第56話 一夜明けて


「具合はどうですか?」


 離宮の一室を真誠に宛がうことを瑠庵が許してくれた。

 一夜明け、藤李が真誠の部屋を訪ねると、既に彼は身支度を整えて、長椅子でお茶を飲んでいた。


「悪くないよ」


 いつもと変わらない表情に藤李は安堵する。


 明日から再び多忙な日常がやってくると思うとうんざりするが、死の淵に立ちかけた真誠を見た恐怖に比べれば、戸部の蛇に睨まれながら仕事をする日常の方がマシだ。


「あんなに血が流れたんですよ。一日そこらで良くなるわけないんですから、横になっていて下さい」

「問題ないよ」

「そんなわけないでしょう」


 傷を治しただけで血を増やしたわけじゃない。


 血だって大量に流し過ぎた。

 栄養を取ってしっかりと休んでもらわなければ倒れてしまう。


 藤李の小言を真誠は適当に聞いている。


「そんな所に突っ立ってないでこっちにおいでよ」


 真誠は自分の横を指し、藤李に着席を促す。


 何となく気まずくて向かい側に座ろうとすると、不満そうな視線が飛んでくるので急いで隣に腰を下ろした。


 少し距離を開けて座ると、回された腕に腰を引き寄せられ、身体がぴったりと密着する。


「しょ、尚書っ!」


 近い! 近い! 近い!


 恥ずかしくて顔に熱が集まるのを感じ、藤李は身じろぐ。

 しかし、真誠の腕は緩まるどころか強まり、藤李を離す気はなさそうだ。


「何? 今更。恥ずかしいの?」


 藤李の顔を覗き込んで真誠は言う。


「あ、当たり前です! 私の記憶は断片的なんです! いきなり、あんなこと言われても……」


 昨日、真誠の口から語られたのは藤李達の前世の記憶だ。


 藤李は生まれながらにして類稀なる力を持った法術使いの姫だった。


 しかし、それ故に藤李を狙う者も多く、何かを機会に知り合った鈴羽が藤李に歪んだ執着を見せ、二人きりになった際に結婚を迫り、拒絶した藤李を呪術の掛かった剣で刺し殺した。


 真誠がそのことに気付き、駆け付けた時にはもう遅く、藤李は息絶える寸前だった。


 そのことは断片的な記憶ではあるが、藤李も覚えている。


 そして真誠が自身の命と引き換えに藤李と真誠の魂を結び付け、この世に回帰する呪術を施した。


 藤李の力を封じたのは強力な法力を持つ藤李を狙う者達から隠すためだと言う。


 神獣白虎の言う通り、真誠は藤李の力を完全に封じることは出来ず、少しの治癒術が使える半端な状態になったのだ。


「君が僕を望んだのに、覚えてないの?」

「み……身に覚えが……」


 ない、と言ったら嘘になる気がする。


 真誠が自身を犠牲にしてまで藤李に呪印を刻んだ理由については藤李が望んだから、と真誠は答えた。


 確かに、夢の中で藤李は生まれ変われたならば、また彼の側にいたいと願っていた。

 そして、彼から深く愛された記憶もある。


 しかし、それも断片的な記憶でしかなく、はっきり覚えているわけではない。


「ふーん。まぁ、いいけど。別に思い出さなくても良いよ。過去が全てじゃない。僕もはっきり覚えていることは多くないからね」


 そう言って真誠は藤李の髪を撫でる。


 その優しい手つきと伝わってくる温もりが懐かしく心地良いものに感じる。

 視線が絡まれば、その甘い眼差しに心臓が跳ねる。


「僕は今の君が気に入ってるからね。過去の記憶は大した問題じゃない」

「……気に入ってくれてるんですか? 過去の私じゃなくて?」


「正直、過去の君にどれほどの感情を抱いていたのかまではよく分からないんだ。客観的に言えば死んでまで君の魂を繋ぎとめる価値が過去の君にあったのかは疑問」


 第三者の視点から見ればかなりの奇行だ、と真誠は言う。


 そう言われると藤李は何も言えない。


「でも、今の君にはそれぐらいしてあげても良い気がする。普段は冷静なのに、僕のことになると頭に血が上って連樹や芙陽、陛下にまで噛みついたりする君は可愛いと思うし、他人を助けるために無茶をする所も、出来ればやめて欲しいけど君らしくて良いと思う。僕はそういう今の君が気に入っている」


