1-2 秘密

一眠りしてから瞼を開くと、いつも通りの天井がそこにある。


 朦朧とした頭でテレビをつけると、ちょうど朝の天気予報をやっていた。今年の初雪はまだ続き、都心にほど近いこの地でも十センチ程度の積雪となるそうだ。どれどれ本当かなと、遮光カーテンをめくって外をちらりと見ると、もう大分雪が降り積もっていた。空からは眩い光の粒が絶え間なく降り注ぎ、一面の雪景色にさらなる追い討ちをかけようとしている。


 カーテンを閉めて固まった背筋を伸ばす。暖房をつけていない室内はシンと冷え切っていて、吐く息は白い。僕は真冬の寒気というものが好きだった。なんというか空気が透き通っている感じがするし、ひんやりとした感触が外気と肌をくっきりと区別してくれて、自分の存在の輪郭がより一層明確になる感じがするからだ。


 横を見やると、相変わらず化粧台の前で、シオンは微動だにせず座り込んでいる。


 少しも首を動かさないのに、その眼光だけがものすごい目つきでこちらを睨んでいるというのが少々不気味ではあるが、宝石みたいに燃える君の瞳は、生前の君は持っていなかったものなのだし、もし吸血鬼のような存在になったことでその機能を取り戻すことができたというのなら、何もかもが悪いことばかりというわけでもないのだろう。


 シオンに近づき、じっくりとその顔を眺める。ギリギリまで近づくと、光の加減かどうか知らないが、彼女の瞳に埋め込まれたルビーの輝きが妖艶なサファイアになった。うお、とその輝きに気圧されて思わず声が漏れる。想定外の美しさに、心臓がドクリと高鳴る。恐る恐る角度を変えると、翡翠、オパール、エメラルド。色とりどりの宝石群が重なりあい、極彩色の瞳ができあがる。後ずさり距離をとると、再び燃えたぎるようなルビーの瞳だ。


 僕は吸血鬼のとっておきの秘密を知ってしまった気がして嬉しくなる。こんなに綺麗なものを持っているのなら、死んでしまうのも悪くない。こんなに綺麗なものを持っているなら、バーボン・ド・ブロイの話のように、いっそ君自身も流ちょうに言葉を話せる状態で、生前の記憶を残したまま蘇ってくれれば良かったのに。そうして君にこう語ってやりたい。その瞳は君が生まれながら背負ってきた呪いに、神様が与えてくれた祝福なのだよ。ついに君は報われる日がきたのだ。それを活かさずに屍と化すのはもったいない。そんなに美しいものを通して見渡す景色はきっと、他のどんなものより崇高で、掛け値ないほど素晴らしいものに決まっているのだから。


 僕はそこで感極まって、うらやましいなぁ、と虚空に呟いてみる。だが急にバカバカしくなって口を閉じた。


 やはりどう考えてみても、ここにいる君はもう、ただの死体なのだった。心臓は止まっているし、肌は氷のように冷たい。なぜゾンビのように未だに動き続けているのか知らないが、早く然るべきことが起こり、収まりのいい場所に収まって、ゆくゆくは一緒の墓穴に入って共に穏やかに朽ちていきたいものだ。それだけがきっと、僕たちを待ち受ける過酷な現実の中で、唯一の幸福な道筋だろう。


 もちろん欲を言えば、その前に一瞬でもいいから、元の君の人格を取り戻す奇跡のような出来事が起こってほしいけれど。だって、せっかくの奇跡だ。変わり果ててしまった性格や振る舞いはともかく、その骨や皮膚や筋肉などの構成要素は間違いなく君のものなのであるし、君自身に罪はないと分かってはいれども、これはなかなか残酷なことで、身も蓋もない言い方をすれば、元の君に文句の一つでも言ってやらなければ気が収まらないのである。


 なあ、聞いてくれ。僕は、剣と魔法の世界に転生して、君に蘇生魔法でもかけてやりたい気分だよ。覚えているかな? 子供の頃、目の見えない君とどうやって遊ぶか色々と考えていた。二人でいろんな遊びを試したけれど、その中にファンタジーもののテレビゲームがあっただろう。僕が周りの状況を声で伝えて、コントローラは君が握っていた。キャラクター作成画面で、僕は耳長エルフのヒーラー職が良かったのだけど、君はバカみたいに大きな両手剣を振り回すむさ苦しい狼男のアタッカー職を選んでしまったものだから驚いたな。そして、あまりに君が敵陣に突っ込んで容赦なく敵を叩き切っていくので、僕は一瞬、君は本当は目が見えているんじゃないかと本気で疑ってしまったんだよ。今思えば、あれはなかなか上手くいった遊びだったね。


