封じ込められていた過去

 上里 椿は至って普通の家庭に生まれた。


 椿の父は一般企業で働いているごく普通のサラリーマンで、母は家で専業主婦をしていた。

 両親の仲は良好で、贅沢は出来なかったものの、十分な衣食住は確保出来ていた。


 椿の母の実家はそれなりに歴史のある家だったようで、母の実家は椿の父との結婚を強く反対していたものの、母はそれを拒否し、実家から逃げて結婚したため、母は実家とは半ば絶縁状態だったらしい。


 母は別に両親のことが嫌いではなかったが、それでも父のことを好きになり、父について行った。

 だが、そのような事情があったからか、母は父によくベタついていたというか、甘えていたというか。

 幸い、依存していたというほど酷いわけではなかった。


 二人は子供を産み、その子供に幸生と名付けた。

 母は実家とは絶縁状態だったとはいえ、父方の両親とは仲が良く、そんなことも忘れるくらいには幸せだった。

 父も貧しくともどこか幸せな生活を送っていた。

 そんな幸せの中に産まれてきた子として、幸生と名付けた。


 父と母、そして愛すべき子供の3人で誰から見ても仲のいい家族として暮らしていた。


 だが、そんな生活は唐突に奪われてしまった。


 幸生が五歳の誕生日の日、父が死んだのだ。

 警察の見解によると、どうやら通り魔に心臓急所を刺されて即死だったそうだ。


 その日は幸生の誕生日だったこともあり、幸生は父の帰りを楽しみにしていたのだが、父は帰ってこず、代わりに父の死亡が伝えられた。

 父は通り魔によって殺害されたと警察に説明され、母はその場で泣き崩れた。

 幸生ももちろん悲しかったが、すぐ側で自分以上に悲しんでいる母を見ると、逆に冷静さを取り戻した。

 幸生がいくら母を慰めても、父の葬式の最中にも母はずっと泣いていた。


 そうして何日も泣いていた母の態度はある日、急変した。


 母は父が死んだ原因の全てを幸生の責任にした。

 もちろんそんなものは言いがかりだが、その時の母にはそんなものは通用しなかった。

 この時派は己の両親とは絶縁状態であるためなんの連絡もコンタクトもなく、それに加え、父の両親は父が死亡する一年ほど前に交通事故で二人とも亡くなってしまっていた。


 母から罵詈暴言を吐き捨てられるうちに、幸生は自分のせいで父が死んだのだと思い始めた。


 母は流石に人前では控えたものの、家に帰り二人きりになると、その憎悪を何のオブラートに包むこともなく幸生へと向けた。


 母は確かに幸生を愛していた。だが、それには父の息子だからというなぜ愛していたのかという理由があったからだ。


 幸生はずっと母にとって父の息子であることには変わりはなかったが、愛していたのは父の息子だからという理由。その母にとって最愛の父を失った今、その失った原因である幸生に憎悪の眼差しを向けることは母にとって正しいことであった。


 当時、五歳の幸生は毎日のように行われる暴力と、吐き出される罵詈雑言にひたすら耐え続けた。


「お前のせいで!」という母の言葉を幸生は完全に納得したわけではなかったが、決して反抗はしなかった。


 反抗しても敵わないというのもあるが、一番はもしかしたら、いつかはあの優しかった母が帰ってくるのではないかと信じていたからだ。

 嫌っていながらも、幸生を殺さないのはまだあの時の優しさが残っているからだと思っていたからだ。


 母にとって、幸生への罰が終われば、鬼のような形相の母も、昔のいつでも優しく微笑んでくれる、そんな母に戻ってくれると信じていたから。


 母の虐待は巧妙で、決して幸生の体に痣などの痕跡を残すようなことはしなかった。幸生もまた、母の為に、口外は決してしなかった。その為、その状態が何年も続いたが、幸いにも誰かに気づかれるということはなかった。


