第6話 闇堕

「どうしよう、あーもう帰っちゃおうかなぁ……ふふっ」


 無機質な机に、模様を見出してしまうくらいの虚無を過ごした後、シエタはそんなことを自棄気味に呟く。

 周囲を見渡せば、もう皆退室したあとだった。がらんとした講堂の中で溜め息を零した。


(もう受かりっこない。私にできることって、勉強これくらいだったのに…)


 監視される緊張感の中で難問を解かねばならない。

 解けない問いをスキップする簡単な行為にすら障壁がある。

 実のところ、彼女が全く力不足というわけではない。最初の問いは受験生の中でも早く回答していた。しかし失格者が出るというイベントの後は、もう心臓が言うことを聞かず、暴走した鼓動が手に伝わっているかのように体が震えてしまった。


(あぁ…もうやだぁ…ハイド、ごめんなさい。やっぱり、私じゃ無理だ…)


 シエタはカバンのベルトを肩にかけた。筆記用具をカバンの中に戻そうとしたとき、忘れかけていた古ぼけた手帳の存在を思い出す。


「なんなの、もう…」


 手帳を取り試験前の不思議な出来事を思い出す。

 謎の幽霊が願いを告げたのだ。

 思い返せば、変なことが立て続けに起こり過ぎた。隣の席の少年みたいな図太さがあれば平然と乗り越えられたのだろうかと、想像した――



『疲れていますね…』

 ふと見れば、白いフードの幽霊は再び現れた。相変わらず、その声は複数人の声が重なったような奇妙さをはらんでいた。

 シエタは目を細める。


「……私、きっと落ちたよ」

と弱弱しく切り出す。

「貴方のような幻を見るくらい体調おかしいし…、問題も一問しか解けなかったし……あははっ、私って、やっぱりダメなんだなぁ…」


『とても難しかったのですね。難化傾向でしょうか…。どんな問題が出たのですか?』

と、幽霊は尋ねた。


 やけに鮮明な幻聴だと思いつつ、シエタは律儀に問題文を伝える。幻覚に応答するのはおかしいと思っても、周りに誰もいないので、独り言のつもりで問題文を復唱した。答えなど帰ってくるはずもない。



『Σ1nXu(M)g(R/n)EqAΣ1<Nxu(M)Σ1mnXf(R/mn)EqΣunΣΣ1mrxrEqmnf(R/r)Σf(R/r)ΣΣ[mEqr/n]EqΣfXRΣn|ru(M)EqΣunEqΣfR/rεREqf(R)Σ1nXu(M)g(R/n)EqAΣ1<NRu(M)Σ1mnXf(R/mn)EqΣunΣΣ1mrxrEqmnf[mEqr/n]EqΣfXRΣn|ru(n)EqΣunEqΣfR/rεREqf(R)Σ1nXu(M)gmnXf(R/mn)EqΣunΣΣ1mrxrEqmnf(R/r)Σf(R/r)ΣΣ[mEqr/n]EqΣfXRΣn|ru(M)EqΣunEqΣfR/rεREqf(R)、ですね』



「えっ?」

と、シエタは顔を上げる。何かが詠唱されたが聞き取れなかった。淀みなく早く、長い。

「なんですか?」


『その問2の。暗算ですが、あってると思います』

「えっ……解けたんですか?」

『ええ。一応、精鋭ですから、暗算くらいなら』


 シエタは息を呑む。混乱し過ぎた頭で一つのことを確信したのだ。つまり――


『でも、これで分かりましたか? 私がってこと。貴方の見ている幻夢の類なら、貴方が答えられなかった試験の解答も分かるはずないですから』

「えっ…ええ? じゃあ、貴方は私が見ている幻とかじゃなくって、本当に、クランス校の“精鋭”?」

『そうです』


 声は立て続けに応じた。シエタは息を呑む。

 好奇心の炎が、心臓の奥に宿る…


「じゃあ〈体〉を探すって約束したら何でもするっていうのも、本当ですか…?」

『もちろん。体が無いとできることは限られていますが…。少なくとも、考えることは得意です』


 それは悪魔の囁きだった。しかし、シエタの頭からは一時的に悪い考えが無くなってしまった。文字通り、“魔が差したから”……

 例えば、「残りの試験の答えも教えてくれ」と願えば、この悪魔はきっと叶えてくれるだろう。


(い、いやいや! そんな事、良くない! 良くないけど、良くないけど…!)


 シエタは胸を抑える。

 心臓が跳ねている。

 緊張のせいとは違う。もっと違う理由――高揚だった。目の前の不思議な存在にてられた。純粋に目の前の「何か」に惹かれた。善悪と欲求の葛藤を抱えた少女が悶々と何も告げないでいると、精鋭は『あ』と呟いた。


『前提条件として、貴方が入試に合格しないことには話になりませんね…』

「そ、そうですね」

『だったら、受からせてあげましょうか?』

「え? 受からせる、って…?」

『私が試験問題を解くのを手伝う、ということです』


 シエタはぎくりと肩を揺らす。

「えっ? い、いやいや! そういうわけには……」

と、細かく首を横に振るが、鏡映しのように、精鋭も首を振ったのである。


『まあ聞いてください。試験なんて、ただ実力を測るためのものです』

『かたや、学校は何のためにあると思いますか?』

『君の力を伸ばすためです。実力主義ゆえに、実力を伸ばすことが第一です』

『入試は通過点です。ゴールじゃないのです』

『貴方の求めるものは入口ではなく、その中にあるべきですから』


 精鋭が立て続けに言う。

 シエタは何も言えないでいる。

 話がへ行きそうなのに止められない。

 良心が働かない。


(止めないと、止めないと…でも…!)

『貴方は合格してください、シエタ。入学した後に実力もきっと伸びる。そのための学校です。入る前に実力不足だから入学できないなんて、学校の存在意義を考えたら、理屈がおかしいですよね?』


 そんな悪い言葉が甘く聞こえるので、シエタはもう末期であった。


「い、いやそんなこと! それに私、実力不足のまま不正入学しても、ここに残れる自信がないし……」

と、最もらしい理由を付けて、結論を修正させようとするが、語調はあまり真に迫っていなかった。


『くすっ、じゃあも手伝います。多分調査もすぐ終わらないでしょうし、どうせ私は他にできることもないですからね』

『これが私には最後のチャンスかもしれないのです。貴方には悪いですが、逃す手はないのです』

『もし無事入学できたら、貴方がここで生き残れるよう手助けします』


「えっ……?」

 シエタが顔を上げると、白フードは肩を竦めるように動いた。


『何はともあれ、今日は受からせます。悪いけど貴方のためでなく、私のために。ごめんなさい』

 シエタは息を呑む。もはや、彼女自身の意思とは無関係のことが進み、何かの事態に巻き込まれつつある。


『上手く行けば良いですが――貴方の思考回路をお借りします』

「思考回路……?」


 その言葉に誘われるように、シエタは幽霊の姿を見つめ返した。その時、頭の中が不思議な感覚で満たされたのである。


 まるで複数の人格が脳内で会議を開いたような、騒がしさで。

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