れた白状が突き刺さっていた。


 木々の中に歩み入ると、途端に耳鳴りが止んで、完全な静寂が僕を包み込む。

 ふと、視界の隅に白い物が映った気がした。慌ててそちらに向かう。地面の土が見えないほど下草が生い茂っていたので、すぐに場所がわからなくなった。


 がむしゃらに手を振り回す。


 明らかに異質な感触を見つけて、掴み上げる。シオンの身につけていたコートだった。白いコートだったが、半分より下が、血に塗れている。


 背筋が凍り、嫌な汗をかく。


 シオン、と呼びかける僕の声は、自分のものとは思えないほど情けなく震えていた。なんだかよく見えないと思ったら、目は涙で溢れている。雨で髪も服もぐしょぐしょに濡れている。


 急に自分がみすぼらしくなった。胸が張り裂けそうに痛む。この状況からどうやって抜け出せばいいのかわからない。とにかく無事なシオンの姿を確認して安心したかった。


 その時、何か温かいものが、僕の足首を掴んだ。慌てて下草をかき分ける。


 僕のすぐそばに、シオンが横たわっていた。目が開いている。白い息をわずかに吐いていて、まだ呼吸をしているようだ。腹から腸のようなものがはみ出していた。


「シオン、シオン」


 僕は何がなんだかわからないままに、その体を揺する。このままシオンが目を閉じたら、もう二度と目覚めない気がする。ここにいる僕を置いて、どこか遠くへ一人で行ってしまうような気がする。だから、ひたすらに体を揺する。そのせいで傷口から血が吹き出した。僕はどうすればいいのかわからなくなった。


「……ユウ……」

「なんだ、なんだよ」

「しあ……せ…………なって…………」


 幸せに、なってね。


 それっきり、シオンはピクリとも動かなくなった。光を拾わないガラクタの瞳から、命の光すら消えていた。僕を掴んでいた腕が力なく垂れる。雑木林の隙間から、冷たい雨が吹き荒ぶ。冷たい、冷たい雨だ。やがて雪に変わる冷たい雨。


 僕は叫ぶ。シオンのところまで届くように。旅ゆくシオンが、僕の存在を思い出して、この場所に戻ってきてくれるように。決して僕を置いていかないように。


 君がいないと僕は駄目になる。幸せになれといったって、君がいなければ幸せになどなれるはずがないじゃないか。君だってそれをよく知っているはずなのに、そんなことを言うなんてあまりにも無責任だ。言った本人はさぞいい気分なのだろうが、残された方の気持ちも考えてみてくれ。幸せになんてなれるわけない。僕は叫ぶ。がむしゃらに叫ぶ。


「あああああああああああああああああああああ」

「うわああ! え? え?」


 隣で跳ね起きたアカネが、慌てて部屋の電気をつけた。頭上には天井があり、僕は布団をはねのけて頭を抱えている。こぼれ落ちる涙が枕を濡らしている。


 疼く頭を強引に抑える。嫌な思いを押さえ込むように。もう二度と、この記憶が思い起こされることがないように。頭蓋骨が軋む音がする。悪いものは潰れてしまえばいいと思う。


「ちょっと、ユウキさん。やめてください」


 慌てた様子のアカネが駆け寄ってきて、僕の腕を剥がそうとする。


 やめてくれ、死にたいんだ。僕は死にたいんだ。


 狂ったように叫びながら、さらに強く締め上げる。何かが潰れた音を耳が内側から拾うが、構わなかった。卵を握りつぶすことなんて、今の僕には造作もないだろう。


 アカネは見たこともない必死の形相で僕に纏わりついてきた。この能天気な女が、こんな顔をするのかと少し驚く。だが、力比べで負けるわけがない。


 視界が歪み、辺り一面に血を撒き散らす。すでに右と左で視界の高さが合わない。左の鼻の穴が潰れ、右の鼻の穴は無様に広がっている。それでも抱え込む両腕に力を加え続ける。腕の筋肉が弾けて骨が見えていた。


