2-2 ブラックシオン

 下り電車で三十分。駅のホームには錆びた看板が備え付けられていて、そこには汚らしいペンギンのマスコットキャラクターが、『新未来都市へようこそ』という吹き出しとともに描かれている。元は緑色のキャップをかぶったキャラクターだったのだろう。帽子の部分の大部分が風化により剥がされていて、無様な金属色を晒していた。かろうじてキャップの輪郭付近にのみ緑色の塗料が残留している。そのみすぼらしい姿は、新未来都市という言葉とのギャップと相まって、形容しがたい哀愁を漂わせていた。


 この駅の付近は、十年ほど前まで市による計画的な宅地開発が進められていたと聞いたことがある。だが予算の都合か途中で計画が頓挫し、広大な土地と、まばらな建築物のみが残されたのだ。密度の割にバスの本数が極端に少ないため、今では好き好んでこの場所に住む人は少ない。いくつかネット上で有名な廃墟のあるらしく、僕も以前から駅の名前だけは知っていた。だが実際に降りたのはこれが初めてである。


 僕の少し前を、中年サラリーマンの肉体を借りたバーボンがのっそりと歩いている。


 僕は壁に設置された落書きだらけの鏡から自分の顔を覗いた。


 醜い鼻に、歪んだ目。人目を欺くためにとバーボンの力で整形された顔は、本当に別人のようだった。全体的に厚ぼったく、これからシオンに会いにいくというのに、こんなんじゃ合わせる顔がない。バーボンは会う前に直してくれると言っていたが、もしもこのままシオンの元に登場したら彼女はいったいどういう反応を示すだろう? 顔が違っても、雰囲気などで僕を僕だと認識してくれるだろうか。そうであったらとてもうれしいが、だからと言って実際にそれを試す勇気はない。だって、もし彼女が気づいてくれなかったら、僕は心に深い傷を負ってしまうよ。それにせっかくまた会うことが叶うのだから、僕としても万全の態勢で挑みたい。アカネを見習ってかっこいいポースでも決めながら、感動的な再会といきたいところである。


 あの事件のあと、シオンは僕とは別の場所に匿われていた。なんでもその場所に自由に出入りするためには、バーボンの課す試験に合格することが必要で、それを満たしていないうちは、シオンと暮らすことは叶わないのだという。なぜシオンだけ特別扱いされているのか、詳細は知らぬが、それがバーボンの命令であった。その命令には、なぜだか不思議と逆らう気は起きなかった。逆らえないというのは、ひょっとすると僕が彼の血を与えられた眷属である事と関係しているのかもしれないが、個人的にはそれは面白くない。単に僕が疲れてしまったせいだと思いたいところだ。だって、このところ本当にいろいろなことが目まぐるしく起こった。ようやく収まるべきところに収まったような気がして、僕としても、少しは落ち着きを取り戻したいのである。


 シオンの無事は、バーボンが持ってきてくれた動画で確認済みである。その動画には、黒いドレスをきて、ベッドで横になっているシオンの姿があった。僕の目の前で無様に吹き飛ばされた頭部も綺麗に再生していて、シオンがもともと持っていた愛らしい整った目鼻立ち、美しく長い銀髪、燃えるような赤い目、紫色のスミレの髪飾りまで、すべてがあまりに元の通りの姿なので、それを見た僕は、動画越しなのにもかかわらず、その場で大粒の涙を流して泣いてしまったほどだ。こうしてシオンのことを思っているだけでも、自然と足取りが軽くなる。僕は彼女に早く会いたかった。


 駅から十分ほど歩いたところで、前で立ち止まったバーボンが、

「ここだ」

 と顎をしゃくる。そこは周囲を植物に囲まれた、古びた四角い建物で、大量のツタが窓のほとんどを覆い隠しており、壁のペンギがところどころ剥がれてまだら模様になっていた。お化け屋敷のようで、住人がいるとは俄かに信じがたい物件である。


