ノット・バッド

ころん

0-1 ソメイヨシノ

「もしも私が吸血鬼になったら」


 よく晴れた日の穏やかな午後、窓から差し込む柔らかい日差しを全身に浴びた彼女は、まるでとっておきのいたずらを仕掛けた子供のように、無垢な笑顔を浮かべていた。


「あなたを殺して、私の眷属にしてあげる」


 そうやって物騒なことを呟く彼女の手元には、化粧水、乳液、ファンデーション。


 ピンク色の化粧台の上はいつだって、何もかもが不自然なほど丁寧に整頓されている。彼女はその中から必要なものを手にとっては顔に塗り、迷いのない手つきで、寸分違わず元の場所、元の角度に戻していく。僕はそれを見るたびにいつも、人間というものの神秘について考えさせられた。とてもじゃないが、彼女の目が本当にただの飾り物だとはどうしても思えない。


「シオン」僕は彼女の真後ろに立っていて、その銀色の髪を丁寧に櫛で梳かしながら、彼女の愛らしい名前を呼ぶ。「それって、プロポーズされていると思っていいのかな」


 彼女が振り返ると、太陽光を反射したその銀色の髪が、儚げで今にも消え去りそうな白へと姿を変えた。決して僕に焦点を結ぶことのない栗色の瞳を薄く覗かせて、少しバツが悪そうに虚空へと呟く。


「そうしたら、二人で太陽の元に出て灰になるの。そうしたらずっと一緒にいられるから」

「悪くないな」

「でしょう? じゃあこれはユウキと私、二人の約束だね」

「覚えておこう」


 シワの寄ったパジャマの首筋から覗く素肌は、死人のように真っ白だ。すっかり痩せてしまった肩に手を置いて、前を向かせ、再び後ろ髪を櫛で梳く。今日はこれから僕の家族とシオンで近くの城址公園へ桜の花見へ行く予定なのだった。


 普段は寝癖だらけの彼女も、今日みたいな特別な日には化粧台の前に立って、しっかりと身だしなみを整える。化粧台は、盲学校を卒業した後に身寄りのなかった彼女をうちの家族が受け入れることが決まった時に、僕の両親が買い与えたものだ。人よりマイナスを背負っている分、化粧をして、人よりたくさんの幸せを見つけなさいとは父の言である。


「ユウキの血、おいしそうだし」

「怖いこと言わないでよ」


 突然、髪を梳く手を掴まれた。強引に顔を引き寄せられて、慌てて目を閉じる。すぐにチクリと首筋に鋭い痛み。驚いて確かめると、シオンのやや伸びすぎた爪が、僕の首筋を抓っていた。シオンは少し首を傾げて僕の反応を期待しているようだ。


 仕返しをしてやろうと思って、僕は言葉を返す代わりにそっと、その柔らかい頰にキスをした。彼女は少しだけ驚いた声を漏らす。だが次の瞬間には、まるですべてが想定内とでもいうように、僕の後頭部に両腕を回して優しく撫でた。


 心地よい体温に優しく包まれる。微かなシナモンの匂いが鼻腔をくすぐった。


 しばらくして唐突に恥ずかしさがこみ上げてきてので、僕は慌てて距離をとった。たった今、自分がしてしまったことを後悔し、熱を帯び始めた体を深呼吸で落ち着けようとする。だが、苦しいほどの心臓の鼓動は少しも収まる気配がなかった。鏡を見れば、きっと耳まで真っ赤になっているに違いない。


「恥ずかしがるなら、しなければいいのに」


 シオンは、慌てふためく僕の醜態を察したのか、今にも笑い出しそうだ。それを必死にこらえているので、なんというか、すごく面白い顔になっている。そして、目の見えない君のそういった表情を、そばで自由に覗き見ることができるのは僕だけの特権なのだ。そう思えば、とても満ち足りた気分で、いくら笑われようと構わない。苦し紛れにそんなことを伝えると、シオンはついに声を漏らして、心底可笑しそうに笑い出すのだった。


