1-1 交通事故

 窓の外にはうっすらと雪が降り積もっている。


 暖房の効いた多目的ルームにはたくさんの長机とパイプ椅子が並べられていて、きっとスタッフは数百人規模まで対応できるように用意したのだろうけど、実際に埋まっているのはその一割ほどで、そのほとんどがすでに定年を迎えていそうな老人たちばかりだ。


 正面の大きなスクリーンの前では胸元に立派な星型のバッチをつけた警察官が、顔に脂汗をにじませながら、抑揚のない調子で原稿を読み上げていた。


「ですから、どうか地域住民の皆様方にも、防犯の意識を活性化させていただきたい。防犯において大切な日々の行動とは? これが今日皆さんに持って帰っていただきたいものです。これからいくつかの事例を紹介した後、地域として取り組めること、それからご自宅で各自が対策できることについて……」


 男はそれからしばらく話し続けた後、一息ついて懐からハンカチを取り出した。神経質に脂汗を拭き取りながら、透明なペットボトルに入れられた水をゴクゴクと飲む。それがあまりにも美味しそうだったのと、エアコンの熱風に耐えきれずに、僕は室外へ出た。


 休日の昼下がり、市役所内は閑散としている。受付の奥では職員がそれぞれのデスクに弁当を広げ、黙々と食事を取っていた。今日ここへ来た目的は市が主催する防犯講演会へ参加するためだった。けれどあまり有益な話は聞けそうもなく、僕はシオンを一人きりで家に置いてきてしまったことを後悔した。


「講演会へご参加の方ですか?」


 自動販売機で水を購入していると、併設されたベンチに座っていた年配の警察官に声をかけられてギョッとする。細身な上に頰は痩せこけているがその眼光は鋭く、あまり僕のイメージする警察官という印象ではない。なんというか、スーツを着ていればどこぞの敏腕ビジネスマンと言われても信じてしまいそうな出で立ちである。


「……はい、そうです」

「お若いのに熱心ですね」

「チラシに全年齢対象と書いてありましたので」

「それは、そうなんですがね」


 どうぞ、というように男がベンチのスペースを空ける。どうやら話がしたいらしい。第一印象とは異なり、男の仕草からはどこか人懐っこい雰囲気が感じられた。無下に断るのも気が引けて、仕方なくベンチの隅の方へと腰を下ろす。


 年季の入った警察服にはタバコの臭いが染み付いていて思わず顔をしかめそうになったが、男は気にとめる様子もなく何かを熱心に語っている。一方の僕はなんだかやけに意識が朦朧としていて、肝心の話の内容が少しも頭に入ってこない。なるほど、と適当に相槌を打ちながらペットボトルのキャップをひねる。とにかくよく喋る男だった。


 冷たい水を呷ると、暖気で乾ききっていた喉が潤されて心地良い。ミネラルウォーターというものはこんなに美味かったのかと、感心してしまう。本当に美味しい。この感動を誰かと分かち合いたいものだ。シオンに買って帰ってやったら、喜んでくれるだろうか?


「いずれにしろ、あなたのような立派な青年は我々としても貴重ですので、是非今日一日の体験をご家庭へ持って帰って、ご家族やご友人などに話していただけるとうれしいです」

「いえ、もう帰るつもりでして」

「はあ。やはりつまらなかったでしょうか」

「色々と知りたいと思って来たんですけど、あまり期待した話が聞けなそうで」

「どういう話がお望みでしたか」

「もっと、実戦的な話です」

「今日皆さんに講演させていただく内容はどれも、実践的だと思いますが」

「いえ、戦う方です」

「主任」


 突然、少し低い女性の声が廊下に響いた。見ると、先ほどまで僕がいた多目的ルームのドアを半分開けて、若い女性警官がこちらの様子を伺っている。講習会の参加者に資料のハンドアウトを配っていた女性だ。見たところ年齢は僕と同じくらいなのに立派なものだと思い、よく印象に残っていた。


「もうすぐ出番なので準備をお願いします」


 男は腕時計を確認しながら、残念そうに僕の方を見る。


「思ったよりも講演会の進行が巻いているようです」

「いえ、お気になさらず」

「ではこれで失礼いたします」


 丁寧に一礼してベンチを立つと、女性と何やら親しげに話し始めた。


 僕はペットボトルに残っていた水を最後まで飲み干し、潰してゴミ箱へ投げ入れる。そうしてしばらく天井を眺めていたのだけど、どうも心の中がざわざわとしていて落ち着かない。


 実に不思議な気分だ。


 先ほどから何か大切なものが欠け落ちているような気がして、探し出さなくてはならないのだが、何を無くしたか、何処で無くしたかがてんで解らない。この心地悪さの正体を探ろうと記憶を思い返すが、心当たりはまったくなかった。


 ……そうやって物思いに耽っていたら、いつのまにか自宅の前まで歩いてきていた。


 あの男はいい人だったし、もう少し講演の続きを聞いてもいいかなと考えていたはずだが、どうして帰ってきてしまったのだろう? どうも自分の思考と行動に一貫性が見出せない。そもそも市役所へ行ったのがそうだ。僕はこんなときに、シオンを置いてどうして外出などしたのだろう? うん、こんなとき? 僕は今、何か重大な欠陥、意識の欠落に気づこうとしているぞ。さあ、なんだ。なんなんだ。僕に教えてくれ、シオン。君はいったいどうなっていたのだっけ。どうなってしまっていたのだっけ。