 敷地内に所狭しと生えた雑草と樹木が、元の入り口すっかり分からなくしている。その複雑な入り組み方はまるで迷路のようで、初見では、敷地内に入ってから建物の入り口にたどり着くまでに迷子になってしまいそうなほどだ。バーボンはその植物たちを右へ左へとかわしながら、ひょいひょいと進んでいく。僕も慌てて後に続くが、木々の中に入った途端、太陽光がほとんど遮られて、驚くほど辺りが暗々とした。おまけに雪解け水で地面の土はひどくぬかるんでいる。何度も足を取られそうになりながら、必死に背中を追った。


 しばらくしてようやく、入り口と思われるガラス張りの両開き戸の前に到着する。その横には比較的新しい木製の看板が立てかけられていて、乱雑に文字が彫り込まれていた。


『互助会マグメル』


 そのあからさまに怪しい名前に顔を歪めていると、突然背後から、

「やあ、今度の住人は、ずいぶんとブサイクなやつだな」

と、声をかけられた。


 振り返ると、ちょうど入り口から出てきたらしい男が、顎に手を当て、値踏みするようにこちらを見ている。青い襟付きシャツに身を包んでおり、髪は丁寧にワックスで撫で付けられている。風貌だけ見るならば、礼儀の正しそうな好青年である。


「君が噂の新入りかい。悪いが俺は今、急いでいてね。戻ったら自己紹介させてくれ」


 男は右手には重そうな黒い鞄を持っていて、首には大きなカメラをぶら下げている。


「やあ、ロクロ。仕事かい?」

「そうです、ご主人様。今日は担当している小学校の運動会がありましてね。本当は日曜日に開催されるはずだったんですが、雪で延期になっていたんですよ。今日は平日で親御さん方は来づらいと思いますから、代わりに俺が思い出になるような最高の写真を、子供達にたくさん届けてやる予定です。年度終わりに卒業アルバムができたら、ご主人様にも見せてあげますよ。この前の校外学習のときも、なかなか自信のあるヤツがたくさん撮れたんで、きっと今度の作品は、俺の今までの中で一番の最高傑作になると思うんです」

「ああ、楽しみにしているよ。頑張るといい」

「ではこれで」


 ロクロと呼ばれた男は、そのまま植物の海の中へ消えていった。


「伝え忘れていた」


 言いながら、バーボンは僕の額に手を伸ばす。


「ここでは君とシオン以外に、五人の私の眷属が生活をしている」


 触れられた部位が、瞬く間に熱を帯び始める。視界の下隅で強烈な違和感を放っていた僕の醜い鼻が、どんどんと萎んでいく。肉が踊り、すべてが元の位置に戻っていく感覚がある。


「ここは日本における私の拠点なのだ」


 バーボンはすっかり元通りになった僕の顔面を確かめるように撫でると、満足げに頷き、すぐに建物の中へと入ってしまった。置いて行かれないように、急いでその後に続く。


 ひらけた入り口付近はコモンスペースになっているようで、幾何学的な形の椅子やテーブルが並べられていた。壁際にはスチール製のマガジンラックが設置されており、陳列された新聞や雑誌は種類ごとに丁寧に整頓されていて、まるでどこかの図書館のようだった。


「シオンはいったいどこにいるんですか?」

「まあそう慌てないでくれよ。会わせてやるとも。ただね、私も忙しいんだ。こう見えて私の本職は映画監督なのだ。今日はスタジオで作業をする予定がある。君をここに案内していたらこんな時間だ。もう向かわなくてはならない」

「ご主人様、おかえりなさいませ」


 バーボンの声を聞きつけたのか、コモンスペースの奥に続く廊下から、メイド服姿の女性が現れた。白いカチューシャに黒いリボン、細い右手にはハタキを持っている。


「サユリ、今日も精が出るね」

「そちらが新しく入居される予定の方ですね。ご主人様から話は伺っております。私がシオン様のもとまでお連れしましょう」

「そういうわけだから、君はサユリに案内してもらって彼女に会いたまえ。感動の再会とはいかないだろうがね。それと、彼女にあったらこれを注射してやってくれ」


 バーボンは懐を弄って、小さなガラス瓶のようなものを取り出す。


 それは、中に鮮やかな赤い液体の入ったアンプルだった。


「彼女、ちっとも食事を摂らないんだ」


 バーボンと別れ、サユリと呼ばれたメイドに先導されながら、廊下を奥まで進む。ちょうど角のところが二階へと繋がる階段になっていた。窓にはツタが絡みつき、その隙間から僅かばかりの日光が差し込んでいる。それだけだと薄暗くなってしまうからなのだろう。昼間だというのに、天井の白い蛍光灯が煌々と照っていた。その人工的な光が、リノリウムの床にサユリの影をくっきりと作っている。