 きっと、最後の瞬間には渾身の力が必要だ。空き缶のスクラップだ。頭蓋骨を細かく折りたたむイメージで行け。


 死ねる死ねる死ねるぞ僕は。今度こそ、跡形もなく。


「やめてください。やめてくださいよぅ」


 泣きながらも懸命に止めようとするアカネが邪魔で、体当たりして突き飛ばす。僕は頭を締め上げる。壁際に崩れ落ちるアカネの姿は、返り血を浴びて真っ赤だ。僕はスプリンクラーのように頭から血を撒き散らす。もうすぐだという感覚があった。


 もうすぐシオンの元へ行ける。僕のよく知っているシオンの元へだ。


 僕が、大好きだった女の子。あの冷たい雨の日に、僕を一人きりにして逝ってしまった。あれは事実だ。真実だ。いくら誤魔化そうと、覆らない世の理だ。僕の愛したシオンは失われてしまった。では、どうして僕はのうのうとこの世界に縋っているのだろう?


 紛い物の見せかけで、空いた穴が埋まるわけがないんだ。空いた穴を埋めるためには、穴ごとなかったことにしてしまう他ない。僕の人生を、なかったことにしてしまうしか、方法がないんだ。それ以外の方法なんて、そんな都合のいいものが、あるわけがないのに。まやかしで取り繕うのは、もううんざりだ。変わり果てたあのシオンは本物じゃない。死んだシオンはもうどこにもいない。それが向き合わなければならない現実だ。会いたいのに、苦しいのに、あの子がいない。どこにもいない……。


 全身の力が抜けてその場に崩れ落ちる。血が抜けすぎたのか、頭を潰すことに成功したのか、僕にはわからなかった。とにかく手足すらも動かせなくなったのだ。


 それから、どれくらいの時間が経ったのかはわからない。


 いつの間にか、頰に暖かな感触があった。


 目を開けると、アカネの顔が、すぐそばにある。


 親が泣きじゃくる我が子にそうするように、僕はアカネに抱擁されていた。


 逃れるのは簡単だった。だが、胸の内に感じるこの温もりを、不思議と手放すことができなかった。シオンと抱き合った時とは違う、確かな心臓の鼓動があったから……。


 僕とシオンが失ったもの。


 人間が生まれつき持ち、死ぬ時に手放すもの。


 「落ち着きましたか、バカ」


 アカネの声はまだ震えていたが、どうしてかとても頼もしく聞こえた。


「ごめん、わけがわからなくなったんだ」

「大丈夫ですよ。私もたまにありますよ。きっと、みんな、そんな時もあります」

「君を血だらけにしてしまった」

「本当にしょうがない人です。シャワーを浴びないといけませんね。部屋も、掃除しないと」

「僕がするよ」

「じゃあ私はシャワーを浴びてこようかな」

 そう言うが、しかしアカネは僕を胸に抱いたまま手放さない。

「ユウキさん」

「なんだい?」

「一緒に入りますか?」


 言ってから、アカネの顔は赤さをました気がした。気がしたというのは、だって、僕たちは二人とも血まみれで、顔色の変化なんてとてもわかる状態じゃなかったから。


「冗談だろう?」

「本気です。だって私、ユウキさんのことが好きなんです」


 僕は反応に困った。こんな状況で言うのもなんだけど、僕たちはまだ会って二日とたってないじゃないか。そう伝えても、アカネは好きという感情に時間は関係ないのだと胸を張る。そして僕の体をいっそう強く抱きしめた。


 僕も引き寄せられるように、その背中に手を伸ばす。


 こうして胸と胸を合わせていると、まるでそれは僕の鼓動のようだ。このまま二人で一つの心臓を持つ、何か別の生き物になってもいいとすら思う。だってそれは、きっと居心地がいいだろう。でも残念ながら、君にはまだ大切なことを伝えていないんだ。


「その気持ちに応えることはできないな」

「なんでですか?」


 泣き顔を隠そうともせずに、アカネは僕をじっと見る。


 僕は腕を振りほどき、意を決して立ち上がった。波打つ心臓の音が聞こえなくなり、再び体が静寂で満たされていく。ぼやけていた自分の意識が、その輪郭を取り戻す。


 深呼吸をしながら周囲を見回すと、畳の上に布団が二つ並べて敷かれている。たしかアカネの強引な提案で、僕たちは和室で一緒に寝ていたのだっけ。角にある仏壇の上には、アカネの両親の写真が仲良く並んでいる。父親の方はバーボンが置いていったものだ。死に際の、片腕を失って呆然としている男が写っている。


