第32話 その呼び方はやめろと異世界でも言っていた

 炎天下という言葉は、まさしくその通りのものだろうと思った。

 八月半ば、灼熱の季節。

 空は強く輝き、道は熱に揺らめき、そこを歩く『僕』の意識は朦朧としていた。


「ガキ、酒買ってこい」


 その一言と共に、小銭を渡されて『僕』だった俺は部屋を追い出された。

 酒を買ってくるまでは何があっても入れてもらえない。

 それを知っていた俺は、とにかく早く酒を買ってこなきゃと焦っていた。


 最寄りの店は、歩いて十五分のコンビニ。

 八月の真っ昼間、気温は三十五度を超える中での十五分は、まさに責め苦だった。


 薄着をしているとか、そんなことは問題にならない。

 流れる汗を止めるすべはなく、日陰に入っても気温は下がるが暑いものは暑い。


 どこに行っても蝉の声が耳をつんざいて、休むこともままならない。

 それでもようやく着いたコンビニに、あの男の好む酒がなかったときの絶望感。


 他の酒を買っていっても、また殴られる。蹴られる。罵られる。

 それをすでに幾度も体験していた俺は、店員に酒の売っている場所を聞いた。


 近くに、商店街があるのだという。

 酒の売ってる店があるから、そこで買えばいい。店員はそう言った。


 場所も聞いた。コンビニから、歩いて十分ほど。

 二度目の絶望感に襲われた。まだここから十分も歩くのか、と。


 仕方なく、俺は商店街を目指して歩きだす。

 空気が熱い。それ自体が炎のようだ。

 炎天下とはまさに言葉の通り、炎が世界を満たす状態なんだ。


 自分は今、炎に焼かれているんだ。

 と、大げさな話だが、そのときの俺は本当にそう思った。

 商店街に着く頃には体力も限界を迎えて、足取りもフラフラだった。


 ――『宙色銀河商店街』。


 着いたそこにはそう書いてあった。

 漢字は読めなかったが、そのとき目にした字の形は今日まで忘れていない。


 商店街の入り口を示すアーチは古くて、塗装も所々剥げていて見すぼらしかった。

 俺はそこを通って、すぐに酒の売ってる店を見つけた。


「お酒……」

「何だい、坊や。どれが欲しいんだい」


 店員のおばさんは優しそうな人で、俺が父親の代わりというと快く売ってくれた。

 そして、俺が酒を受け取ってお代を渡そうとしたとき、気づいた。


 受け取った小銭じゃ、酒を買うのには足りなかった。

 買えないと知った俺を、三度目の絶望感が満たす。泣きそうになってしまった。


 店員に「ごめんなさい」と謝り続けながら、どうするかを考えた。

 すると店員は「いいよ」と言って、金が足りなくても俺にお酒を渡してくれた。

 俺は救われた気分になって礼を言おうとした。


 そのとき、いきなり横からの衝撃に俺は吹き飛ばされた。

 激しい痛みに思考は乱れ、体力を失っていたおかげで視界も白んでしまった。


「何よ、この乞食は! 高橋さん、あなた、こんな乞食に何をしてたの!」


 聞こえる、店員さんとは別の女の人の声。


「ちょっと、理恵さん! 子供に何てことを!?」

「今、見てたわよ。お金もないのにお酒売ろうとしてたわね? 何考えてるの?」


「ちょっと足りなかっただけでしょう? 目くじらを立てるようなことじゃ……」

「バカを言わないで頂戴。うちの商店街で物乞いに恵んでやった、なんて冗談じゃないのよ。乞食は乞食らしく、その辺の公園のゴミ箱でもあさってればいいのよ!」


 ヒステリックな声に、俺は薄い意識の中で『乞食』扱いされたことを知った。


「アハハ、何このガキ、きったな~い、臭いわね~」


 と、そこにまた別の声。それは若い女の声で、俺のすぐ目の前から聞こえてきた。


「乞食のクセにいっちょまえにお買い物? バカね~、あんたみたいな汚いガキは、ウチの商店街の客にはふさわしくないのよ~、あ~、臭い臭い」