 吸血鬼には影がないと物の本で読んだことがあるが、バーボンが平気で日差しの中を歩けるように、吸血鬼に影がないというのもまた、ここでは無意味な知識だったようだ。


 それにしても、吸血鬼とはいったいどういった存在なのか? バーボンは僕を眷属にするために、たしか自分の血を与えたと言っていたが、血を与えられて眷属になった僕は今のところ、人間を襲いたいは思わない。変わったところといえば、心臓が止まっているのにこうして動き続けていられていることくらいだ。


「どうされました?」


 サユリに心配そうに言われて、いつのまにか自分が足を止めていたことに気づいた。何かについて考え込むと、自分の世界にすっかり入り込んでしまうのが僕の欠点だと、よく母さんに注意されたものである。癖というのは死んでも治らないらしい。


「すいません。聞きたいことが」

「どうぞ何なりと。私に答えられる範囲であればなんでも答えるようにと、ご主人様からも仰せつかっておりますので」

「眷属というのはなんですか?」

「はい。ご主人様の血を分け与えられた存在です。純粋な吸血鬼であるご主人様ほどではありませんが、傷はすぐに回復し、歳もとりません」

「ではシオンが食事を摂らないと言っていましたが、やっぱり眷属の食事というのは、その、人間の血なんでしょうか?」


 言ってから、ひょっとしてデリカシーのない質問をしてしまったかと後悔する。まだ吸血鬼やその眷属が持つ世界観というものがよくわかっていなかった。目の前のメイドが、人間の血を吸わなければ生きていけない自分という存在にひどく傷ついている、繊細な心の持ち主だという可能性もある。


 心配する僕に、しかしサユリは突然笑い出す。


「ああ、いえ、本当にすいません。あなたがあまりにも深刻そうな顔をしていたもので」

「そんな顔をしていましたか?」

「ええ、まるでこの世の終わりでも見ているようでした」


 サユリはひとしきり笑った後、目じりに溜まった涙をぬぐい、何度か深く深呼吸をする。


「本当に失礼いたしました。あなたは本当に、シオン様を大切にされているのですね。それで、眷属の食事というあなたの質問に率直にお答えするならば、たしかに我々も人間の血を取らねばなりません。ですがその頻度はかなり低いです。先ほども申し上げた通り、眷属は吸血鬼性が薄められているので、その分食事も少なくて済むのです。ご主人様のように特異な能力を使うこともできませんから、どちらかといえば眷属は、吸血鬼というよりは動く死体、ゾンビであるといったほうが良いかもしれませんね。少々安直な例えではありますが、お分かりいただけるでしょうか?」


 なるほど、ゾンビか。


 こうして動けているくせに鼓動は止まっているのだから、確かにゾンビという方がしっくりくる。


 だが、シオンと僕が仲良くゾンビ。なんというか、吸血鬼と比べて、いささか泥臭い。今にも腐臭が漂ってきそうな、生に醜く執着して朽ちていくような、そんな救いのない映像ばかりが目に浮かぶ。シオンとは日光に当たって二人で灰になろうなどと約束していたが、どうやら日光への耐性もあるようだし、あれは最初から叶わぬ夢だったようだ。まったく、どうして僕たちの行く末というのはこうも、ロマンチックさに欠けるのだろうか。


