第45話 女の口喧嘩
この子は僕の息の根を止めようとしているのだろうか。
真誠は内心で腕の中で眠る藤李に毒づく。
いきなり視界から消えだと思えば、白虎の足元に倒れている。
一瞬、目を離したがために、藤李が死んでしまったのかと錯覚し、自分も生きた心地がしなかった。
しかし神獣によれば法力を供給して倒れただけで少し休めば回復するという。
それからすぐに『竜は好かぬ』と言って聖域の外に弾き出されてしまった。
そしてぐったりと意識を失った藤李を横抱きにして屋敷に戻ってきたのである。
時折、身じろぐが覚醒の気配はない。
休ませるため、廊下を歩いていると会いたくもない人物と遭遇してしまった。
屋敷に滞在中の芙陽である。
相変わらず、派手な色味の、露出の多い服装、強すぎる香の匂い、どれをとっても不愉快だ。
鼻が曲がりそうなほど強烈な香が辺りに充満し、真誠は顔を顰める。
「どうにも懲りないようですわね! 婚約者の前で女を抱いているなんて!」
相手は目を吊り上げて金切り声を上げ始めた。
抱いているというか、運んでいるだけだ。
「落ち着いて下さいませ、姫様。これは旦那様に後ほど報告して、それから対応を……」
「堂々と余所の女を連れ込まれて、黙っていられるわけないでしょう⁉」
侍女が宥めるも、芙陽は聞く耳を持たない。
やめて欲しい。藤李が起きる……。
早くゆっくり休ませてあげたいのに、厄介な者に捕まってしまった。
部屋の準備をするからと、獏斗を先に行かせてしまったのが悪かった。
生気のない顔で眠る藤李はまるで死人のようで、見れば見るほど心配で落ち着かない。
早く休ませなくてはと思うのに真誠の行く手を芙陽が阻む。
「一体、どういうつもりですの⁉」
「彼女は仕事をしに来てもらったんだよ。役目を終えて疲れてるんだ。休ませたいからそこを退いてくれる?」
「嘘言わないでっ!」
本当のことだが、芙陽は納得するはずがなく、余計に激しく憤る。
「あぁ、でもそうね、身体を使って男性を慰める仕事も世の中には多くありますものね。疲れて意識を失うほど激しかったのかしら」
下品な言葉を躊躇いもなく口にして芙陽は藤李を蔑む目で見る。
「随分と下品な発想だね」
不愉快だな。
どうにも自身のことは慣れているのでどうでもいいが、藤李のことを好き勝手に言われると腹が立つ。
真誠は苛立ちを覚えたと同時に、腕の中に違和感を覚えた。
「耳元でぎゃーぎゃー、煩いんですよ」
腕の中から血を這うような声がした。
目を覚ました藤李が青白い顔で不機嫌そうに顔を歪め、言い放った。
下ろせと視線で訴えられ、真誠は慎重に藤李を下ろした。
しかし、自力で立つのがやっとな藤李は非常に見ていて危なっかしい。
今にも床に激突しそうなくらいふらふらしている。
身体を支えようと手を出すと、ぺちっと小さく払われた。
手は借りない、ということだろうか。
こういうところは生意気で可愛げがないと思う。
「芙陽姫、以前にも申し上げましたが、私はこの方の愛人ではありません。この方は私の上司です」
芙陽を見据えてはっきりと告げる藤李の表情は苦し気である。
今にも倒れそうで気が気じゃない。
しかも、上司って言わない方が良いんじゃない?