 すっかり火照ってしまった体を冷まそうとシオンから目をそらす。すると今度は、化粧台の鏡を覆うように貼られたポスターの中の人物と目があった。


 黒いマントを羽織り、燃えたぎる赤い目をした白髪の老人がこちらを睨んでいる。ドラマや映画にあまり関心がない僕でもどこかで見たことがあるような有名俳優が主演を演じた、吸血鬼をテーマにした大ヒット映画のポスターである。


たしか、予告編のキャッチコピーはこうだった。


――死が終わりだと思っているなら、それが間違いであることに、早く気がつくべきだ。


 シオンはこの映画をえらく気に入っていて、一緒に音声ガイド付きのDVDを何度も見ていたら、嫌でも覚えてしまった。


 映画の題材となったその男のモデルは、かつて実在した連続殺人鬼である。


 彼の名はバーボン・ド・ブロイ。


 半世紀前。ある冬の日に、彼は農業地帯にあった小さな小学校へ侵入し、銃身が真っ赤に溶け落ちるまで二本のマシンガンを十五分間に渡り撃ち放った。すぐに保安官に射殺されたが、彼の死体は保安官が検死をした直後に蘇り、流暢な言葉でこう語ったと伝えられている。


――クソ野郎ども。俺は吸血鬼になったぞ。せいぜい夜道には気をつけることだ。


 どれほどが真実なのかはわからない。だが、どこかのゴシップ雑誌が取り上げたこのニュースが映画監督やコピーライターの目に留まり、地獄のように残虐な大量殺人現場から、生ける屍バーボン・ド・ブロイの伝説は誕生した。彼の物語は瞬く間に全世界からの注目の的になり、映画化では興行収入で殿堂入りを果たした。彼の生い立ちを綴った伝記や、彼の架空の活躍を扱った本は出版すればたちまちに重版が決まり、テレビのゴールデンタイムには、彼のための特集番組が組まれた。


 子供の頃、シオンに読み聞かせるため大量に買い漁った本の中に、バーボン・ド・ブロイの小説が紛れていたことがあって、それ以来、シオンはすっかり吸血鬼に魅入られている。シオンに頼まれて、僕も幾度となく様々な彼の物語を読み上げてきた。


 たしか、彼女が一番気に入っている物語でのバーボンの決め台詞はこうだ。


――大切な命を世界に晒し続けているなんて、奪ってくださいと言っているようなものだ。


 脚色され続けるバーボン伝説。誰にも真偽のほどはわからない。だけど、どれだけ美化されようと所詮はただの人殺しである。罪のない命をたくさん奪っているというのに、それをもてはやすというのはどうなのだろう? 一度死んで蘇ったというのもありがちな設定で、特別性は感じられない。似たような話なら巷に溢れているじゃないか。ラザロとか。


 なのによりにもよって、残忍な大量殺人鬼だ。


 君は、つらくないのかな?


 十年前、人通りの多い商店街の路上で、数十人の犠牲者とともに、シオンの両親は殺された。押収された犯人の私物からは包丁が何本も出てきて、無差別的な犯行なのは明らかだった。現行犯で逮捕され、すぐに死刑判決が下り、執行されている。


 生まれつきの全盲だったことで、目の前で無残に殺される両親を見なくて済んだのはせめてもの救いだったのかもしれない。だけど、当事者である君くらいはせめて、バーボンのような存在に心痛めて、殺人という行為を忌み嫌うべきなんじゃないかな。君が恨まないというのなら、いったいだれが恨むんだ? 人の幸せを奪っておきながらのうのうと赦される。そんな理不尽は、フィクションとしてもあんまりじゃないか。