「血を摂らないとどうなるんですか?」


 素朴な疑問を口にすると、短く切りそろえられた前髪から、まるで人間のような栗色の瞳がこちらを見た。


「眷属である私たちは吸血鬼の不死性も薄められていますので、飢えや渇きによって再び死ぬことは十分に有り得ます。あなたも気をつけてくださいね」

「それは大変ですね」

「はい。ここの住人はご主人様から食材を配給されますので、それを定期的に摂取します。先ほどあなたが受け取られたアンプルは、食事を拒むシオン様に配慮してご主人様が特別に用意されたものですね。中にはやはり、人間の血液が入っております。新鮮さのあるうちに、はやめに打つのがいいでしょう。注射器はシオン様の部屋にあります。ちなみに、眷属が直接人間を襲うことは厳禁です。人心を操れない我々の身では、騒ぎを起こすとご主人様の手を煩わせてしまいますからね。食材である人間を警戒させないように、我々はこうしてひっそりと社会に溶け込んで生活しているわけです。私たちの目的は、ただ眷属としてあり続けることです。それはご主人様が私たちに与えてくださった唯一の命令でもあります」


 それからサユリは少し戸惑うように、僕の顔色を覗き見た。


「なんですか?」

「ご主人様から、シオン様のことについて何も伺っておりませんか?」

「食事を摂らないんですよね」

「それだけですか?」

「それだけです。他にあるなら言ってください」

「はい。まず、シオン様は特別で、ご主人様の眷属ではないのです」

「どういうことですか?」

「これは私の口から伝えていいことなのか、判断いたしかねますので、ご主人様がお戻りになられたらにしましょう。何よりもう一つ、大切なことをお伝えしなければなりません」


 嫌な予感がする。その言葉の先を聞いてはいけない気がした。


「シオン様は、生前の記憶を有しておられません」


 はっ、と口から空気が漏れた。頭の中を不意打ちで殴り飛ばされたような衝撃がある。確かに一度は記憶を失っていたけど、せっかく元に戻ったと思ったのに。あの可憐な声で、再び僕の名前を呼んでくれると思ったのに……。


「なるほど、それは斬新ですね」


 僕は気持ちを落ち着けるために天井を見上げた。


 ……よく考えてみれば、たいしたことではないのかもしれない。少し突然のことだったから、こうして動揺しているだけで、もしもバーボンが前もって教えてくれていたならば、僕はちっとも気にしなかっただろう。


 だって、無様に死んだと思っていたシオンが無事だったのだから、後のことはほんのささいな問題だ。僕のことを覚えていようと覚えていなかろうと、僕がシオンの幸せを願うのは当然のことなのであるし、別に、見返りを求めているわけではない。彼女が僕のことを忘れていようと関係のないことだ。


 とにかく不意のことだったので、少しだけ動揺してしまった。本当に、ほんの少しだけ動揺してしまったが、早く気持ちを落ち着けて、新鮮な気分でシオンにあってやろう。きっと記憶を失って不安がっているはずなのだから、この僕が慰めてやらないとダメだ。くそ、バーボンめ、前もって教えてくれていれば、気の利いた言葉のひとつやふたつ、考えておいたのに。こんな付け焼き刃で考える慰めの言葉がどれほどシオンの心に届くだろう? 本当にシオンの不安をすべて払拭してやることができるだろうか? だが、やるしかないのだ。不安はあるが、それ以上大きな不安を、今のシオンはひとりぼっちで抱えているはずなのだから。


「ここがシオン様のお部屋です。私は用事がありますので、これで失礼します。ごゆっくりなさってください」


 サユリは礼儀正しく頭を下げてから元来た廊下を引き返していく。残された僕はひとつ大きな深呼吸をしてから、思い切ってその扉を開いた。


 途端、やわらかい光が僕を包み込む。


 正面のカーテンが開いていた。この建物は、すべての窓が植物で覆われているとばかり思っていたのだが、この部屋だけは窓の外から溢れんばかりの陽光が差し込んでいるようだ。敷地内に生えた樹木に遮られて風景は見通せないが、隙間から青々とした空が覗いている。


 そのまま部屋の中をぐるりと見回す。閑散とした室内の中央に簡素な木製のテーブルと椅子。そして窓とは反対、廊下側の壁に備え付けられたパイプベッドの上に、よく見知った姿があった。