 そう言って、声の主は道に倒れた俺に、バケツに入った水をぶっかけてきた。

 手にした酒は取り上げられ、小銭が俺の前にジャリンと放り捨てられる。


「小絵ちゃん! あんた、相手は子供なんだよ!?」

「いいじゃん。こんな暑いんだし、水をかぶって涼しくなったんじゃな~い?」


 りえ、さえ。

 その名前をのどの奥に呟きながら、俺は何とか顔をあげた。


 そこに見える、神経質そうな年を食った女と、ヘラヘラ笑っている若い女の顔。

 一瞬しかわからなかったが、俺はその二人の顔を、己の記憶に焼き付けた。


 そして、俺は小銭を手にして立ち上がり、商店街をあとにした。

 途中、コンビニであの男の注文とは別の酒を買って、帰って殴られた。


 去年の夏の出来事だ。

 今も、しっかり覚えている。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 同じ宙色市でも、俺達が住んでいる地区とは反対側。

 宙色市星海区にあるそこは、北村の雑居ビルよりさらに年代物の建物だった。


「……八重垣やえがき探偵事務所。ここ?」

「そうよ。随分と目立たない場所にあるわよね~」


 ミフユの案内を受けて、俺はそのビルにやってきた。

 場所は、駅近くの繁華街。

 その端っこの一角に、他の建物にまぎれてる三階建ての小さいビル。


 見上げれば、そこに『3F 八重垣探偵事務所』の看板が出ている。

 でも、看板は小さく、宣伝する気ないだろと思う程に景色に溶け込んでいる。


「あ~、この雰囲気、いかにも『あいつ』らしい」

「でしょ? ほら、中に行くわよ」


 俺とミフユはビルの中に入り、階段を上がっていった。

 エレベーターなんて文明の利器は、このビルにはないらしい。ここ日本よね?


「う~ん、小学二年生の俺でもわかる、この昭和っぽい雰囲気」

「あんたって、結構レトロ趣味よね」


 などと話しているうちに三階に到着。

 灰色のドアがあり、すげぇちっちゃく『八重垣探偵事務所』と書かれている。

 本ッ当に目立つ気がないというか、商売っ気が見当たらないな。


「わたしよ~、来たわよ~」


 ミフユが、ドアをノックする。

 ああ、そうですか。インターホンすらないんですか……。


「あ、来たの~?」


 と、ドアの向こうから間延びした緩い女の声。

 声そのものは違うが、その喋り方と声の調子は完全に俺の記憶に合致する。

 まさか『あいつ』がこんなところに――、


 ドンガラゴンガラズンガラガッシャアァァァァァ――――ンッ!


「のきゃあぁ~~~~!?」


 轟音。揺れ。悲鳴。そして静寂。


「…………」

「…………」


 俺とミフユは顔を見合わせる。

 そしてすぐにドアノブを回して、事務所の中へと入っていった。


「おい、大丈夫……」


 中に入った俺達が見たものは、逆さに突き出る生足によるVサインだった。

 部屋中を埋め尽くす、大量のファイル。

 それは、風見家の調査報告書に使われていたものと同じ。


 何故か今はそれが部屋の真ん中に山を作っている。

 そして、その山に上半身を突き刺して下半身を天井に向かせているバカがいる。


 スカートは完全にまくれ上がり、無駄に色っぽい黒のレースパンツがモロ見えだ。

 そして左右の足がピーンッ、と天井へと伸びている。


 何だっけ、犬神家?

 あれを女がやってると想像してもらえればいい。


「積み上げたファイルが崩れたのね、これ……」

「っぽいね~」

「上半身埋まったまま普通に会話に参加してくるな。さっさと出ろや」


 呆れて言うと、ファイルに埋まっていた女が「にゃはは」と笑って抜け出てくる。

 ボサボサの髪に、ズレた分厚い黒縁眼鏡。年齢は二十代半ばくらいか。

 顔は美人で背は高く、肢体は豊満。下着も何故か黒。だが本人に色気一切なし!


