第3話 精鋭
「えっと、会場は……ここかな?」
教室棟に数ある試験会場の一つ、大きな部屋を見つけたシエタは中へ入り、次は座席を探し始めた。人は大勢いるのに、静寂しか彼女を迎え入れてくれない。まるで場違いな空間に侵入してしまったようだった。お呼びでないパーティに忍び込んだような。
(うぅ…バタバタして自覚してなかったけど、緊張ヤバ…!)
シエタの緊張が再発した。彼女は意識して深呼吸をしながら歩き、自分の席を探す。
「私の席は――」
机の角に貼られた番号を確認しつつ、自分の向かうべき座標へと着実に近づいていく――やがて、空席が二つ見つかった。どうやら隣の席の受験生は未到着らしい。この時間に空席ということは、隣人は体調不良などで、そもそも試験を受けに来ない可能性がある。
ただしシエタが今すべき事は自分の心配だった。彼女はカバンを机の上に置き、中身を見る。凡そ他の受験生がそうしているように、試験前の最後の詰め込みをかけようと言ったところだった。
「……ん、なにこれ…?」
そして、覚えのない背表紙の古書が目に入った。
手のひらより一回り大きく、厚み数センチの本だった。
背表紙には何も書かれておらず、本の角が少し折れ曲がっていた。
(えっ、なにこれ? こんなの、持ってきた覚えない)
シエタは首を傾げ、目を細め、訝し気に本を取り出す。そして開いて良いか、一瞬逡巡。
その本の見た目は、まるで誰かの私物のようだったからだ。
(手帳だ。でも…私のじゃない、よね…?)
本の表紙に相当する部分はかすれて、ほぼ文字は読めない。読める部分だけ目を凝らせば、そこにはこう書いてある――
“精鋭たちへ”
「精鋭たち、へ……?」と言いつつ、シエタは手帳を開く。
くすくす、くすくす――
あらおいで、こちらに来たれ、
精鋭たちの寄る場所へ、
さあ、汝、こちらにおいで――あぁっははははははははハハハハハッ!!
「ひっ……!?」
脳内に流れて来た反響する声にシエタは驚いて、本を手放す。角が机にぶつかる――すると、本は角の一点だけで机の上に自立して固まったのだ。
まるで、時が止まったように。
『ここです』
「え……?」
頭の中に誰かの声が聞こえる。横を向くと、空席だった隣席に白いローブの人影が座っていた。
その途端、シエタの脳にボヤけていた記憶が鮮明に蘇る。
「き、昨日の夜、宿にいた幽霊さん…!? まさか、私に憑いてきちゃったの!?」
『くすっ、幽霊ですか。貴方が連れてきたんですよ』
「ええ!?」
声を上げて慌てて口を押え、ふと、周囲から一切の音がしないことに気付く。
“しん――”とした空間。
はっとして、シエタは周りを見渡す。
皆の動きが止まっていた。ペンでこめかみを掻く仕草のまま止まった人、斜め読みの最中で捲れるページがアーチを描く本、バッグの中を探った態勢のまま探す動きの無い人――固まった世界の中で、シエタと白ローブだけが動いている。
白ローブは、フードの空乏をシエタに向けるように動いた。
「ええ? なに、これ……?」
と、独り言をつぶやくシエタ。
『貴方の体感時間を少し弄りました。少しの間、お話しましょう』
――その白ローブの声は、複数人の声が重なっているように聞こえた。一人分のローブの輪郭の内にたくさんの人間が詰め込まれて、その声の木霊が漏れ聞こえているような、不気味な話し方だった。
『名前はシエタ・ライトであってますか? さっき、そう言ってましたよね』
「そ、そうですけど……すいません、状況がよくわからなくて。貴方は? あの宿に棲みついた幽霊じゃ? 私に憑いてきたんですか…? なにか恨み買っちゃいました…?」
戸惑い気味にシエタは尋ねる。まともに驚けないほど呆けて、おまけに変なことを聞いた。
『くすっ、違います。確かに幽霊かもしれませんが、あの宿に棲んでいるわけじゃないですし、恨みも売って無いです』
「じゃあ、貴方は……?」
『精鋭です』
答えを聞いて、(それは名前じゃない……)とシエタは思った。
『ごめんなさい、それは名前じゃないって思ったでしょう。〈精鋭〉は、クランス校で与えられる称号の一つです。私は、名前を覚えてないのです』
「この学校の称号……? でも、自分の名前は忘れちゃったんですか?」
『ええ。いま分かっているプロフィールは、クランス校の元精鋭ということくらいです。名前を教えられなくて悪いですが、貴方に手伝ってほしいことがあります』
幽霊は一度俯いてから、再度シエタに向き直る。
『私の体を探してほしいのです』
シエタはぎくりとして、言葉を繰り返す。
「体を探すって……?」
『学校のどこかにあるはずなのです。体を無くしてこうなったはずなのですが、詳しい経緯が思い出せず、体の行方も分からないのです』
シエタはじっと聞き入る。
今が試験前であることなど今は頭から抜けていた。会場に備え付けられた時計の秒針は、さっきから0.1度も回転せずに、壊れたかのようだ。
『昨日、貴方は私に、初めて気づいてくれた。どうか、お願いです。願いを聞いてくれたら、何でもしてあげるから……』
「なんでも?」
これは夢幻の類ではないかと思いつつ、シエタは言葉を返す。
『そう。何でもです。だから、お願い…―――』
――そこで、白いローブが消えてしまった。「ぽす」と軽い音が机から響くと、手帳が机の上に寝そべっていた。周囲の音も聞こえるようになっていた。
「な、なんだったんだろう、今の……?」
物証がある限り、夢とは言い難い。どちらかと言えば、幻覚+幻聴だった――そんな危うい事実を認めたくないシエタであったが、先ほどの出来事と、目の前のボロの手帳が意識からどうしても剝がれることはなかった。
ところで、動き出した秒針は、まさに刻一刻と、試験開始時刻へと近寄っていた。
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