 美しく長い銀色の髪に、宝石を埋め込んだように鮮やかな赤眼と、透き通る青白い肌。この季節にしては少し薄手の豪奢な黒いドレスに身を包みながら、シオンはベッドの上に力なく横たわっていた。差し込む日差しを吸収した銀髪が淡い光を放っており、黒いドレスとのコントラスに目を奪われる。僕はそのあまりの美しさに唾を飲み込んだ。


 頭には、いつか僕がプレゼントしたスミレの髪飾りが、少しズレた位置に乱暴に取り付けられている。その鮮やかな紫色は、やはり、君の銀髪によく似合う。


「どうかな、調子は」


 そのままベッドの脇に近づいて、シオンの顔を覗き込む。


 額に汗が滲んでいて、顔色はひどく悪かった。


「あなたは、なに」


 気だるそうで、ひどく苦しそうな、押し殺すような声。


 ゆっくりと視線が交わる。


 盲目だったはずのシオンが、確かに僕のことを見ていた。


 ベッドのすぐ横に椅子を引いて腰掛ける。すると、僕の体が太陽光を遮り、シオンに暗い影を落とした。枯れ枝のように痩せたその手を握る。温もりはなかったが、その確かな存在感に僕はひどく安堵した。シオンは確かにここに存在している。存在してくれている。僕のことは忘れているかもしれない。でも、関係なかった。


 強引に肩を抱き寄せる。


「なに、するの……」


 シオンは不機嫌そうな声をあげてこちらを睨み、振り払うような動作をする。しかしその動作は驚くほど緩慢だ。僕は逃さないように両手でしっかりと握り込む。


 いくら抵抗されようと、離す気はなかった。なけなしの抵抗が数回あったあと、シオンは諦めたようにため息をつき、元の位置へと腕を戻して天井を見つめた。木々の葉ずれの音だけが室内を取り巻く。


 僕は満たされた気持ちの中で、先ほどサユリから言われた言葉を反芻していた。


――シオン様は特別で、ご主人様の眷属ではないのです。


 眷属ではないという。なら例えば、オリジナルの吸血鬼だということだろうか。まさか。シオンは人間だ。僕はずっとシオンと一緒に生きてきたから知っているし、言い切ることができる。それにシオンの両親とは僕も小さい頃から交流があった。小さい頃の記憶なのでそこまではっきりしたものではないけれど、二人は確かに人間だったということは間違いない。では、死んだことで吸血鬼化したのか。思えば不死身の吸血鬼バーボン・ド・ブロイの伝説も、撃ち殺された死体が起き上がるところから始まる。だが、そんなふざけたことが、よりにもよってシオンの身に起きただなんて信じたくない。そもそも吸血鬼なんていう馬鹿げた存在が、バーボンの他にいるとも思えない。


「……ねえ、いつまで、そうしているつもりなの」


 気がつくと、シオンが再びこちらを向いていた。


 その顔色は先ほどよりも悪くなっている。


「僕は君に会いに来たんだ」


 どうしてシオンが衰弱しているのか、理由は明白だった。シオンは食事を摂らないから。栄養がなければ回復出来ないのは、どんな存在であれ同じはずだ。まして、頭を吹き飛ばされるほどの重症を負ったあとでは尚更である。


 僕はポケットを弄り、ひんやりとした血液アンプルの感触を確かめる。


 サユリの言っていた注射器が置かれていないかと辺りを見回すが、木製のテーブルの上には花瓶が一つ置かれているだけだった。ベッドとテーブル以外の家具は、そもそもこの部屋にはない。


「ねえ、注射器なんてどこかにあったりするかな」


 何気なくそう問いかけてみる。すると、突然シオンがものすごい形相で僕を睨みつけた。歯茎をむき出しにし、目尻を鬼のように釣り上げる。せっかくの美しい顔が台無しになっており、なんというか、非常に残念である。ひどくやせ細った体躯のせいでちっとも迫力はなかったが、その真剣さだけは僕にも伝わってきた。


「あなたも、ひどいことを、しにきたのね」

「ひどいこととは心外だ」

「あなたも、お父様の奴隷なのね」


 お父様、という単語にひっかかる。


 いったいどういうことかと尋ねたかったが、シオンはまた僕の腕を振り払おうと必死に身をよじる。その姿があまりにも健気なので、僕の方もなんだか悪いことをしている気分になって、少し名残惜しくはあったが、その手を離すことにした。


