2-3 おかしな人
しばらくして落ち着いてから、僕はアフロのお墓を彫り始めた。素手だったのでどこまで深く掘れるかはわからなかったが、幸いなことに雪解け水でほぐれた土は柔らかく、肘まで入れられるくらいの穴はなんとか用意することができた。あまり浅すぎると野良犬に掘り起こされてしまうという話を聞いたことがある。死んでまで安らかに寝かせてもらえないなんてあまりにもアフロが哀れだ。だけど大丈夫。これだけ深く掘ればきっと、君はバクテリアに分解されて、この森の一部となれるだろう。僕にできるのはここまでだ。アフロ、短い間だったけれど、君のことは忘れない。本当は成長した君の姿が見たかった。だけど考えてみれば僕だって、いつまでもこんなゾンビのような状態でいられるとは限らないし、アフロの面倒を最後まで責任をもって見てやることができなかったかもしれない。であればここで、思い出も残さぬままに埋葬された方が、君にとっては幸せだったのだろう。僕には鳥である君の幸せを想像することしかできないけれど、せめて今は安らかに眠ってほしい。
溢れ出る涙を泥で塗れた手でぬぐいながら、アフロの体に必死に土をかける。墓石を用意してやりたかったが、手頃な石がなかった。その辺の石ころを墓石にするというのもかわいそうであるし、そもそもここは窓から見える位置なので、あまり目立つことはしたくない。だって、僕は見るたびにアフロを思い出し泣く自信がある。だから穴を掘ったことがわからないように平らに土を固めて、その跡を枝や葉っぱで覆い隠すことにした。
ようやくすべての作業が終わると、アフロの墓は、たった今掘った僕ですらどこにあるのかわからないほどになっている。これで本当にお別れである。
戻ろうと腰をあげると、下草の隙間に、硬い透明なプラスチック片を見つけた。ああ、これはあれだな。サユリがシオンの部屋にあると言っていた注射器の残骸だな。なるほどシオンは鳥の巣だけでなく、こんなものまで窓から捨てていたというわけか。きっとこれも君のためを思って用意されたものだろうに、善意がこうやって無残な形になっているのをみると、なんだか胸が締め付けられる思いである。
「ねえ、お兄ちゃん。何で泣いてるの?」
すっかり意気消沈した僕が肩を落として歩いていると、入り口のガラス扉の近くで小学校高学年くらいの男の子に話しかけられた。隣には化粧の濃いふくよかな女性が立っている。この場所にいるということは、バーボンの眷属なのは明らかだ。
「はじめまして。あなたが新しいお仲間さんですね。これ、落とされていきましたよ」
女性は僕が先ほど失くした靴を手にぶら下げていた。これを渡すために、僕がアフロの墓を掘っている間中待っていてくれていたのだろうか。
僕は感謝の言葉を述べてから、靴を履き直そうと腰をかがめる。水気を帯びた靴下に血がにじんでいたが、傷口はすでにふさがっているようだった。小枝で足を切ったような感覚があったのだが、おそらく眷属となったおかげで、回復力が高まっているのだろう。
「ねえ、なんで泣いてるの?」
少年が興味深そうに訊いてくる。
「愛するペットを失ったんだ」
「ペット、ですか。何を飼われていたんですか?」
女性が目を丸くしてこちらを見るので、僕はサユリに話したようにアフロのことを説明した。思い返していると再び涙が溢れたが、女性は「なら、まだ飼われてはいなかったわけですね」などと非情なことを言うものだから、僕は少し怒った口調で、
「これからシオンと二人で、一生懸命飼うつもりだったんです。幸せな家族は必ず動物を飼っているんですよ。わかりませんか?」
とまくし立てた。言ってから、思っていたよりきつい口調になってしまったことに気づいて焦る。まったく僕は、父さんや母さんや妹を失っても悲しくなんてなかったのに、たかが雛鳥一匹で、どうしてこんなに感情的になってしまっているのだろう? その理由が自分でもよくわからなかった。ひょっとすると、シオンと二人で築き上げようとしていた大切なものを、シオン自身に壊されたからかもしれない。正直なところ、僕はたぶん人間性を失っているから、アフロの死を純粋に悲しんでやれている自信はなかった。
「ボク、ペットってよくわかんないな」
「何かを飼ったことはないのかい?」
「いらないよ。動物なんて」
少年はつまらなそうに地面を蹴る動作をしながら言う。幸せな家族にペットがいるなどと言い切ってしまったから、傷つけてしまったかもしれない。動物嫌いな子供だって、世の中にはたくさんいるだろう。まったく僕はどうかしているみたいだ。
「あなたはこの子の母親ですか?」
「ええ、そうです。この子はジュン、私はミチコです」
「いつ頃からここに住まわれているんですか?」