 頭に触れると、傷は嘘みたいに元通りに癒えていた。視界の高さも左右で均等だ。ただ、やけに喉が渇いている。血が欲しかった。今すぐ目の前で跪く女を襲いたいと思う。頭を吹き飛ばされたシオンが飢えているように、やはり大きな傷を回復するためには、それなりの代償が必要なのだろうか。


「私に何か足りないところがありますか? ユウキさんに好きになってもらうためなら、私、何でもしますよぅ」

「好きな子がいるんだ。もう死んでしまったけれど」


 そう言うと、大げさに声を上げて泣き始める。


 僕は随分と冷静さを取り戻し始めていたので、辺りを取り囲む鉄臭さと、絡みつくような血の感触に参っていた。最悪なことにここは畳の上だし、布団など、うまく処理しないと近隣住民から怪しまれて、大騒ぎになってしまうだろう。


「それでも、それでもぉ」


 考えなければならないことは多いし、喉が渇いて仕方がないのに、アカネはちっとも泣き止まない。好意を寄せてくれるのは嬉しくて、それを無下にするのも心が痛むが、そもそも好きだと言うのなら、その前に知っておくべきことがあるのだよね。僕は仏壇の上の父親の写真を指差しながら真実を告げる。


「君は悪魔に魂をいたずらされているんだよ」


 僕の言葉の意味が理解できないのか、アカネは啜り泣きながら小首を傾げる。その瞳は澄んでいて、純粋に言葉の意味を解釈しようとしているようだった。健気なものである。


「君の父親を殺したのは僕なんだ」


 よりにもよって、自分の父親を殺した犯人に好意をよせていたのだと知った時、目の前の善良な女は、いったい何を思うのだろう。アカネの反応に少しだけ興味があった。やはり僕のことを殺してやりたいと考えるのか、それとも逃げ出すか? いずれにせよ好意なんてすっかり消え去ってしまうのだけは確かだ。そうしたら、君はこれから自分の犯した過ちに傷つきながら生涯を過ごしていくことになるかもしれない。地獄のように、記憶の中枢に悪魔が潜み続けて、何かきっかけがあるたびに、その悪魔は表層に浮かび上がってきては君をひどく痛めつける。どんな聖人君主だってその痛みには耐えられない。おそらく君は壊れてしまうだろう。もちろんすべて、君の精神が健全だった場合の話であり、そんなことは起きないのだと、僕は知っているわけだけど。


「お父さんなら、隣の部屋で寝てますよ?」

「ほら、わからないだろ」

「ええ、なんですか。教えてくださいよぅ」

「だから、そういうところだよ」

言いながら、膝をついてこちらを見上げるアカネの手首を掴む。

「痛い、痛いです」


 そのまま壁に寄りかかり、アカネの背中をそっと抱き寄せた。


 初めてだから、うまくできるかはわからない。


 僕は頭の中でサユリが吸血している場面を思い浮かべる。餌にされていた男は結局、生きていたのだっけ? 人間は少しくらい血を失ったって死にはしないはずだが、もしもということもある。ここで殺してしまっては後味が悪い。こんなことになるなら、サユリに詳しく聞いておけばよかった。だが、もう手遅れである。


 抗いがたい強烈な衝動が僕を突き動かす。


「いや、やめて。やめてください」


 後ろから強く抱きつくと、アカネは怯えた様子でもがき始める。泣き叫んで掠れた声で、やめてください、離してくださいと、懸命に訴えかけてくる。


 僕は逃さないように腕にさらに力を込めた。すると諦めたのか抵抗しなくなり、再び子供のように声を荒げて泣き始める。


 まったくシオンのやつめ。人間の血を吸わないなどと、良く言えたものだ。僕にはとても真似できない。だって身体中が血を求めている。我慢など、できるわけがない。


 柔らかそうな首筋に歯を突き立てた。


 目のくらみそうな充実感。


 それから僕は乾きが癒えるまで、ひたすらにアカネの鮮血を貪った。頭の中がどんどん多幸感で満たされていく。めまいがするほどの快楽だ。このまま永遠に血を吸い続けることができたなら、どれほど素晴らしいだろうと思う。