 シオンは自由になった両手を胸に当てながら、声を荒げる。


「わたしは人間よ! 普通の、人間なの! 血なんか、必要ないわ。わたしには、血なんて必要ない。そんなものがなくたって、生きていけるの」


 それは、生前あんなに吸血鬼に憧れていたシオンの言葉だとは到底思えなかった。


「でも、見るからに弱り切っているじゃないか」

「いいわ、それでも。血なんて吸うくらいなら、死んでやるわ、死んでやるの……」


 激昂し疲れ果てたシオンは、赤い瞳に涙を浮かべて、死んでやる死んでやると、呪いのように繰り返す。目の前でそんな絶望的なことばかり言われてしまうと、僕の方も、シオン復活万歳と、素直に喜ぶ気にもなれない。そもそも君はもう死んでいるんだから、いくら死んでやると喚いたって、それはもう叶っているじゃないか。愚かなことを言うものだ。


 僕は本当に、君の頭が吹き飛ばされた時には、この世の終わりを見た気分だったのだから、少しくらい感動の再会をさせてくれたっていいと思うのだが。嘘でもいいから僕のことを知っている風な演技をして、涙ながらに抱き合うくらいのことはしてくれてもいいと思うのだが。記憶を失ったシオンはすっかり別の人格になってしまったようだ。その身を包む漆黒のドレスと相まって、なんとかいうか、生前のシオンがホワイトシオンであったなら、今のシオンはまるで、ブラックシオン。夢も希望もなく、回復に必要な血の摂取さえも拒んで、ただ呪詛の言葉を吐きながら、自身の破滅を望み続ける哀れな存在へと成り果ててしまった。


 そんなに人間であることが重要か? 僕にはちっとも理解できない。僕は鼓動が止まっていたって気にならない。むしろ人間性を捨てられたことできっと、家族を失った苦しみだとか、人を殺してしまった罪悪感だとか、そういった本当の人間でいるために必要な気持ちがきれいさっぱりなくなって、かえって清々しい気分だ。そして、あの事件は世間的には僕が猟奇的に起こしたことになっていて、僕もそれで構わないのだけれど、本当は影の実行犯である君自身の方がすでにそういった人間性とは無縁になっているはずなんだよね。それを今更、人間であることにこだわって、いったいどうしようというのだろう。そんなことをしたって死んだ人間は生き返らないのだし、罪も消えない。ただ辛いだけだ。


 ここは吸血鬼の楽園なのだから、誰も君を責めないよ。君は長く苦しい人生の果てにようやく安寧の地を手に入れたのだ。きっとここには君と同じような境遇の人もいるだろう。なのに、君のそのつまらぬ意地が、せっかくの機会を台無しにしている。些細なこだわりで自分の幸福を犠牲にするなんてことは愚かだ。


 僕はそう伝えてやりたかったが、どう表現したって目の前の少女を傷つけてしまうような気がして、結局何も言い出せなかった。


 シオンはそれきりすっかり口をきいてくれなくなったので、僕は仕方なく窓のそばに椅子を置いて、じっと壁の染みを見つめていた。部屋の外に出て、他の眷属に話しかけられるのも億劫だったし、肝心のバーボンも当分戻ってこないだろう。それにせっかく奇跡的にシオンと再会できたのだから、僕のことを少しも覚えてはいなくとも、やはり同じ空間で同じ空気を吸っていたかった。


 突然、トントンと窓を叩く音がして驚く。立ち上がって窓を開けると、窓枠で翼を休めていたらしい鳥が飛び立った。これだけたくさんの木や植物が生えていれば、鳥にとってもさぞ過ごしやすいだろう。きっと、地元の鳥類の間ではオアシス的な扱いを受けているに違いない。