「私と旦那、それにサユリさんは、ご主人様が日本で活動されるようになった時からこの場所に住んでおります。正確には記憶していないのですが、ざっと二十年ほど前でしょうか」
二十年、ずいぶんと長い時間である。サユリは僕と年齢が比較的近いと感じていたのだが、その実二十年も余分に生きていたわけか。すると、一つ興味の湧くことがある。
「ではジュン君は眷属になった後に生まれた子供ですか?」
「ええ、ジュンは十年ほど前に私が産みました」
肉体の変化がない眷属同士に子供が生まれるなど、にわかには信じ難い話である。
「人間のように成長するということですか?」
「いいえ。年に数回、ご主人様に肉体を成長させてもらっているんです。少なくとも高校生までは普通に経験させてあげたいですね」
そう言って、ミチコはジュンの頭を撫でた。ジュンは恥ずかしがってその手をのけるが、ミチコは両手を広げて逃げ道を塞ぐ。その様子が微笑ましくて、僕も母さんのことを思い出した。
ミチコは母さんよりもひと回りほど年を取って見えるが、やはり子供を抱く母親というものは偉大である。優しい目をしているし、周りの人の心まで解きほぐしてくれるような、魔法のような暖かさを持っていて、まるで幸せという概念を体現しているようだった。
眷属同士で子供が作れるのなら、僕もいつか、シオンと家庭が築けるかもしれない。今の弱り切ったシオンが母親になるところなど想像できないけれど、僕も精一杯支えるし、きっと幸せな家庭になるだろう。そうしてそこには大きな犬がいる。鳥も捨てがたかったけれど、やはり僕は大きな犬が飼いたかった。昔からの憧れだったから。
ジュンはこれから小学校の宿題を片付けなければならず、ミチコはその面倒をみるというので、僕はシオンの様子を見にいくために二人と別れた。
いつのまにか日は落ちきり、辺りは暗くなっていた。バーボンが戻ってくる前に、もう一度シオンの顔を見ようと階段へ向かう。
廊下の途中で、小洒落たネームプレートで『Sayuri』と書かれた部屋を見つけた。ネームプレートを囲うように白と黒の薔薇を模した飾りが取り付けられている。
僕はサユリに戻ってきた報告と、ペットショップの地図を書いてくれたお礼をしようとその扉をノックする。だが、反応はなかった。物音がしないし、不在か、寝ているのかもしれない。そのまま立ち去ろうとしたが、しかし扉の隙間から、何かいい匂いが漂ってくるのである。
食事の準備でもしているのだろうか? そう思って、何の気なしに扉に手をかける。
鍵はかかっていなかった。部屋の電気もついていない。隙間からもう一度、サユリさん、と声を掛けるが、やはり反応はなかった。
不在のようだし引き返そうと思ったが、僕の意思に反して、体はますます色濃くなった匂いに引き寄せられてゆく。足元に置かれたビニール袋を踏んづけてしまい、大きな音が出た。その音に反応するように、部屋の奥で何か黒い塊が動いた気がした。
サユリだろうか?
とにかく暗くてよく見えなかったので、僕は壁に手を当てて照明のスイッチを探す。充満する匂いのせいか、まるで熱に浮かされたように顔面が紅潮していくのを感じた。
スイッチらしきものを見つけ、押し込む。部屋全体が白いライトで照らされて、闇に潜んでいたものが暴きたてられた。
部屋の奥、カーテンの締め切られた窓際で、サユリと中年男性が抱き合うように壁に寄りかかっている。中年男性は恍惚とした顔で白目を向いており、サユリはその後ろに回り込んで男の首に歯を突き立てていた。先ほどのメイド服ではなく、黒いジャージ姿だ。周囲には青いビニールシートが敷かれていて、そこに黒々とした血溜まりができている。
サユリは、ぼんやりとしていて、僕に対して特に反応を示さなかった。男の方はそもそもまだ息があるのかすら怪しい。そして、男にどこか見覚えがあるとおもったら、この場所に僕を案内するときにバーボンが身にまとっていた、あのサラリーマン姿の中年男性である。
僕はなんだか見てはいけないものを見てしまった気がして、他人の恥部を覗き見てしまった気がして、ひどい罪悪感に駆られた。そのまま後ずさると、扉を静かに閉めて踵を返す。
まぶたの裏にはたった今見た男の恍惚とした表情が焼き付いている。バーボンは確かにあの男を食事用だといっていたし、僕もそれなりに覚悟はしていたのだけれど、いざその場面を目撃してしまうと正視に耐えない。なんというか、ひどく生々しかった。サユリからしてみればただ食事をしているだけ、ということなのだろうが、ずいぶんと醜悪な行為を目撃してしまった気分である。何よりも、僕がいい匂いと感じていたものの正体があの惨状だったとは。いくらなんでも突然すぎて、なかなかショックを受けてしまった。先ほどから体の震えが止まらない。
バン、と背後で扉が乱暴に開かれる音がして、僕は跳ね上がった。
逃げた僕を追いかけてきたのだろうか?