 覚えているかい? 死んでも記憶はあるのかな。それとも生前の記憶はすべて失われていて、その君そっくりの頭の中にはおがくずでも詰まっているのだろうか。君は生まれつきの盲だというのに、点字だけでなく普通の文章を書くこともできていた。まるで見えているように障害物の前で立ち止まる歩行スキルも見事だった。そういった人一倍の努力で勝ち得たものでさえ、非情なことに、すべてゼロになってしまったのかな。何も残ってはいないのかな。


 どうなんだい、と問いかけてみたところで、通じているのか通じていないのか、シオンはなんの反応も示さずに、ただ腰が抜けそうなほど恐ろしい目つきをこちらへ投げかけてくるばかりだ。


 僕はため息をついて、もう一度シオンの整った目鼻立ちを見つめる。


 ……本当に、君は吸血鬼になり果ててしまったのか。


 見たところ事故の傷は残っていない。何度もシオンの本で読んだ、吸血鬼の回復能力だろうか。では肝心の吸血行為の方はどうだ? 僕はちっとも君に血を吸われていないが、妹のすっかり干からびた死体には首筋に噛まれた痕があったから、それで満足したのかな。父さんと母さんの死体には噛まれた後がなかったからついでに殺したのかもしれない。いずれにせよ、今の君は妹一人分の血で満腹になってしまったから、そうして動かないでじっとしている、というのが妥当なところだろうか。


 それともひょっとして、これは愛のパワーというやつではなかろうか? 生前、君は僕のことが好きで、僕も君のことが好きだったから、何か超常的な意志の伝達というようなことが起きて、つまり愛のパワーで、君は吸血鬼と化して自我を失っても僕のことを決して襲わない。


 そうであったらどれほど素晴らしいだろう。死してなお存続する愛があるのだということを、身を以て証明してしまうとは。これに関しては間違いなく僕らの右に出るものはいない。いわば愛の先駆者、世の人々から、愛の玄人と呼ばれてしまうぞ。君が好きだったバーボン伝説のように、今度は奇跡的な愛の物語として、後世まで語り継がれてしまうぞ。みなさん、見習ってください。これが本当の愛なのです。あなたたちのは偽物です。アーメン。


 想像しながら一人でニヤニヤしていると、それは唐突に起きた。シオンが立ち上がり、ふらふらとこちらへ向かってくるのである。愛を信じる身の僕としては、キスのひとつやふたつでもされるのかと思いたがったが、その眼光はまさに獲物に狙いを定める野生動物そのものであり、彼女的な純真無垢さといったものが微塵も感じられない。どう考えても、こちらへ襲いかかってこようとしているのは明白だった。


 ひっ、と間抜けな声が漏れる。必死に逃れようとするが、手遅れである。壁に背中が当たり後頭部をしたたかに打つ。部屋の出口はちょうどシオンを挟んだ反対側で、距離的にとても逃げ切れるとは思えない。


 シオンの口がだらしなく開き、唾液が垂れた。


 キラリと光る牙が露わになってゾッとする。


 幸いなことに動作は緩慢でキレがない。だから、最後の悪あがきをしようとその幽霊のように突き出された両手首を掴む、が、まるで座標が空中に固定されているみたいにぴくりとも動かせなかった。


 壁に押し込まれた僕は崩れ落ち、それに合わせてシオンも屈み込む。


 これが本来の君の力か。死んでいるから、脳のリミッターが外れているのだろうね、なんて語りかけてみるが、意味はない。その鋭い牙は、等速度的に首筋へと近づいてくる。


 もはや距離が近すぎて満足に力を入れることもできなくなったので、僕は観念して迫り来るその時を待ち受けることに決めた。足の隙間に彼女を迎え入れる。目を閉じて深呼吸をし、乱れた心を落ち着ける。


 このまま殺されてしまえば、君はいずれ外の世界に出て、無差別に人を襲い、大衆の面前に晒されることになるだろう。でもだからといって、今の僕にはどうすることもできない。