 全身が潤ってゆく。人間がこんな幸せを与えてくれる存在だったなんて知らなかった。こんな素晴らしいものがあるのなら、もっと早く体験しておけばよかった。


 そんな至福の時は、しかし唐突に終わりを迎えた。体が血液を拒否し始めたのである。口内に残る液体がひどく異質なものに感じて吐き気がする。気色が悪い。嗚咽を必死に堪えるが、我慢できずに嘔吐した。赤黒い吐瀉物だ。その見た目の醜悪さに再び吐き気がこみ上げる。


 ……一体僕はいつからこんな頭のおかしな化け物になったんだっけ? いや、もう僕は人間ではないのだから、何も気にすることはないのかな……。


 だって心臓が動いていないんだ。心が傷つくわけがない。


 手を離すとアカネは畳の上に崩れ落ちた。その四肢は弛緩して伸びきっているが、吐息が聞こえてくるのでまだ生きているようだ。最悪の事態は免れたようで、ひとまず安心する。


 壁の時計を見ると午前四時を回っていた。食事の終わった僕は疲れ切っている。いくらか吐いてしまったが、欲求はある程度満たされたし、今すぐにでも丸くなって眠りたい。けれど布団は血だらけで、とても使えたものじゃなかった。部屋中に撒き散らされた血はすでに凝固しているように見える。こんな真夜中に、これを一体誰が片付けるというのだろう? もちろん僕しかいないわけだが、僕はそんなことしたくない。これ以上、少しだって動きたくはない。


「やあ、どうも」


 突如、男の低くしゃがれた声が室内に響く。すっかり聞き慣れてしまった声。


 バーボン・ド・ブロイ。


 わずかに開いた襖の隙間から、燃えるような瞳がこちらをじっと見つめていた。


 いつから見られていたのだろう? 全然気が付かなかった。


 バーボンはゆっくりと腕を上げて、パチンと指を鳴らす。


 操り人形が糸を引かれるように、倒れていたアカネがものすごい勢いで立ち上がった。不自然な体勢から強引に起き上がったせいで、手足の関節から血が噴き出す。心配になるが、当の本人は夢見心地といった感じで、蕩けた笑みを浮かべている。


「なかなか面白いことをしているじゃないか。私も混ぜてもらって良いかな? 仕事が長引いて、腹が減っていてね」


 襖を開けて、紳士服を着た初老の男が近づいてくる。その異様な存在感に気圧されて、言葉が詰まった。何を言っても、この男には見透かされてしまう気がする。


「困らせてしまったかな。ゆっくりで構わないから、君の言葉を聞かせてくれ」


 バーボンが右の手のひらをこちらへ見せて、円を描くような仕草をする。次の瞬間、胸につかえていたものが跡形もなく消失する感覚。心が軽くなり、自然と言葉が漏れた。


「やめてください。この子を、殺さないでください」


 僕の意志とは無関係に口が動く。不思議な感覚だった。


「ふむ。どうしてだい? 君だって彼女の血を吸っていたじゃないか。君は踏みとどまったようだが、一歩間違えば、殺すところだったんだよ。私にだけ我慢しろというのは、あまりにも虫が良すぎる話だと思うがね」

「それでも、やめてください」

「理由を聞いても良いかな?」

「…………わかりません」

「そうか、わからないか。まあ、構わないさ。怒ってはいないよ。なぜって、そこが君の一番のチャーミングポイントだからね。君の傲慢さを、私は買っているんだよ。その先に何が待っているのか、私はとても興味がある」


 バーボンは懐から何かを取り出して僕の胸に押し付ける。


 ひんやりとした感覚。


「私の正式な眷属として迎え入れるに当たって、君にテストを受けてもらう」


 眩いほどの金属光沢。ピカピカに磨き上げられたリボルバー式拳銃。


「なに、気張らなくてもいいさ。テスト内容はこうだ。これでアカネ君をブチ抜くか、君自身をブチ抜くか。それを選択するだけでいい。簡単だろう? 今、これには特別に銀の銃弾を装填してある。そして一度これで脳を破壊されれば、君はもうただの死体だ。文字通り、永遠の死を迎えられるというわけさ。君が終わりを望むなら、それは叶えられる」

