第117話 二日目/森の散歩道/それを呪いと呼ぶのだとしても

 たっぷり四分、泣き続けた。

 そしてある程度頭がすっきりした今、郷塚賢人は怒涛の羞恥に見舞われていた。


「ホンッッッット、お願いします! 誰にも言わないでください!」


 こちら、困っている菅谷真理恵を前に拝み倒してる賢人の図である。


「大丈夫よ、そんなこと、言ったりしないから」


 困り笑いをしつつ、真理恵はそう言ってくれる。

 が、それでも念には念を押したくなるのが、今の賢人の心情なのだった。


「本当? 本当ですね……?」

「そこは信じてほしいところだけれど、私のことは信じられないかしら?」


 もちろん、そんなことはない。

 逆に、現状の賢人にとって、もはや何も考えず信じられる相手は真理恵だけだ。


「……ありがとうございました」


 ベンチに座り直して、賢人は真理恵に頭を下げた。

 隣に座り真理恵は、一瞬首をかしげながらも、すぐに笑って彼の頭を撫でてくる。


「賢人君が無事でよかったわ」

「無事で……?」


 そういえば、真理恵がここに来た理由をまだ聞いていなかった。

 汗を流し、息を切らして、自分を探していたようだった。


「環さんから聞いたのよ。君が、襲われた、って……」

「ああ」


 またこっちを心配する真理恵を見て、そんな声しか出なかった。

 目に浮かぶ。きっと彼女は「襲われた」と聞いてすぐに飛び出してきたのだろう。

 賢人が知る菅谷真理恵は、そういう人間だ。


「でも、無事みたいでよかったわ……」

「無事っすよ。つか、暴漢はお嬢がブッ飛ばしたんで」

「そ、そうなの……?」


 あからさまに意外そうな顔をする真理恵。やっぱりな、と、賢人は確信を深める。


「だって、喧嘩屋ガルシアですよ、あの人」

「そういえば、そうね……」


 実に説得力のある言葉だと、二人して感じ入る。そして同時に納得もする。


「だから、襲ってきたヤツは二度と出てきませんよ」

「うん、それならよかったわ。本当によかった」


 はふぅ、と、真理恵が深く息をついた。安堵のため息だ。

 それを見ていた賢人は、全身から力を抜こうとする真理恵に、つい尋ねてしまう。


「何で、真理恵さんは俺にそこまでしてくれるんですか?」

「え?」


 こっちを向いた真理恵と、目が合った。

 キョトンとする彼女の顔は、こうしてみると思っていたより大人なのだとわかる。


 当たり前だ。真理恵は成人していて、すでに社会に出ている身だ。

 それを、賢人は不思議に思う。大人で、社会人で、刑事な菅谷真理恵という女性。

 どうして、こんなにも自分のことを気にかけてくれるのか。


「真理恵さんは、俺によくしてくれます。気にかけてくれます。さっきも、俺、いきなり泣いちゃって、でも、それを受け止めてくれました。抱きしめてくれました」


 嬉しかった。受け入れてもらえたことが、心から嬉しかった。

 だからこその疑問。


「……俺が、か弱い子供だからですか?」


 心臓の音がにわかに高まる。それを口に出した自分の中に、確かな怯えを感じた。

 子供だから。それだけが理由だったら、もう、それはどうしようもない。


 郷塚賢人という人間は、何もできない弱いだけの子供。

 その事実が、自分自身の中で確定する。そして、未来永劫に渡り覆せなくなる。

 真理恵までもが、自分をそう見ているのだとしたら――、


「ん~……」


 彼女の考え込む声が聞こえる。

 突然の質問にもかかわらず、真剣に聞いてくれたからだ。


 賢人は、緊張に高鳴る鼓動に耐えながら、神妙な面持ちで彼女の答えを待った。

 そして菅谷真理恵は、コクリとうなずいた。


「うん、そうね」


 ――そうなのか。やっぱり、俺が子供だから。


 全身から、熱が引く錯覚。