 文句を言いたくなるけれど、きっと聞く耳をもたないから、一度も口にしたことはない。周りの理解が及ばなくたって、ちっとも気にしないのが君なのだ。


 昔、近所で同い年だったシオンと、まだ家族ぐるみの付き合いがあった頃、シオンが車に轢かれていた子犬を抱えて泣きながら帰ってきたことがあった。血だらけになって泣きじゃくる彼女を見て、そこにいた誰もが顔面蒼白のまま、立ち尽くすことしかできなかった。こぼれ落ちそうなハラワタを必死に抑える凄惨に血にまみれた幼いシオンを今でも夢にみる。少女の細腕に大切に抱かれた子犬の轢死体。真っ赤に染め上げられた中に際立つ腹わたの異様な白さは、まぶたの裏に焼き付いて、ずっと離れない。


 はみ出た白い腸は、君が強く抱き締めるほどに、余計に飛び出してしまうので、ますます周囲の空気は凍り付く。


 後から本人に尋ねたら、ただかわいそうだったからそうしたのだという。周りの人間からしたらたまったものではない。


 自分の行動が他人の目にどう映るのか、そこのところをよく理解しないで生きていくのは危険だ。もっと周りに合わせないと、世間から孤立してしまう。ただでさえ、君はいつも他人が滅多に経験しないような不幸に直面してしまうのだから。馬鹿みたいにずっと、貧乏くじを引き続けてしまうのだから。


「どうしたの?」


 考え込んで手が止まっていたようで、シオンが再びこちらを振り返った。その拍子に化粧台の上に肘が当たって、サプライズに用意していたスミレの髪飾りが足元へ落ちてしまう。


 うわあ、何か落ちた、と慌てた声を出す彼女に僕はくすりと笑って、


「これは僕からのプレゼントだ」


 足元に手を伸ばす彼女よりも素早くそれを拾い上げ、頭の上へ乗せる。


 ああ、やっぱり、想像していた通りだ。


 君の美しい銀髪には、紫色のスミレがよく似合う。


「お兄ちゃん、シオンさん。準備できた? お母さんがそろそろ花見へ行こうって……おぉ」


 ノックと同時に入ってきた妹が、化粧と髪飾りをしたシオンの姿を見て感嘆の声を上げた。


「いいな、私も大人になったら、シオンさんみたいにオシャレしたい」

「その前にちゃんと、高校受験頑張らないとねー」


 廊下を挟んで、妹によって開け放たれたリビングの向こう側から、母さんの朗らかな声が届く。母さんが他愛のないことを言う時の、屈託のない、慈愛に満ちた声色が好きだった。


 先ほどから小さくパチン、パチンと聞こえてくる音は、父さんがまた新聞をホチキスで留めているのだろう。僕はページをパラパラとめくっていくほうが好きなのだけど、ホチキスで本のようにして新聞を読むのが父さんの癖だった。だから落ち着いて読みたい時には、父さんよりも早く起きて、先にポストから朝刊を取り出さなくてはならない。ずいぶん長い間そうしてきたし、きっとこれからだって、そういう基本的な習慣はずっと続いていくだろう。


 僕は妹に褒められて紅潮するシオンの手をとり、立ち上がる。


 さぁ、シオン。みんなで花見へ行こう。なんといっても今は春先である。日本の春といえばソメイヨシノだと相場が決まっている。たとえ目が見えなくたって、たとえひとりぼっちだって、花見はしなくちゃ。人より不幸を背負っているのだから、人より幸福にならなくちゃ。僕はもうお腹がペコペコだよ。それは君を気使って、人混みをさけるために時間を昼時からずらしたせいなのだけれど、そんなことは大した問題じゃない。君のためになることが僕にとっての幸福だからね。さあ、これからどんどん君の人生に、面白いことが始まるぞ。約束通り、僕たちはずっと一緒にいよう。そして、永遠の幸せを手に入れよう。そして、その前哨戦として、僕と君と、父さんと母さんと妹の五人で、今から仲良く花見をしよう。


 準備はいいかい?

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