「……シオンは、どうなるんですか?」

「ああ、そうだったな。あのまま食事を拒み続けていたら、そのうち動けなくなって、干からびてゆくだろう。そうしたら待っているのは永遠の地獄だ。なにせシオンは私と同じ純粋な吸血鬼だからね。眷属の君と違って、永遠の命を持っているんだよ。いくら飢えで手足が動かなくなろうと、餓死することはない。これがどういうことか、わかるかい? 抗い難い血の渇望に苛まれながら、体は少しも動かせず、それでいて明確な意識を保たなければならない。それは、まさに地獄と呼ぶのがふさわしい。くくく。いや、そんな顔をしないでくれ。脅して悪かった。君がどちらを選んでも、彼女はしっかりと私が保護するよ。娘だからね」


――お父様。


 確かシオンも、目の前の男のことをそう呼んでいたっけ。


「隠すつもりはなかった。ただ、伝えるタイミングがなくてね。いささか唐突な告白になってしまったが、許してほしい。ああ、母親は本物だよ。彼女にシオンを産ませてから、適当な父親を見繕って、ずっと観察していた。シオンはまるで本物の人間のようだっただろう? 私もそう感じていたので、正直失望していたんだ。でも、一度死んだことで純粋な吸血鬼になった。実に興味深い。今後の可能性がずいぶんと広がったよ。私の実験に、最後まで付き合ってくれた君には感謝の念が尽きない。だから、こうしてチャンスを与えているわけだ」


 シルクハットから溢れる銀髪は、シオンのそれとそっくりだ。


 なるほど本当に、親子なのだな。そして僕は、その事実を喜ぶべきなのだろう。だって、君はずっと吸血鬼に憧れていたから、これでようやく夢が叶ったというわけだ。


 シオンの偽物の父親。はっきりと覚えているのは、小さい頃、河原でバーベキューをしていたときに突然後ろからスプレーを吹きかけられたことくらいだ。僕が驚いて振り返ると、蚊が出るからと、防虫スプレーを片手にはにかんだ笑みを浮かべていた。子供心ながらにシャイな人だなと思ったものだ。本当に昔の記憶なのでそれくらいしか記憶はなくて、その顔の細部もはっきりとしない。その後すぐに通り魔に命を奪われて、次に会ったのは通夜だった。


「さあ、君の望む未来を、私に教えてくれ」


 シオンが無事に生きていけるなら、それをこの男が保証してくれるなら、僕の役目はもう終わったのかもしれない。これ以上何かしても、より悲惨な未来にしかならない気がするし、何よりもう、疲れてしまった。ここら辺で幕を閉じるのも、案外悪くない選択だろう。


 一息ついてから、自分のこめかみに銃を突きつける。


 ひんやりとした感触が心地よい。


 鉄がひんやりとしているのは、熱を伝えやすいからだと教えてくれたのは、無口で、少し怖いところもある僕の父さんだった。小学生くらいまではよく、本を読み聞かせてくれていたのを覚えている。おとぎ話やヒーロー物のような子供の喜ぶものではなくて、伝奇小説や、物理学の本などばかりだったけれど。将来役に立つからと、慣れない口ぶりで読み聞かせをしてくれた父さん。ほとんどの話は難しすぎてよくわからなかったけれど、いくつかの話はちゃんと覚えていて、今でもときおり思い出す。電気を通す物質は熱を伝えやすいのだ。金属は電気を通すから、熱をも素早く逃す。だから鉄はいつだってひんやりとしている。そのことを翌日、シオンに得意げに教えてやった時の、あの表情は傑作だった。知っているのも、それを大切に心の中にしまっているもの、この僕だけ。もうじきすべてが、消えて無くなる。


 引き金に掛けた指に力を加える。バーボンは静かにこちらを見ていた。じっと、僕の頭がはじけ飛ぶのを待っている。


 今の僕をみたらきっと、妹は怒りだすだろうな。母さんは悲しむだろう。だって腹を痛めて産んだ子供が、自らの意思で命を絶つなど、これ以上ないくらいの親不幸だ。でも、僕の方にも言い分くらいはある。だって僕はもうすでに死んでいるわけで、心臓も役割を終えている。今の僕は残り滓のようなものだ。既に終わっているんだよ。これは、中途半端だったものを、ちゃんと終わらせる作業なのだ。だから、許してほしいな。頼むから、笑って見送ってくれないかな。僕は地獄に行くからもうみんなと会えないよ。最期に浮かぶのがそんなに悲しい顔ばかりだなんてあんまりだ。