 胸中に渦を巻く『ああ、やっぱり』という諦めと『何で、どうして』という疑問。

 比率はまさに五分と五分、だからこそ混じらず、染まらず、荒れ狂う。


「でも、それは二番目か三番目の理由ね」

「……え?」


「だって、どんなに大人ぶっても、賢人君が中学生なのは変わらないでしょう? 私は賢人君をか弱いとは思ってないけれど、保護が必要な年齢なのは間違いないわ」

「ま、まぁ、そうですけど……」


 刑事にそう言われてしまっては、納得するしかない。そこは。


「じゃあ、一番目の理由って、何なんですか?」

「決まってるでしょ。賢人君が、私の大事な友達だからよ」

「友達……」


 本当に、真理恵は当然のような言い方で、それを賢人に告げた。

 特例でなく、例外でなく、普通に、ごくごく普通に、大事な友達だ、と――。


「俺、中学生っすよ……?」


 言う声は、自分でもわかるくらいに震えていた。

 込み上げてくるものを堪えるのが大変だった。全身を強張らせなきゃいけない。


 少しでも気を緩めれば、きっとまた泣く。さっきよりも派手に泣く。

 それくらいに、嬉しかった。

 真理恵から『大事な友達』だと言ってもらえたことが、たまらなく嬉しかった。


「そうね、君と私じゃ年の差があるから、もしかしたら賢人君には迷惑なのかもしれないけど、私は、君のことはお友達って思ってるわよ?」

「お、俺だって、思ってます! 真理恵さんのこと、友達だって!」


 あえて、勢いをつけて声を大にする。でないと、泣く。もう涙腺も鼻もヤバイ。

 目の奥がツンとなって、溜まった涙が流れ落ちるのを待っている。そんな状況だ。


「そう? それなら嬉しいわ。これからも仲良くしてもらえたら嬉しいわね」


 屈託なく笑う真理恵に、ああ、こりゃダメだ。と、我慢をやめる。

 すると、賢人の目から涙がポロポロと流れ落ちていく。真理恵がギョッとする。


「ちょ、賢人君!?」

「だ、大丈夫です。大丈夫、だい、じ……。ぅ、く……!」


 腕で拭って、拭って、拭って、それでも涙は止まらなかった。

 真理恵が、ティッシュを出してくれる。それを受け取って、彼は涙を拭う。


 そのさなかに思った。

 もう、いいかな。もうこの人に委ねても、いいのかな。俺は弱い中学生でいい。


 今すぐには、真理恵の隣に立つことはできないのだろうけど。

 でも、彼女はこんな自分を大事だと言ってくれた。その言葉に、きっと嘘はない。

 だったらそれに心を委ねて、もう、ただの郷塚賢人になってしまえばいい。


 アキラやミフユには申し訳ないけど、そっちの方が楽だ。気持ちが楽になる。

 自分は『出戻り』ではあるけど、別にケント・ラガルクである必要はないはずだ。


 記憶はあっても、今の自分は、郷塚賢人なのだから。

 だから、もういいかな。

 このまま、真理恵さんの友達の郷塚賢人として生きていけば――、それで、


『待ってよぅ、ケントしゃん……』


 ――水の落ちる音が聞こえた。


 …………。

 …………。

 …………。


「……君、――賢人君? ねぇ、大丈夫、賢人君!」

「…………ぁ、え?」


 ハッと顔をあげる。

 隣の真理恵が、こっちを心配そうに覗き込んでいた。


「あ、真理恵さん? あれ、ど、どうかしました?」

「どうか、じゃなくて……、急に泣き出して、俯いて黙り込んで、大丈夫なの?」


 うわぁ、傍から聞くとただのメンタルヤバい人間にしか聞こえない。

 自分なら、そんな人間から「大丈夫です」って言われても信じない自信がある。


「えっと、すいません、メンタルヤバくてすいません……」

「何それ、どういう謝り方?」


 クスッと笑う真理恵を見て、一気に恥ずかしくなって顔が熱くなる。

 そうだよ、自分はまた泣いた、そして何も言わなくなったんだよ。バカか!?


