第116話 二日目/森の散歩道/菅谷真理恵は来てくれた

 約束、契約、盟約、協定。

 誰かとの間で結ばれる、将来に渡って守られるべきもの。取り決め。

 それらは意味も様々で、中でも人の生き方まで影響を与えるものはこう呼ばれる。


 ――誓い。


 自らが自らに課す、神聖にして特別な約束。心に定めた絶対の掟。

 きっかけとなった日を覚えている。絶対に忘れてはならない、あの日の記憶を。


 ザァザァと、雨が激しく降っていた。

 オンボロの掘っ建て小屋の外で、二人の男が無様に倒れ、雨を受けている。


「く……ッ」

「ちくしょ、ぉ……!」


 男達は苦しそうに呻きながら、自分を打ちのめした相手に憎々しげに睨んでいる。

 その相手は、二十代後半くらいの男だった。

 自分をきつく睨んでくる二人に、しかし、彼が向ける目はひどく醒めていた。


「俺が憎くて、立てる余力もあって、まだ戦う力もある――」


 倒れた二人にそう告げる声は低くて、重たくて、だけど鋭くて。


「それなのにおまえらはすでに、心がへし折れてる。そうだろ、ドラゴ、ドラガ」


 彼は二人の男の名を呼んで、それから口元に笑みを浮かべた。


「そんなだから、おまえらはウチから追い出されたんだよ、ヘタレ共」

「う、うるせぇ!」

「人間風情が、俺達に意見をするな。何様のつもりだ!」


 騒ぐ二人に、だが彼は笑みを深めるのみだった。


「その人間風情にブチのめされて情けなく転がってるおまえらこそ、何様のつもりなんだい? 減らず口はいいんだが、もう少し格好はつけてくれよ。『人竜兄弟』殿」

「う、ぅぐ……!」

「くそッ、くそォ! おのれェ!」


 何とも空しい遠吠えだった。

 人を超える力を持つ竜人ドラグーンの兄弟を相手に、彼は勝ち誇る気にもなれない。


「自分の要求を通すために子供を使うとかいう時点で、色々アウトだよ。人としても、傭兵としても。その上、実力もないんじゃ、どうしょもない」


 肩をすくめる彼の腕には、小さな女の子が抱かれていた。

 今はスゥスゥと小さな寝息を立てて、眠っている。


「ここで俺が殺してもいいが、それじゃあ、おまえらがやったことが明るみに出なくなる。もうすぐ衛兵が来る。おまえらは牢屋の中で自分がやったことを精々後悔しながら、刑場の露と消えていけ。――そのための根回しも、すでに終わってるからな」

「き、貴様、俺達をここに残していくつもりなのか……!?」

「我らに勝っておきながら、トドメを刺さず、敗者に生き恥を晒せとッ!」


 驚く二人に、しかし彼はやはり冷たい視線と声のままで、


「武人を気取るなよ、チンピラ共。おまえらのプライドなんて、蟻も食わないさ」

「チンピラ……? お、俺達が……ッ」

「お、おぉぉぉ、おお、許さん、我らを愚弄する貴様を絶対に許さんぞォ!」


 雨に怒りの咆哮を響かせながらも、だが、二人の竜人はそこに座ったままだった。

 それを見ていた彼は、もうこの二人に何の関心も抱いていなかった。


「じゃあな、雑魚共」


 そして彼は、女の子を抱えてその場を去っていった。

 入れ違いに多数の衛兵がやってきて、二人の竜人を捕まえにかかる。

 そのとき、竜人達の最後の絶叫が彼の耳に届いた。


「殺してやる! おまえは必ずブッ殺してやる! 必ずだ!」

「この屈辱はいずれ返してやるからな、待っていろ! ケント・ラガルクゥ~!」


 彼は――、ケント・ラガルクは、それに何も答えなかった。

 それは、この一件とは関係のない原因で彼が命を落とす、およそ半年前のこと。


 そしてこの一件こそが、彼の誓いのきっかけ。

 小さな彼女を大事に抱え、彼は唇を噛み締める。無念と悔恨が、心を焼いていた。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 ――気がつけば、郷塚賢人は森の中にいた。