 とん、と肩に何かが触れた。ひどく暖かいもの。なんだろうと思い振り返る。


「やめてくださいよ」


 アカネが、僕に抱きついていた。後ろから、さっき僕がアカネにしたように。


「死んじゃ、だめですよ」


 あんなにひどいことをしたというのに、どうして僕なんかを庇うのだろう。君の幸福な家庭をめちゃくちゃにしたのは僕だ。そして、君がそれを認識できないことをいいことに、いまだに我が物顔で居座っている。僕にとって大切なのはシオンだけだから、君のことなんてどうでも良かったんだ。今だってどうでもいい。本当、ひどいやつなんだよ。


 言いながらアカネの表情を見た僕は驚く。なんと、先ほどまでと同じように、蕩けた笑みを浮かべていたのである。明らかに自我を取り戻してない。前を向く。バーボンがくつくつと笑いを噛み殺している。そうか、アカネはお前の操り人形だったな。


「人聞きの悪いことを言わないでくれよ。いや、私はなにもしてない。笑っているのは気にしないでくれ。そういう性分なんだ。こういう人間くさいドラマが楽しくて仕方ない。表情は間抜けだが、アカネ君は今、自らの意思で動いている。信じるかどうかは君に任せるが。いや、これは、傑作だ。まったく、最高だ。くくく」


 いったい何を信じればいいのかわからない。そもそも僕はちゃんと僕の意思で動けていたのだっけ? アカネがこんな有様なら、僕だって何かされているに決まっている。今、僕は本当に死にたいのか? バーボンが僕を殺したいだけなのか?


 仏壇の上で死にかけたアカネの父親がこちらを睨んでいた。いったいどこまでだ? 僕は銃口を飄々と佇む紳士服の男の心臓に向けて、叫ぶ。すべてお前が仕組んだ舞台なのか。


「いや、白状するとね。くくく。実はそうなんだ。シオンを孤児に仕立て上げたのも、車が君たちへ突っ込んだのも、シオンの頭を派手に吹き飛ばしたのも。何もかもが私の筋書きだ。でもね、私はただ種を蒔いているだけだ。抱腹絶倒の現実というドラマの、種を蒔いている。その結末を選ぶのは君たち自身だよ。私は、お膳立てをしているに過ぎない」


 そこで僕は引き金を引いた。カチン、と虚しい金属音が響く。弾が入っていなかった。


「くくくくくく」


 目の前のバーボンはいつのまにか若々しい姿に豹変している。髪も目も黒い。タキシードに黒い蝶ネクタイをつけていて、バレエを踊るようにクルクルと回る。足をピンと伸ばして頭上に掲げ、股関節はほとんど百八十度に開かれる。そのまま三回転して着地。丁寧なお辞儀をした後に、何やらタキシードの懐を弄る。出てきたのは大量の写真だった。


 黒いドレスを着たシオン。死んだアフロ。浴槽に片付けた妹の死体。母さんの笑顔。メイド服姿のサユリ。化粧をした愛らしいシオン。滑らかな銀髪。スミレの髪飾り。


 全部が全部、僕の記憶に焼き付けられていた情景だ。僕だけの思い出が、桜吹雪のように天井から降ってくる。どこからか、笑い声が漏れる。お前は人間写真機だと言っている。監督に最高の物語を提供するための。観客を、一人残らず笑い殺すための。


 顔に当たった一枚は、腹わたがはみ出たシオンの死体だった。


 幸せになってね。


 顎から上を失ったシオンが言う。


 いつのまにか、家族全員が僕を取り囲むように笑っている。甲高い声で、口を張り裂けそうなほど大きく開けて、悪魔のように笑っている。そこで気づいた。これは夢だ。バレエを踊る若々しいバーボンが言う。これは現実だ。僕は何を信じればいいのかわからない。夢なら早く覚めてくれ。そう唱えるが、笑い声はいつまでも鳴り止まない。

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