 玄関の扉を開けて屋内へ入るとうっすらとした血の匂い。玄関先には折れた白杖。廊下の突き当たりには血を吸われて干からびた妹の死体。右側のリビングに入るとソファーで新聞を開きっぱなしのまま頭を潰された父さんの死体があって、そのまま奥に進むと台所では糊付けされたように母さんの死体がフローリングの床とくっついている。元の場所に戻って、廊下の向かい側のシオンの部屋に入ると、相変わらず化粧台の前に君はいた。


 ちっとも化粧をする仕草はなく、ただ放心したようにじっと座り込んでいる。室内は痛いほどの静寂で満たされていて、シオンの体は氷漬けにされたように動かない。僕が出かける前から少しも動いていないようだ。彼女の頭に取り付けられたスミレの髪飾りは、父さんか母さんか妹か、あるいは彼女自身の血によって、すっかり赤黒く変色していた。


 首筋から覗くシルクのような青白い肌はまさしく死者のそれで、生気が微塵も感じられない。開ききった瞳孔の奥に宿る光は以前のような栗色ではなく、真っ赤なルビーの輝きだ。


 僕はついにすべてを完全に思い出してしまったので、徒労感から全身の力が抜け落ち、その場にしゃがみ混んだ。化け物となり果ててしまった彼女を、ただただ見つめる。


 交通事故でシオンは死んだ。


 それが、受け入れなければならない現実であった。


「シオン」


 名前を呼んでも、当然返事はない。


 吸血鬼を彷彿とさせる赤眼で、ひたすらにこちらを睨むばかりだ。


 返事をよこさないというのは、言葉は通じていても行動に結びついていないということだろうか。それとも言葉を理解するような高尚な精神性を、もはや持ち合わせてはいないのか。いずれにしろこちらを睨むギラギラとした瞳から、あの無垢で天使のような微笑みを作り出すことができていたのだという事実には感嘆する他ない。


 僕はなんだか本当に疲れてしまったので、腰を落としてそのまま横になった。


 まったく君という人間は、どうしてそんなに不幸ばかりを背負ってしまうのか、僕にはさっぱり分からない。生まれつきの盲だというのに、幼少期に通り魔に両親まで奪われて、ようやく落ち着いて幸せを目指せるのかと思ったら、歩道に突っ込んできた車にはねられて宙を舞うだなんて。


 僕はね、シオン。君が目の前で綺麗な斜め四十五度に射出されるものだから、一瞬君が鳥になって、大空へ羽ばたこうとしているのかと思ったぜ。嘘だけど。


 それにしたって君はまったく、世の中のあらゆる不幸、あらゆる不条理といったものを、一身に背負いたい願望でもあるのだろうか。不幸など望んでいない、私は悪くないと君は言いたいかもしれないが、残された人間からしてみれば同じことだ。もちろん君にも言い分があるというのはわかるよ。でもね、他人の考えなど、自身の内に引き起こされる結果という形でしか認識することはできないのだし、死んでしまった君がいくら周囲に訴えかけたところで、それを認識してくれる奇特なやつは、この世の中にはもういないのだぜ。いくら動く死体になってみたところで、君はひとりぼっち、あらゆる他者から隔絶された孤高の存在となってしまったわけで、それはもう両親が殺されただの目が見えないだの、そういった第一線級の不幸でさえ霞んで見えてくるほどの不幸の極地なわけで。君其処に至れり。つまり死とは、そういう寂しいものなんだ。


 そして、僕は今思い立ったよ。思い立ったから、君に伝えるよ。聞こえているかはわからないけれど、とにかく聞いてくれ。僕の夢は君とずっと一緒に生きてゆくことだったのだけど、それはもう叶わないのだし撤回する。永遠に叶えられない夢なんかよりも、もっと現実的な、僕たちの身の丈にあった夢を、たった今思いついたんだ。それはつまり、君と一緒の墓穴に入って死んでも一緒にいることだ。いや、今は離れ離れなのだから、死んでからずっと一緒、という方が正しいのかな? 君みたいな不幸体質、この世の中のすべての不幸を背負い、あらゆる不条理の渦中にいるような哀れな女の子であっても、どうだいこれくらいの願いならば、まったく叶わない非現実的な夢だなどと罵らず、まあ叶えてあげてもいいかな、くらいには思えるほどの、ささいな、ほんのささやかな望みだと言えなくもないんじゃなかろうか? この胸の中にわだかまる君と一緒にいたいという願望を叶えるためには、それくらい目標を下げなければきっと、叶わないのだろうなということが、今までの君の人生の一部始終を念頭にいれると、およそわかってきてしまったので。


 ああ。それにしても、こうしてまるで本物の吸血鬼のようになってしまった君を見ても、君に無残に惨殺された僕の家族を見ても、僕の心はちっとも浮き足立たない。誰もいないこの家のように、心の中はひどく静かだ。ただ、君は死んでもかわいいなだとか、唾液をたらして獲物に狙いをつけるその目はどこかの子犬のようで、しかしすでに生気を失っているからからその姿は昔君が血だらけで拾ってきた子犬の轢屍体のようで、だけどそれはそれで愛らしいかもしれないなだとか、そういったとりとめもない感情ばかりが、シャボン玉のようにぽつりぽつりと浮かんできては、跡形もなく虚空へと消えていく。そして僕は一体どうしたら、世の理から外れてしまった君と一緒の墓穴に入ることができるのだろう。本当にそれだけが心配だ。


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