 なあシオン、僕はもう本当に、疲れてしまった。こうして君に延々と語りかけ続けるのもそろそろ嫌になってきた頃なんだ。


 端正な愛らしい顔が近づき、冷たい牙と吐息が首筋に触れる。


 君に殺されるのなら、少なくとも君のような馬鹿げた死に方なんかよりは、幾分ロマンチックではあるし満足だよ。君はかわいそうなやつで、君の生涯に救いと呼べるようなものがほとんどなかったというのだけが心残りだ。せめて死んでも一緒にいようと、共に墓に埋葬されることを望んだが、きっと、もうそれすらも叶わない。だって、君はこれから他人に危害を加え始めるから、世界中の人から憎まれて、蔑まれて、埋葬なんてされずに、きっと吸血鬼らしく心臓に杭でも打たれて燃やされるのだろうね。哀れだな。


 だらしない口元。鋭い牙。


 極彩色の瞳。眩い銀髪。


 かわいそうなシオン。お別れだ。


 観念してその時を待つ。だが、数秒待ってみても、想像していた痛みは一向に訪れない。


 そういえば交通事故などでは、大怪我をしてもしばらく痛みを感じないということを、どこかのテレビ番組で見た記憶があるし、ひょっとすると、あまりの激痛に、僕の脳がバカになっているのかしらん。だとしたら、首を噛み切られるという、苦悶の末に死ぬような悲惨な末路ではなく、痛みなく、安らかに、平穏無事な気持ちで逝けるのだろうか。誰だって歳をとれば、病気や事故などではなく、眠っている間にぽっくりと逝くような、気づかぬ間に息を引き取るような、そういう穏やかな最後を望むものだし、すぐ近く、目と鼻の先に最愛の彼女がいる状況で、温い人肌はなくとも彼女らしい奥ゆかしい面影を残した優しい息遣いを聴きながら、静かに痛みなく逝けるというのなら、それはずいぶんと恵まれた最期に違いない。


 思い切って目を開く。


 僕の服は血みどろだった。床から壁にかけて血飛沫が見える。左手には、ちょうどいい位置に転がっていたので回収した、銀のネックレスが絡められていて、握りしめた拳に強く食い込んで、サイレンみたいに鋭い痛みを発している。シオンは壁際の本棚を派手にひっくり返して、本の海に溺れながら、悲痛なうめき声を漏らしている。


 一つだけ確かに言えることがある。


 それは、僕は悪くないということだ。決して悪くないということ。


 僕は銀のネックレスを絡めた拳でジャブを繰り出しながら慎重にシオンに近づいていく。


 さあ、立ち上がれ、シオン。僕が君をちゃんと殺してやるから。すぐに楽にしてやるから。そうして一度スッキリしよう。僕たちの関係をリセットしよう。何もかもをやり直して、今度こそ一緒の幸せを掴み取ろう。お互いに、綺麗さっぱりやり直すためには、まずは全部を壊さなきゃ。何一つ残らないように、こっぱみじんに打ち砕かなきゃ。


 僕の手にした最強の兵器は、シオンの髪の色とお揃いの銀のネックレス。


 どんな物語でも、銀は吸血鬼の弱点だと相場が決まっている。


 この兵器を誕生日プレゼントとして提案したのは優しかった母さんだ。嬉々としてはしゃぎながら店先で実際に選んだのは妹だ。母さんと妹が買い出しに行っている間、父さんは誕生会のために部屋の飾り付けを黙々と作っていた。ハサミで几帳面に折り紙を切り取る父さんの背中を今でも覚えている。僕もいつか、ああいう大人になれたらと、あの時は心の底から願ったものだが、猛烈な左フックをシオンの脇腹に炸裂させんとするこの状況は、まったくそれとは程遠くて、本当に、笑えてしまう。


 フック、ストレート、ボディーブロー。脳裏に浮かんだ勝利の方程式。すわ、タコ殴りにしてくれるぞと、力強く右足を踏み込んだところで、散乱した本の山からひょっこりとシオンが顔を出し、無垢な表情でこちらに首をかしげた。


「ユウキ?」


 その凛々しい声、しっかりと輪郭を保ったその声を覚えている。もう二度と聞けないんじゃないかと思っていた。暖かくて、柔らかくて、優しさに満ちた声だ。少し聞いただけで、複雑にほつれた心を優しく解きほぐしてくれる。何もかもが大丈夫なのだと安心させてくれる。そんな声。


 でも、振り上げた拳はそう簡単には止められなくて。


 優しく結ばれたその小ぶりの唇を、僕は力一杯殴り飛ばした。

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