さようなら、私だけの貴女。

澪標 みお

ルビーの首飾り

 今の私を支配している感情は、ただ一つ──絶望だった。


 野原を覆う、どす黒い血。

 無造作に転がる死体の山。

 そこかしこからきこえてくる呻き声。

 無惨に転がっている剣の破片は、奮闘虚しく命を散らしていった彼ら彼女らの、行き場なき無念の証左か――。


わたくしは、何と言う愚かなことを……っ」


 たった一時間前まで、一体誰がこの惨状を予測できただろう。

 そしてその全てが、私の招いたことなのだ。


 外交交渉のためにおもむいた隣国から本国へ帰る途中の私は、部下たちの忠告を押し切って、王国に戻る最短経路──ここには最近、大量の凶悪な魔物が出没しているとの報告が入っていた──を兵力に任せて突っ切ることにした。その楽観的な強行突破の結果がこれだ。魔物の数が並の軍隊どころではない数で、その一つ一つが予想より遙かに強力だったとはいえ、全ての責任はこの場の最高指揮官たる私にあった。


「王女殿下」


 馬車の中で後悔に崩れ落ちている私の前に、一人の女騎士がサッとひざまずいた。


「……何かしら、アリサ」


 彼女は私の近衛騎士団の団長を勤める、我が国の最精鋭の一人。そして実は、つい先日に一夜を共にした仲でもあった。


「ここは危険です、殿下。撤退は私どもが援護しますので、殿下はどうか」

「嫌よっ! 私が下がったら、皆のこれまでの努力が──」

「いけません、殿下。最早我々に勝ち目はないのです。これ以上犠牲者を増やし、まして殿下の御身おんみに万一の事があれば、王国そのものさえ危機に瀕する恐れがあります」


 こうべを垂れて淡々と言われれば、私も納得せざるを得なかった。彼女の言う通りだ。ここで退かなかったのは私の我儘わがままだったのだと、後世の歴史家たちに嘲笑されてしまうかもしれない。そして何よりも、私が足手纏いになるわけにはいかないのだ。


「分かったわ、行きま──」


 やむ無く諫言かんげんを受け入れた私は御者に命じ、豪華絢爛に飾り立てられた馬車を走らせようとした。しかし、それが動くことはなかった。御者に激しく鞭打たれた馬は何かに怯えるようにしていななき、一歩たりとも進むことができず、あまつさえ逃げ出そうと暴れ始めたのだ。


「な、何よ……っ!?」

「そんな……」


 馬車の前から離れておろおろと立ち上がった彼女がよろめく。その金色の甲冑は、血と泥にまみれていた。


 生温い風にたなびく、彼女の白銀の長髪。

 その向こうから姿を現したのは、城かと見まがうほど巨大な、漆黒の怪物だった。


「りゅ、龍だ!! 黒龍が出たぞっ!!」


 御者が、馬が、周囲の兵士たちが、蜘蛛の子を散らすようにして逃げてゆく。私はと言えば、見たこともない異形いぎょうの出現に圧倒されて、指先さえ動かせずに固まっていた。


「何よ、これ……こんなのが出るって、聞いてないわよ……」


そんな私の顔が、何かに覆われた。


「殿下──いえ、アナスタシア様」

「……ア、アリサ──こんな時に何してっ……んんっ!?」


 私の唇に触れた、柔らかく温かな彼女が、凍りついた私の身体を隅々まで融かしてゆく。止まっていた心臓が動き出し、残酷な世界に音と色が戻ってきて、全てが再び回り始める。


「行って参ります、アナスタシア様。殿下はお逃げください。絶対ですよ?」


 そして彼女は私に背を向け、風のように去っていった。




 ***




「あまり自分を責めないでください、殿下」


 疾風のごとく戦場を駆け抜け、黒龍の元へ一直線に近づいてゆく女騎士――アリサの表情は、どこまでも晴れやかだった。


「判断が何一つ間違っていなかったとは言えません。でも私は、そんな殿下について行くと誓ったのです。王国を侵犯する不埒ふらちな魔物から逃げることなく立ち向かうそのお姿に、私は惚れてしまったのですから……!」


 間近に迫った黒龍は、口を大きく開けていた。その中から溢れ出した紫色の光が、みるみるうちに強さを増してゆく。


「私だって逃げませんっ! 〈我が身を光の化身けしんし、暗きものを貫く聖槍とならん〉!!」


 金の鎧が目映まばゆきらめき、銀の髪がさっと揺れる。直後彼女を襲った龍の熱い吐息は、王国が誇る最強の近衛騎士団長に何のダメージを与えることもできずに四散する。


「はぁああああぁあああ────っ!!!」


 そして天高く、力強く跳躍した彼女が飛び込んだのは、龍の口の中だった。


(ごめんなさい、アナスタシア様。私はもう二度と殿下とお会いすることはないでしょう。それでも、私は殿下を護りたい。そしてこの龍を倒すには、この方法しかないのです──)