振り返ることはできなかった。秘密を知られたサユリが僕のことを殺しにくる。そんなイメージが頭にへばりついて離れない。
僕は一目散に廊下と階段を駆け走り、シオンの部屋に飛び込んだ。
「な、なによ」
シオンは変わらない様子でベッドの上に横になっていた。その姿を見ただけで、僕の緊張していた心は瞬く間に解きほぐされていく。君が、確かにそこにいてくれる。それだけでどれほど僕の心が落ち着くのか、今すぐ君に伝えてやりたいくらいだ。この宝物のような気持ちを共有したいのに、言葉でうまく言い表せないのがもどかしかった。
「ちょ、っと、やめて」
感極まった僕は、シオンの制止をものともせずに、両腕でその華奢な体に抱きついた。
暖かな温もりが全身を包み込む。もちろんお互い死んでいるわけだから、体温という意味での温もりはほとんどないのだけれど、あくまで精神的な話である。こうして胸と胸を密着させていると、シオンの止まってしまった心臓の鼓動すら感じられそうなほどなのだ。
僕の目からは自然と涙が溢れでてきて、シオンの黒いドレスをひたひたと濡らした。
震える腕に力を込めて、すっかりやせ細った体を強く抱く。
またこうしてスキンシップをとれるなんて嘘みたいだ。もうずっと叶わないと思っていたことが、奇跡みたいに叶ってしまった。胸のうちにあるこのあたたかな存在さえ感じられるのなら、僕はどこにだっていける。何にだってなれる。人間であることを捨てられる。心の底から無限大の勇気が湧いてきて、僕を奮い立たせてくれる。
……君は、どうなのだろうか? 記憶を失っていて、僕のことは覚えていないというけれど、これから僕と仲良くなって、こんな世界も捨てたものじゃないと、もしも思えるようになれたなら、人間であることを捨てて、僕と共に化け物として永遠に生き続けることを選択してくれるだろうか。
何と言っても、僕は君に好かれる自信があるんだ。だって、その皮膚や細胞は余さず生前のシオンのものなのだから、一度は僕のことを思っていてくれたはずのシオンの所有物なのであるから、今更僕と真っ赤な他人になどなれるはずがないのだよね。きっと刻み込まれた無意識下の思いで、君は僕のことをまた愛してくれるようになると思うのだ。
そうしたら二人で暖かい未来を掴み取ろう。僕も君も、もう年はとらないわけだが、前向きな考え方をすれば、お互い永遠の愛というものを体現できる存在になれたということだ。もちろん精神的な成長はするかもしれない。そうしたら、見た目は今の姿を保ったまま、中身はお爺さんお婆さんになる、なんていう未来になるかもしれないね。それはそれで面白いと思うのだが、やはりロマンチストな君としては、いつまでも瑞瑞しい関係のまま、ずっと初恋を体験しているような日々が永遠にくる、という方が良いだろう。大丈夫、きっとそうなるよ。夢は叶う。だって、健全な精神は健全な肉体に宿るというじゃないか。外見さえ若ければ、新鮮な気持ちで日々を楽しく送れるさ。ああ、本当に、僕は君とそういう関係になれる日が来ることを心待ちにしているのだから、はやく記憶を取り戻すか、僕に心開いて、人間であることを諦めて、健康に、幸せに、永遠に暮らしていこうじゃないか。
そこで僕は、先ほどまでわだかまっていた漠然とした恐怖感がすっかりと払拭されていることに気づいた。体も気持ちも羽のように軽くなっている。やはり僕はシオンがいればなんだって乗り越えられるのだ。その事実が嬉しくてたまらない。
「……震えは、おさまった、みたいね」
言いながら、シオンは顔を歪めた。見ると、美しい白い首筋に、青あざができていた。
ちょうど僕が抱きついていた位置である。それほどまでに強く抱きしめてしまっていただろうか。無我夢中だったから、配慮がたりなかった。まさか傷つけてしまうとは思わなかったのだ。ひどいことをしてしまった。僕は深々と頭を下げる。
「ごめんね、痛かっただろう?」