 真誠が甘い声で藤李の耳元で囁くものだから、藤李は顔だけじゃなく身体が熱くなる。


「それに僕を慕って、僕のために泣く君って堪らない。芙陽に嫉妬して拗ねる君も」

「お願いだからもう止めてください」


 恥ずかしい事実を羅列され、藤李は顔から火が出そうだった。


 芙陽に嫉妬していたことを見抜かれていたとは思わなかった。


 薄々、彼女に対して嫉妬していたことには気付いていた。

 自分は小間使いとしてしか側にいることが許されないのに、芙陽は婚約者として、女性として彼の隣に立つことが出来る。そう思うと羨ましくて仕方なかった。


 羨む藤李の目の前で真誠を呪印持ちだと罵 り、蔑み、侮辱する芙陽が許せなかった。


 せめて、真誠の素晴らしさを理解し、彼を慕う女性であれば藤李はあんな風に我を忘れて怒り狂うことはなかっただろう。


「大事なのは今だ。過去を無理に思い出す必要はないよ」


 髪から滑るように頬に手を添えて真誠は親指の腹で藤李のふっくらとした唇を撫でる。


 何かを期待しているような真誠の艶っぽい視線を受けて、藤李は顔を真っ赤にしたまま硬直した。


「消えちゃったね。守印」


 真誠の視線が胸元に落とされる。

 鈴羽に刺され、力が弱まった際に効力を失い、消えてしまったのだ。


「付け直していい?」

「ダメです。身体に負担が掛かり過ぎます」


 訪ねる真誠に藤李は答える。


「それに、もう法力も普通に使えるんですから、わざわざ守印がなくても自分の身ぐらい自分で……」


 力を取り戻した藤李は大体の法術を使うことが出来る。


 属性に縛られない、稀な術師であった藤李であれば守印は必要ない。

 自信たっぷりに言う藤李を見て、真誠は溜息をつく。


「何言ってるの? 使えないよ」

「えぇっ⁉ どうしてですか⁉」


 藤李は衝撃的な言葉に真誠にしがみついて問い質す。


「君の法力は僕の呪印が弱まったから使えたんだよ。僕の力が元に戻れば呪印も元の強さを取り戻すに決まってるでしょ」


 だから、今はもう使えないよ、と真誠は告げる。


「そ……そんな……」


 がっくりと藤李は肩を落とす。


 法術が使えれば何もできない無力な自分から解放されると思っていたのに。


「僕がいるんだから、法力なんて必要ないでしょ」

「でも……」


 不満を顔に出す藤李に真誠はぐいっと藤李の顎に指を掛け、上を向かせた。

 深い緑色の瞳が藤李を捕らえる。


「君が僕から離れなければ問題ないよ。それとも……」


 眉間にしわを寄せ、不機嫌そうな顔で真誠は言う。

 その美しい瞳の奥に激しい感情が揺れて見えた。


「君は僕から離れたいの?」


 縋るような声で問いかける真誠に藤李は戸惑う。


「べ、別に……離れたいだなんて、そんなことはない……です」

「本当に?」

「本当です」


 訝し気に首を傾げる真誠に藤李は答える。


 いたたまれない……。


 顔を押さえられている状態で藤李は視線だけ逸らした。


「…………信じられない。君、そういえば噓つきだったね」

「本当です! 信じてくだ……いっっ⁉」


 藤李の顔かた真誠の手が離れたと思った瞬間、真誠が藤李の首筋に噛みついた。

 顔が離れるとすぐに肌がちりちりと焼けるような痛みが起こり、藤李は首筋を押さえる。


 そして、はっと気付いた。


 先日、胸に真誠の守印を刻まれた時の感覚と似ている。


 真誠に視線を向けると何故か満足そうな顔を醸し出していた。

 まさかと思い、慌てて壁に掛けられた鏡に駆け寄る。


 鏡を見ると首筋に赤い花が咲いている。

 一度消えたはずの尚書の守印が首筋に移った。


 鏡に映る真誠がふんと、鼻を鳴らしている。


「尚書っ⁉」


 藤李は真誠に向き直る。


 どういうつもりなの⁉


 守印は身体の負担になるから要らないと言っただけだ。

 なのに何故、再び藤李に守印を刻むのか。


「仕方ないでしょ。君、嘘つきなんだから」


 そう言われるとぐうの音も出ない。


 藤李は嘘を重ね過ぎて白家のみんなを混乱させ、真誠の信用がない。


 真誠は長椅子から腰を上げ、ゆっくりと藤李に歩み寄る。

 ふわりと真誠の衣が舞い、藤李を腕の中に囲い込む。


 爽やかで少しだけ甘い香が真誠の匂いと混ざり合い、心臓が跳ねた。

 いつまでもこうしていたいと思う芳しさと真誠の温もりに藤李はうっとりと目を細める。 


「で、君は僕から本当は離れたいの? 解呪されたい?」


 この守印がある限り、藤李は真誠の前では嘘がつけない。


「っ……離れたくないし、解呪も望んでませんよっ」


 真誠の胸に頬を寄せたまま藤李はぶっきらぼうに言う。


「当然だよね。今更、離れるなんて許さないよ」


 藤李を抱きしめる腕の力が強くなる。

 痛いぐらいに強く抱きすくめられ、少しばかり息苦しい。


 まだ、思い出せないことも多い。


 もしかしたら、思い出すこともないかもしれない。


 けれども、真誠の言う通り、大事なのは過去じゃなくて今だ。


 これから、彼のことをもっと知りたい、もっと彼の近くにいたいと思う気持ちも過去の彼ではなく今目の前にいる彼に今の私が抱く感情だ。


 過去は関係ない、私は今、この時間を共に過ごしているこの人が愛おしいのだから。



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