 目を閉じたサヤは再びその蒼い瞳をカッと見開き、抜剣。苦しげに頭を振り回す龍の口内奥深くに、迷うことなく突き刺したのだった。


「愛しています、アナスタシア様。〈光あれ〉」

 



 ***



 

 走り去ったアリサを呆然と見送っていた私は、僅か十数秒後にその最期を見ることとなった。


「嘘よ……そんな、嘘よ……っ!!」


 黒龍の頭がぜたのだ。

 そしてそこから、私の愛する女騎士が脱出した様子はなかった。


「そんな……あの時言ったじゃない、アリサ……ずっと側にいますからって言ってくれたじゃない……! 嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき……っ!!」


 同じベッドで感じた彼女の肌の温もりを思い出して、全身が震えた。嫌だ。私はまだ貴女と居たいのに。勝手に死ぬなんて嫌。許さないわ。私を置いていくなんて酷いわよ。忠実な部下の風上にも置けないわ。どうせ愛を囁くなら、ドラゴンの口の中なんかじゃなくて、私の目の前で囁きなさいよ……っ。


「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だいやだいやだいやだいやだいやだいやだっ…………アリサぁあああああぁああ──────っ!」


 今行くわ、アリサ。

 この世界ごと吹き飛ばしてでも、私は貴女に会いたいの。


 いつの間にか、立っているのは私一人になっていた。何万という数の魔物たちにじりじりと取り囲まれつつある中、鎧を外し、投げ捨てる。そしてきらびやかな装飾の施された一本の大剣を、天頂目がけ高々と抜き放った。


「〈王国のおさたる我、アナスタシア=フォン=カートライトがいのたてまつる。この世の全てを神気と変え、我が身の全てを器と化し、何物をも灰塵かいじんに帰する運命さだめを成さん。滅びの時は来た。今ここにあらわれよ──ラグナロク〉──っ!!」


 王国をべる我が一族・カートライト家に代々伝わる、門外不出の超大規模破壊魔術。それは術者の身体を霊媒として大量の魔力を蓄積する自爆攻撃。正真正銘最後の手段だった。


 ──ごめんなさい、アリサ。貴女の献身を無駄にしてしまったわ。


 天空渦巻く積乱雲からとどろく雷鳴。ほとばしった強烈ないかずちが剣を直撃し、膨大な量のエネルギーが私の身体に押し寄せ、流れ込み、溢れ、むしばんでゆくのが分かる。血管が裂け、骨肉が千切れる。地上にある全てのものが破壊される。


 その時、薄れゆく意識の中で、何かが口を開いた。

 それはどこか遠くから聞こえてくるかのようで、それなのに耳許で囁かれているように聞こえた。


 ──駄目ですよ、アナスタシア様。殿下には為すべきことがまだまだ沢山お有りです。ここで倒れてはなりません──。


「…………そんな」


 一筋の涙が、私の頬を伝う。

 粉々に折れたはずの骨が、ズタズタに切れたはずの筋肉が、跡形もなく裂けたはずの血管が、またたく間に修復されてゆく。胸元で輝く青い光に包み込まれた身体は、ラグナロクによっても傷つかないのか──。

 確かに魔術は発動した。周りを取り囲んでいた魔物たちは跡形もなく吹き飛び、地面は深くえぐれ、木々は遥か遠くまで一方向にぎ倒されている。


「貴女を喪った私に、それでも生きろというの……?」


 死ねなかった。

 よろよろと崩れ落ちる私には、もう何の力も残っていなかった。

 いっそ死んでしまえたら、どんなに楽だっただろう。彼女と一緒に天に召されてしまえば、どんなに────。


「…………ははっ……ばっかみたい……」


 そうだ。


 私が死んだなら、彼女は何のために死んだのだ。


 この屈辱は、生涯消えることはない。

 この絶望は、一生晴れることはない。

 それでも、彼女がそう望んだのなら。


「やってくれたじゃない、アリサ……貴女がどうしても私を死なせてくれないって言うのなら、私も皺くちゃになってくたばるまでせいぜい生きてやるわよ」


 ──さようなら、私だけの貴女。


 彼女からかけてもらったルビーの首飾りを握り締めた。たった一つ残って私を護ってくれた、今はもういない彼女の欠片かけら。青く輝くその色は彼女の瞳の色であり、そして命の色のように感じられた。



 〈了〉

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さようなら、私だけの貴女。 澪標 みお @pikoma

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