「相変わらずだなぁ……、スダレ」


 八重垣簾やえがき すだれこと、俺の三女スダレ・バーンズが、そこにいた。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 新進気鋭の誰も知らない女探偵こと、八重垣簾。

 ミフユがこいつのことを知ったのは全くの偶然だったという。


「わたしの後見人を選ぶにあたって、信頼できる機関をピックアップしてたんだけど、そこに混じってたのよ、八重垣探偵事務所。本当に何となく見つけたわ。って」


 ミフユが、こっちを向いた。


「……わたしの話、聞いてる?」

「わぁ~、本当におパパだ~。ちっちゃいおパパだ~。かぁ~わいぃ~」

「やめろ、やめろスダレ! 抱きつくな、撫で回すな、その呼び方もやめろ!」


 ごめん、話は聞いてるけどリアクションする余裕がないです!


「おママのお話は聞いてたよ~。うんうん、そういう偶然もあるよね? これって必然? 運命? みたいな~。おママがウチを選んでくれたのは本当に運命的だね~」


 ニコニコ笑ってるのんびり口調の美人だけど冴えないお姉さん。

 こいつが、俺の三女であるスダレ・バーンズ。

 異世界で『目にして耳』、『風の便りの受け取り手』と謳われた、最高の密偵だ。


「スダレ、あんた、わたしのこと知ってたでしょ?」

「知ってた~」


 あまりにもスムーズな前言撤回を見た。運命的とは何だったのか。


「でもでも、佐村美芙柚ちゃんがおママなのは知らなかったよ~。ホントだよ~? だから、おママって知って、ウチ、すっごい感激してお祝いにケーキ焼いちゃった」

「そのクセはまだ直ってないんだな……」


 こいつ、何か嬉しいことがあるとすぐケーキ焼くんだ。そして失敗するんだ。


「そのときのケーキには、何を入れたの?」

「え~っとね、メインはチョコとナッツで~、隠し味におでん~」

「どう考えても隠し切れねぇだろ、その隠し味は……」


 普通に料理できるクセに、何故ケーキのときだけは確定メシマズと化すのか……。


「あ~、でだ、スダレ」

「うんうん。知ってるよ~、おパパのターゲットの郷塚母娘のことでしょ~」

「相変わらず話が早くて助かるわ」


 こと、情報に関連する事柄においては、スダレは異世界でも群を抜いていた。

 枡間井未来が『知られたがり』だったように、スダレは異常な『知りたがり』だ。

 情報収集に関して、俺はスダレに全幅の信頼を置いている。


「でもね~、その母娘の調査を引き受ける前に~、調べたいことがあるかな~」

「え、何?」

「昨日の郷塚家のお葬式で起きた、死体消失したのに戻ってきちゃった事件だよ~」


 あ~、あれか~……。

 そういえば、いかにもスダレが好きそうな事件だな、あれ。


「今ね、郷塚家はあの事件の犯人探しに躍起になってるの。繋がりがある芦井組からも大量に人手を借りて、それこそ総動員だよ~。郷塚健司はお怒りだ~。きっと見つかったら、ごーもんごーもんうちくびごくも~ん、だね~。可哀相だ~」

「全然そう思ってないヤツの言う可哀相ほど虚しい言葉もないよな」


 どうせ、俺らがいなくてもこいつはあの事件を調べるのだろう。

 だったら、一緒にいた方がもしかしたら有用な情報が得られるかもしれない。

 ならば、迷うまでもない。


「行くか、現場に?」

「うん、行く~。ウチはね、まだ誰も知らない情報を、誰よりも早く、世界で一番に知るのが大好き~。だからウチはいつか、世界中の未知を既知に変えてやるんだ~」


 そんなうすら怖いことを言いながら、俺の三女は屈託なく笑うのだった。

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