 そのまま窓を閉めようとする。その時、窓から手が届きそうなほど近くに、枝や葉っぱで丸く固められた鳥の巣が作られていることに気づいた。覗き込むと、中から小さな雛鳥が一羽だけ、こちらをつぶらな瞳で見つめている。全身が灰色の産毛に覆われていて、逆立った頭の毛がアフロのようになっていた。先ほど飛び立っていったのが親鳥だろうか? 雛鳥というのは複数で巣の中にたむろしているイメージがある。だが、身を乗り出してよく確認しても、やはり巣の中にはその雛鳥一匹だけだった。


「アフロ」


 僕は声に出してその孤児に呼びかける。すると、チュン、と一言鳴き、まるで自身の声に驚いたかのように首を傾げた。


「バカみたい」


 背後でシオンのかすれた声がした。僕は振り返らずに、


「この巣はずっとここにあるの?」


 と、はやる胸のうちを抑えながら問う。


「鳴き声がうるさいから、昨日わたしが追い払ったの」


 アフロはつぶらな瞳で僕を見ている。僕は吸い寄せられるように両腕を伸ばした。


「落ちるわよ」


 シオンの少しだけ慌てた声がする。だが、僕は手を伸ばし続けた。ギリギリのところで巣までは届かなかったが、それまでじっとこちらを見ていたアフロが突然ジャンプをして、僕が手のひらで作ったお皿のなかに腰を落ち着けた。


「汚いわ。早く外へ捨ててきて」

「ねえ、この子をこの部屋で飼ってみないか?」

「冗談でしょ」

「君が追い払ったから、親鳥がこの子を置いていってしまったのかもしれない。鳥は我が子を選別することがあるって、テレビで見たことがあるんだ。それに、他の雛鳥もまったく見当たらない。うるさかったっていうけど、昨日はたくさんいたのかい?」

「……知らないわ」


 シオンはそれっきり、壁の方を向いて布団をかぶり黙ってしまった。どうやらこれ以上会話をする気はないらしい。残念ながら同意は得られなかったが、僕はさっそくアフロを飼育するための道具を調達することにした。アフロを巣に戻してから、部屋を出てコモンスペースで掃除をしていたサユリに断りを入れる。


 サユリは鳥を飼うというと少し驚いた顔をしたが、最寄りのペットショップのまでの地図を書いてくれて、さらには変装のためのマスクとサングラスまでも貸し与えてくれた。


 迷路のような植物群を抜けて建物を出てから、まだ雪の残る道を地図の通りに歩き始める。この辺はかつて新未来都市になる予定の場所だっただけあって、大きなホテルや博物館、公園などが点在していたのだが、平日のせいか、人通りはまばらである。道に沿うように設置された噴水はすべて水が抜かれていて、雑草が好き放題に生えていた。


 三十分ほど歩いてようやく到着した目的地は、いかにも老舗といった感じの、古びたペットショップだった。


 中に入った途端、強烈な獣臭さに顔をしかめる。狭い檻に閉じ込められた犬や鳥の鳴き声が幾重にも重なり合い、まさに阿鼻叫喚、この世の地獄のようであった。奥の方で作業をしていた若い店員に事情を説明すると、必要なものを見繕ってくれると言う。その店員は、今は寒いですからとヒーターを勧めてきたり、この温度計は湿度も計ることができるんですよと、機能の割には値段の張る製品を勧めてきたりした。僕は鳥を飼うのは初めてだったし、とにかく万全の体制を整えたかったので、その全てに頷いていたら、最終的にカゴは商品で山盛りになってしまった。にこやかな笑みを浮かべる店員が、これはサービスですと、ペットショップのロゴが入った不織布の手提げ袋をくれたので、それらに買った小物を全て詰めこんで、新品の鳥かごが入ったダンボールを小脇に抱え、店を出た。