「あれ、どこだここ……?」


 森といっても、そこには道があり、ベンチがある。

 キャンプ場の一角であることは間違いなく、しばし考えてようやく思い出した。


「ああ、山間エリアの森の散歩道だ……」


 キャンプ場でも自分がいた湖畔エリアとは反対側。

 我ながら、気づかないうちに随分とさまよってしまったものだ。


「……疲れた」


 ずっしりと重い身体を引きずって、賢人は近くのベンチまで歩いていく。

 そして腰を下ろすと、もう、動きたくなくなる。何だか、頭に鈍い痛みを感じる。


 全身を襲う虚脱感が辛い。もう立ちたくない。前を向きたくない。

 座ったまま、足を投げ出し顔はうなだれさせて、それで、彼は両手で頭を抱えた。


 きつく目を閉じる。そのまぶたの裏に、別れ際のタマキの顔が浮かんだ。

 見てしまった。彼女の涙。弱りきったその表情。ちくしょう、ちくしょう。


「泣きたいのはこっちだっての……」


 腹の底から絞り出した、かすれ切った声。

 それは怨嗟のつもりで吐いた、ただの弱音であった。ダメだ、恨みきれない。


 どうしても、タマキに対して怒りを抱けない。弱い。どこまでも。

 何もかもが中途半端で、どっちつかず。だからダメなんだと、結局自分を責める。


 とても激しい耳鳴りがした。

 耳の奥のゴゥゴゥと、激しい音が唸っている。嵐が吹いているかのようだ。


 だるい。気だるい。とにかく体が重く感じられて仕方がない。

 疲れている。身も心も疲弊しきって、もう、自分だけでは立っていられない。


「これから、どうしよ……」


 と、呟きはしても、考えなんて何も浮かばない。

 頭にあるのはタマキを裏切ったことへの罪悪感と、そこから来る自罰の想いのみ。


 何てことをしてしまったのか。

 賢人は、自分がしたことをしっかりと自覚していた。


 タマキを裏切ること。

 それは、自分を信頼してくれたアキラとミフユを裏切ることでもある。


 とんでもないことだ。そして取り返しのつかないことだ。

 アキラには、どれだけよくしてもらったことか。

 郷塚家とのことだって、彼がいなければ自分は今も郷塚の役立たずのままだった。


 そのアキラを、裏切った。

 その認識が、強烈な罪悪感となって賢人の心を軋ませる。

 ピシピシと心にヒビが入っていく。痛い。体の傷はもう治したのに、痛い。


 こんな状態で、戻れるワケがなかった。

 むしろ、戻りたくないという思いが強い。とにかく、合わせる顔がない。

 だが、じゃあ、どうする。今の自分に何ができる。


 それもわからない。

 いや、違う。今の自分には、何もできない気がする。

 できることなど何もない。自分は無力だ。力のないただのガキだ。無力。無力。


「……クソ」


 ダメだと思った。

 このまま、無力感に苛まれたら、押し流されてしまうと思った。

 しかし、感じることも考えることもやめられない。


 ここは静かな森のはずなのに、周り全てが自分を責めているように錯覚する。

 無力だ。おまえは無力だ。と――、


「仕方がないだろ、俺は、お、俺は……!」


 自分は、ただの中学生でしかないんだ。

 いくら『出戻り』をしたって、本質的な部分は変わらない。

 郷塚賢人であることはやめられない。


「……だからもう、無理なんだ」


 自分だけじゃ無理なんだ。

 もう、変えられない。変われる気がしない。こんな自分を、やめられない。

 こんなにも、自分が嫌いで仕方がないのに。


 誰か、俺を助けてくれ……!


 頭を抱えたまま、賢人は低く呻く。

 だが、森の散歩道には彼以外の姿はなく、彼のかすれた悲鳴を聞く者はいない。


「これから、どうしよ……」


 繰り返される、その呟き。

 もう、アキラ達のところには帰れない。二度と顔を合わせられない。

 自分は、タマキを裏切った。


 なら、どうする。

 これから、どうする。これから、これから……、


「……あはは」


 考えあぐねた末に、出てきたのは笑い声。

 もう、考えるのも面倒になってきた。というか、考えないでもいいんじゃないか。


 そんな自暴自棄が、賢人の頭を占め始める。

 こんな役立たず。どこにも行く場所なんてない。行き止まりのどん詰まりだ。


 だからもう、終わってもいいんじゃないか?

 どこにも行けないなら、生きてたら行けない場所に行くのがいいだろう。


 そう、こんな自分、いっそ死――、


「賢人君!」


 ありえない声が聞こえた。


 こんな場所で聞くはずのない声。あの人の声。

 重い体を鞭打って、賢人はゆっくり顔を上げ、声のした方を見る。


 ――そこに、いた。


「見つけたわ、賢人君。よかった!」


 菅谷真理恵が、そう言って、賢人の方へと駆け寄ってきた。

 嘘だろ、と思った。何の夢だよ、とも思った。

 でも、確かにそこに真理恵はいた。必死な様子で、走ってきている。


「賢人君、よかった!」


 呆然とする賢人を、真理恵は勢いのままに抱きしめる。

 小柄なはずの彼女に、大きく包まれるような感覚が、賢人の全身を襲う。


 それが、あまりにも温かくて、あまりにも優しくて。

 呆けていた彼の瞳に、ジワリと涙がにじむ。


「すがや、さん……」

「大丈夫よ、賢人君。よかった。本当に無事でよかった」


 その言葉と、背中をさする彼女の手に、賢人の顔はクシャリと歪んだ。

 泣くまいと思った。さすがにそれはダサすぎると。だけど、もうダメだった。

 堪えきれない。溢れる。


「すがや、さん……。まりえさん……ッ、ぅ、お、俺、俺ェ……ッッ!」


 縋りつくようにして、賢人は真理恵を抱きしめ返した。

 そして泣いた。泣くしかなかった。もうそれしか、賢人にはできなかった。


「うん、うん、大丈夫よ。大丈夫だからね……」


 優しい手が、泣きわめく賢人の背中をさすってくれる。

 彼女の愛情に触れながら、郷塚賢人は、しばらくの間大声で泣き続けた。


 ――菅谷真理恵は、来てくれた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る