 それでも子供である以上、孤独と心の痛み、母を想う気持ちと寂しさで、幸生の心は限界だった。


 そんなある日だった。警察が家に押しかけてきたのは。


 もちろん何もないのにそんな急に警察が家に押しかけるなんてことは絶対にない。


 幸生は九歳までの間はまだ母が体裁上、親子二人でなんとかやっていってるという様にご近所に振る舞っていたお陰で、なんとか現状をキープしていたに過ぎない。

 だが、幸生が小学三年生としての時間を終え、小学四年生になろうとしていたある日、幸生は父の忘れ形見の一つを、母に殴られた反動で壊してしまった。


 そこから母の行動はエスカレートしてしまった。


 殴る蹴るはもはや日常茶飯事となり、ご飯も以前までは最低でも一食は与えられていたものが、三食抜きなんて珍しくなくなってしまった。

 時には、テーブルの脚に縄で括り付けられ、熱湯をかけられることもあった。


 そしてそれから虐待を受けている時は外に出ることを禁じられ、学校すら行けなくなってしまった。

 外に出ようとした日には、説教という名のより強力な暴力が振るわれることとなった。

 そんな日々がそろそろ1年経とうかという日だった。


 いつまで経っても姿が見えない幸生や、時折聞こえる怒声に不審に思った近所の人がとうとう警察に通報した。

 そして、警察が玄関の前に押し寄せたところで、母はついに最後の一線を越えようとしてしまった。


 母は幸生に包丁を向けたのだった。

 本能的に殺されると悟った幸生は、突き出された包丁からなんとか逃れようとした。

 逃げる途中で見た母の目は、もはやあの時の優しさは残っていなくて、飽和してどろどろになった負の感情で満たされていた。

 そして、とうとうわかってしまった。

 もう、あの頃の日常に戻ることはできないと。

 今まで散々目を背けてきた現実に、この時幸生ははじめて向き合った。

 幸生はなんとかその場から逃げようとするも、日々の虐待で傷ついた幸生の体はそれすら許さなかった。


「あんたが、あんたさえいなければ!」


 実の息子に憎悪と殺意の視線を向け、その瞳を見て幸生の思考はクリアになった。


 その後、幸生は自分でも信じられないような自然な動きで、幸生の体を覆った母から包丁を奪うと、喉を切り裂き、胸に向かって包丁を突き出した。


 その後、幸生はなかなか返事がなかったことに不審に思って強行突破を行った警察に保護された。


 幸生の行いは正当防衛として片付けられた。

 いくら正当防衛とはいえ人殺しは人殺しだ。正当防衛で片付けても良いものか、議論が行われたが、警察は幸生が母に覆い被せられ、殺されそうになっている光景を実は見ていたのだ。

 幸生が母を殺すことを止めるには時間がなかったものの、もし幸生が包丁を奪わなければ母に殺され、もし母を殺さなければ母に包丁を奪い返されるか、首を締められて殺されていただろうと判断され、幸生の行動は正当防衛と判断された。


 その後、幸生は病院に運ばれたが、あまりのショックに記憶を閉ざしてしまったと医師は判断した。


 その後、孤児院に送るのも不安があると言われ、たまたま幸生の家に突入を試みた警察官の一人が、信頼出来る人物がいるといい、その信頼出来る人物に幸生を託した。


 その家族も幸生をことを快く迎え入れたが、記憶を失って、辛い経験をしたのだから新しい家族となると共に名前も新しくしようとなった。

 そして幸生は改名されることとなった。

 名を上里 椿して。



 □■



『これが、君の過去だ』


 己の過去を見てきた椿にバンボラが話しかけた。


『これが君の過去。君の閉ざされた記憶。異世界から来たのも驚きだが、それ以前に凄まじい経験をしてきたんだね』


 悠長にそんなことを言ってくるバンボラだが、今の椿にバンボラに構う気力はなかった。


『それで、どう思った?過去を見て』


「……」


 それを聞いて椿はしばらく考える。


『父は確かに君を愛していたのかとしれないね。だけど、母は本当は君を愛していなかった。君は所詮父の付属品だ』


「……そうだね」


 椿はそう言って静かに目を閉じる。


「けど、僕は……俺は、これでよかったと思ってる」


 椿は最後見ていた。母が最後に何かを呟いていたのを。

 記憶を失う直前は自分への怨嗟だと思っていたが、記憶を取り戻した今、改めて何を言ってるのかを見た。

 ーありがとう、と。


「どこにぶつけたらいいのかわからないあの気持ちを、実の息子に向けていた、向けてしまったことに対しての後悔。実際にそんなことを考えていたのかは知らないが、あの時、確かにそう言っていた」


 もしくははやく死んで父の元に行きたかったが、自ら死ぬ勇気がなくて誰かに殺して欲しかったか。


「母を殺しておいて後悔していないなんてどういうことだよとも思う。日本で見たらただの殺人鬼のセリフだ」


 後悔していようが、していなかろうが、一生背負うことになった十字架。

 だが、今冷静に考えてもおかしなところもある。


「いくら錯乱していようと、大人であるあいつがあんなに簡単に子供に殺されるはずがない。たとえ実は俺に戦闘の才能があったとしてもだ」


 ある程度成長していたとはいえ、小学生の子供が大人から刃物を取り上げてそれを突き出す。

 なぜわざと包丁を取られるようなことをしたのかはわからない。

 もしくは誰かに殺されたかったのかもしれないが。


「真相はもはや誰にもわからない事件だが、少なくとも俺はもう後悔はしていない。俺はもう、迷わずに突き進もうと思う」


 そこに椿の確固たる意志を見てバンボラは納得した。


「なら、これにて君の試練は終了としよう」

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