 帰り道では、アフロのことを思うと気持ちが高ぶった。浮き足立つ足を抑え、ダンボールを落とさないように慎重に歩みを進める。シオンの許可はとっていなかったが、とにかく僕はアフロを飼育したかった。本当は小さい頃は、大きな犬を飼うのが夢で、中学校に入ったら飼ってもいいと父さんに言われていた。でもそのあとで母さんが犬アレルギーだったことが発覚したのだ。母さんは気にせず飼っていいといってくれたが、僕は子供心ながらにその申し出を受け入れることができなくて、結局諦めることにした。だから、動物を飼うのは本当に初めてで、ワクワクが止まらない。実際に飼い始めたらきっと、シオンも気まぐれで世話を手伝ってくれるようになるだろう。そうして世話をしているうちに、やがては僕よりもシオンの方がアフロを溺愛しはじめるに違いない。だって、生前のシオンは動物が大好きな女の子だった。それはもう、子犬の轢屍体を拾ってきて大泣きするほどである。


 ようやくシオンの元へ到着した頃には、すでに日が沈み始めていた。


 シオンは壁の方を向いて動かない。寝ているようだったので、起こさないように慎重に荷物を降ろし、窓を開ける。そこで、僕の顔は青ざめた。


 アフロがどこにもいないのである。ひょっとしたら親鳥が迎えに来たのかもしれないと思いたかったが、そもそも巣自体がどこにも存在しなかった。


 アフロ、と呼びかけた声は、ただ虚しく木々の中に消えていく。


「シオン、アフロがどこにいったのか知らないか?」


 頼みの綱のシオンは、しかし少しも反応してくれない。


 灰色の逆立った産毛、愛らしい寸胴。アフロの姿が脳内に浮かぶ。僕は居ても立ってもいられなくなって、アフロ、アフロと呼びながら周囲を見回し続ける。すると、ちょうど窓の真下、下草に覆われた地面に、何やら茶色い塊が落ちているのを見つけた。よく目をこらすと、それは鳥の巣のようだった。


 僕は慌てて部屋を飛び出し、階段を転がるように駆け下りる。入り口付近で、見知らぬ子供と母親が何やら仲睦まじくしていたが、僕はそんなことよりもアフロの方が大切だったので、声をかけられたのも無視して外へ飛び出した。


 建物の壁に手を這わせ、何度もぬかるむ土に足を取られながら、急いでアフロの元へ向かう。足に鋭い痛みを感じて、靴をどこかに落としたことに気づいたが、どうでもよかった。アフロが、あの愛らしい寸胴をした灰色の雛鳥が、ひょっとしたら巣の転落によって死にかけているかもしれないと思えば、足の痛みなど些細なことだった。


 ようやく頭上にシオンの部屋の窓らしきものが見える場所にたどり着き、大小様々な下草に覆われた地面を見渡す。窓から見えた角度を考えながら探していると、ちょうど予想通りの場所に、ひっくり返った鳥の巣が落ちているのを見つけた。


 呼吸を落ち着かせながら、慎重にその塊を持ち上げる。枝と葉で出来た巣は想像以上に軽かった。そして中には案の定、アフロがいた。背筋が凍る。


 その小さな体を両手で包み込む。先ほどまで感じていたあの温もりは消え失せていて、それは、ただの冷たい布切れのようだった。


 生命とは不思議なものである。目の前の小さなモノが、あの、ぴょんと元気よく僕の手の中に飛び乗ってきたアフロと同じだとは到底思えなかった。


 いったいどうしてこんなことになってしまったのだろうか。もちろん何らかの原因で巣が落下し、頭でも打って死んだのだろうが、どうして巣が突然落ちたりしたのかわからない。まさか、シオンが落としたのか? アフロを飼うといって嫌がっていたのを思い出す。今日は風もそんなに強くないのだし、シオンがやった以外にこうなってしまった原因が思いつかない。


 シオンめ。君は、自分は人間だなどと言っておきながら、この哀れな生命のことは何も思わないのか。それはいささか自己中心的にすぎる。やはり生前のあの動物好きだったシオンのことを思えば、認めたくはなかったが、もう昔の君は失われてしまったのだろうと考える他ない。交通事故で死んだあの日に、僕の知っているシオンはこの世界から完全に消え失せてしまったのだ。


 生前の彼女はこんなむごいことをする子ではなかった。どんな動物にも植物にも人間にも、分け隔てなく愛情を注ぐような女の子だった。


 まったくひどい。ああ、アフロ。アフロ。


 アフロの愛らしい寸胴を思い出しながら、僕はさめざめと泣く。

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