「はぁ、俺ってヤツは……」


 片手で顔を拭う。すると闇の中に思い浮かべてしまう。

 ダメだ、どうにも振り切れない。

 タマキだ。アキラやミフユではなく彼女の顔がどうしてもチラつく。


 確かにタマキを裏切ったのは申し訳ないと思っている。

 でも、別に自分が守る必要なんてないじゃないか。彼女はまさに最強なのだから。


 もはやケント・ラガルクとして、タマキ・バーンズを守る意味がない。

 だったら、自分はもう郷塚賢人として生きたい。

 前世のしがらみも全て断ち切って、新しい人生を普通に、気楽に歩んでいきたい。


 世界を超えてまで絡みついてくる因縁など、まるで呪いだ。

 そこまで考えた賢人に、真理恵が「ああ、そうだ」と何か思いついたように言う。


「私が賢人君を気にする理由、もう一つあったわ」

「もう、一つ……?」

「そうね。私の祖父の話なんだけど――」


 そこで真理恵が語ったのは、彼女が警察官を目指した理由だった。

 警察官であり、幼かった真理恵を体を張って守り亡くなった、真理恵の英雄。


「私はそのときに思ったの、私も、誰かを助けられるような人になりたい、って」

「そう、だったんですね……」


 ニッコリ笑って語る真理恵に、しかし、賢人は笑えずにいた。

 だって、その話はまるで今の自分と同じだ。

 前世のしがらみに縛られて、ついには心が壊れかけてしまった、愚かな自分と。


「それは――」


 彼女の話に自分を重ね、俯いた賢人はつい、漏らしてしまう。


「それって、何か、呪いみたいですよね」


 言ったあとで、ヤバッと思った。


「呪い?」


 しかし、ほんの小声だったのに真理恵はしっかり聞いていたらしい。

 彼女がこっちを見る。そのまなざしに、賢人も覚悟を決める。

 ここまで真剣に向き合ってくれた真理恵には、誤魔化すようなことはしたくない。


「……すいません。真理恵さんは不快に思うかもしれないですけど、何だか、そう思えたんです。死んだ人の姿や言葉に影響されて、自分の生き方まで決めちゃうのって、その死んだ人に縛られてるように思えちまって、その、すいません」

「ああ、なるほど……」


 賢人が言っていることは間違いなく無礼で失礼、はっきり言えば侮蔑にも等しい。

 だが、それでも真理恵は怒ることなく、真剣に受け止めてくれる。


 この人のこういうところが、尊敬できる。そう、賢人は感じた。

 それはそれとして、謝罪の言葉をすでに十三通りほど考えはしているけど。


「う~ん……」


 真理恵が考え込んでいる。

 これは、いよいよ叱られるか。土下座か。土下座するべきか。


「うん、そうね。多分これ、呪いでもあるんでしょうね」

「えぇ……」


 まさかまさかの真正面からの納得。

 さすがに、考えていた十三通りのパターンの中にもそれはなかった。


「納得しちゃうんですか? ……俺、今、ものすごく失礼なこと言いましたよ?」

「そうね~。私以外にはそういうコトは言わない方がいいわよ?」


 そういう問題じゃない気がする。

 あんぐり口を開ける賢人に、だが、真理恵は変わらぬ笑顔で言った。


「でもいいじゃない、呪いだって」

「いいんですか!?」


 納得の上に前向きに肯定されてしまった。何だ、この人は。

 そう思ってるところに、真理恵は重ねて言ってくる。


「祝福だけの人生なんて、ありえないわよ。誰だってきっと、気づかないところで何かに縛られたり、呪われたりしてる。それを思えば、自分の背中を押してくれる呪いなんて、上等なモノじゃないかしら? どうせみんな、いつだって何かに影響を受けて生きているんだから、祝福も、呪いも、そういうものの一つに過ぎないわよ」

「……マジかよ」


 賢人は思わず呟く。信じられなかった。

 この人は今、こう言ったのだ。呪いでも、生きるための力にできる、と。


 眩しい。あまりにも眩しい考え方だ。

 ただ、考えなしに意味もなく前向きなワケではない。


 真理恵は、呪いというものの意味をしっかり理解しながら、それを言っている。

 そこが、賢人には信じられなかった。自分にはできない考え方だ。


「何で、そんな風に思えるんですか、真理恵さんは……」

「それはね、賢人君」


 真理恵が、賢人に教えてくれる。


「そう生きるって、私が、私自身に誓ったからよ」

「誓い……」


 ――誓い。――――誓い?


「…………ぁ」


 声を漏らし、賢人が目を見開く。

 その顔から表情は消えて、剥かれた瞳は、ここではないどこかを見る。


「賢人君?」


 耳に届く真理恵の声。

 だが、彼の意識に聞こえている声は彼女のものではなく、親友の声。

 アキラ・バーンズが、自分に強く呼びかける声だった。


 忘却の果てより、今、記憶は呼び起こされる。

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