「そんなに、痛くないわ。感覚が、あまりないの」
感覚がない。それはシオンが完全に弱りきってしまっているからだろうか。相変わらず顔色は哀れなほど悪く、病に侵されているかのように辛い表情をしている。体は熱を失っているというのに、皮膚には汗が吹き出ていた。目の前で横たわる少女の姿は本当に頼りなげだ。体も腕も細々としていて、風に吹かれたら、跡形もなく失われてしまいそうなほどである。
「ふふ」
突然、シオンの笑い声が漏れた。
「喜んだり、泣いたり。なんだか、おかしな、人」
シオンは苦しそうな顔に精一杯の笑みを浮かべる。
「おかしな人とは失礼だな。僕は君が好きなんだ」
「ねえ、そこにある鳥かご、邪魔、なんだけど」
「ああ、その件だけどさ。君がアフロの巣を木から落としたのかい?」
「……わざとじゃないの」
「どういうこと?」
「わたしも、あなたがしたように、あの雛鳥に、触ってみたかったの……。届かなかったから、椅子を使って、窓から体を出したの。そうしたら、落ちそうになって、木にしがみついたら、あの巣が代わりに落ちてしまったの」
シオンは弱り切った息で途切れ途切れに僕に説明する。シオンの赤い瞳は綺麗に澄んでいて、とても嘘をついているとは思えなかった。
「なるほど、それは仕方がないな。君が落ちて怪我をしなくてなによりだったよ」
「ねえ、あの雛鳥は、死んだの?」
「ああ、死んだよ。今は土の中にいる」
「そう……」
そのままシオンは押し黙る。僕はその様子からシオンの感情を読み取ろうとしたが、太陽の沈んだ室内は薄暗く、何を考えているのかまではわからなかった。僕としては、アフロが死んで落ち込んでくれるような、心優しい感情がまだ残っていれば嬉しいのだけれど、別に悲しんでいなくたって構わない。シオンが僕への当てつけにアフロの巣を故意に叩き落としたわけではないことが確認できたので満足だった。
それにしても、僕がいない間に隠れてアフロに触ろうとするなど、可愛いところもあるものだ。きっと動物に触れ合う時の自分のデレデレとした間抜けな顔を見られたくなくて、僕がいなくなったタイミングを狙ったのだろうな。愛らしいものだ。結果、アフロは死んでしまったけれど、許すよ。鳥かごや飼育用具は無駄になってしまったけれど、シオンの新たな一面を垣間見るための費用だったと思えば、安いものである。
「あなたといると不思議だわ」
「どうして?」
「なんだか、気持ちが、おかしくなるの」
そう言ってシオンは痩せた両手で胸を抑える。その仕草で僕の心は踊り立った。やはりどんな状況であったって、シオンと僕は愛し合う運命にあるのである。
ああ。わかっていたさ。わかっていたとも。
「お取り込み中失礼いたします」
突然サユリの凜とした声が響く。先ほど見た通り黒いジャージ姿のままであるが、吸血していた時のぼんやりとした表情は見間違えだったのではないかと思うほど、気品のある澄み切った立ち姿だった。
「ご主人様から、今日はスタジオ泊まり込みになるので明日出直してほしいと、ご連絡がありました」
「ここに泊ってもいいですか?」
「それは許されておりません。ご主人様からの厳命です」
サユリは冷酷に言い放つ。まったく、情け容赦がない。有無を言わさぬ口調であったので、シオンと寝食をともにしたいという願望は、渋々諦めることにした。
まあ、これで根性の別れというわけでもないからな。僕たちはおそらく、ほとんど永遠の存在となったのだから。
「またくるよ、シオン」
「もう、こなくていいわ」
言って、シオンは気だるそうに寝返りを打つと、壁の方を向いて布団をかぶる。
「また、くるよ」
反応はなかったが、そんな姿も僕には愛おしく思えて、やはり、はやく以前のようなシオンとの生活を取り戻したいと強く願った。
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