女の格好で上司だと言っても疑問に思うだけだ。
政は男にのみ許される。
藤李は今、極度の疲労で男装している自分と本来の自分の立場を混同してしまっている。
男装している藤李であれば芙陽も納得たかもしれない。
しかし男装していたらこんな問答はそもそも起こっていないな、と改めて思う。
「上司ですって? だったら尚更、怪しいじゃない。仕事と称して人目を忍ばなくても、堂々と逢引きが楽しめるものね!」
「うちの上司は多忙なんですよ、相手が誰であろうが仕事中に逢引きしてる暇なんてありません!」
藤李は青白い顔で芙陽に言う。
真誠の目の前で女の口喧嘩は次第に激しさを増していく。
「そんなに忙しいわけないわ。お父様が言っていたもの。官職に就けば楽をして高い給金が支払われるから気楽だって。そんな官職に若い頃から就いている誰かはろくに仕事も出来ないだろうってね。貴女、知っていて? その男は呪印持ちよ。親の七光りがあったから尚書位に就けたんでしょうね。何で私がこんな気味の悪い呪印持ちの、節操のない男と婚約しなきゃならないのかしら」
おぞましい、と芙陽は最後に口にする。
この手の陰口や嫌味は数えきれないほど言われてきた。
今更、傷付くこともないし、言い返す気も起きない。
相手にしないのが一番だ。
真誠であれば相手にしない。しかし藤李はそうではなかった。
そばでぶつっと何かが切れる音がした気がする。
「何も知らないくせに勝手なこと言わないで!」
荒げた声に芙陽は呆気に取られ、固まっている。
突然の出来事で真誠も少しばかり驚いた。
その熱量に圧倒される。
しかし、そういえば彼女はいつもそうだったと思い出す。
「毎日毎日、誰よりも早く出仕してほとんど休憩しないまま遅くまで働いてるのよ⁉ 仕事が出来ない⁉ 馬鹿言わないで! 仕事が出来過ぎるから沢山の仕事が任されるのよ! それに陛下は親の七光りで使えない奴を官職に就かせるような能無しじゃないわ。尚書はその有能さから選ばれるべくして選ばれたのよ。彼の能力が認められたから今の地位があるのよ!」
藤李の凛とした声が廊下に響き渡る。
真誠ははっきりと主張する藤李の横顔を見つめ、胸の中に広がる温かい何かに胸を震わせた。
「それに呪印、呪印、煩いのよ! 呪印があるから何だっていうのよ⁉ 誰かに迷惑かけた⁉ 何で噂を真に受けて相手の本質を知ろうともしないの? 婚約者なんでしょ? そう思えば、貴女に尚書は勿体ないわね。この人はね、麗しくて口が悪いだけじゃないのよ。とっても有能で思慮深くて優しい人なんだから!」
真誠を指して貶しているのか褒めているのか混乱を招く言葉を吐き出す。
幼い頃から呪印持ちであることを理由に疎まれ、蔑まれ、その度に堪えて、自分の力で跳ね返してきた。
しかし、こびりついた嘲りの声の数々はそうそう消えてはくれない。
だが、藤李は今の一瞬でそれらの声を掻き消してくれた。
彼女のその言葉に、今までの自分が報われた気がした。
「うちの上司は……」
まだ続くのかと思いきや、藤李の身体が大きく傾く。
真誠は床に激突する前に藤李の身体に腕を伸ばし、身体を支える。
しかし、再びぺしっと手を払われる。
挙句、眉間にしわを寄せて真誠をねめつけるた。
「貴方も貴方ですよ、尚書。私のことなど獏斗に任せておけばいいんです。婚約者の目の前で誤解を招くことをしないで下さい。婚約者に対して失礼なのは二人とも一緒です」
青白く生気のない顔で生意気に自分を睨む藤李に真誠は呆れて溜息をつく。
上司たる僕に人前で説教か。
こういうところは本当に生意気。
文句もあるが、面白いものを見れたことだし、ここは折れてあげよう。
一語一句違わぬ彼女の台詞に真誠は懐かしさと新鮮さが織り交ざる。
「分かったよ。婚約者殿に対する非礼は詫びよう。獏斗」
柱の陰からこちらの様子を伺っていた獏斗を呼びつける。
気まずそうな顔をしてそろそろと出てきた。
「彼女を駿家に送る。馬車を用意して。それまで部屋で休ませて」
「畏まりました」
獏斗が藤李を抱えてこの場から連れ出そうとする。
「待ちなさいよっ! この私に説教するなんて、何様のつもりなの⁉ その無礼な女、こちらに寄越しなさい!」
芙陽の腕が藤李に向かって伸ばされる。
「きゃあっ」
芙陽の腕が誰かに押さえつけられていた。
「白尚書、邪魔するぞ」
「離しなさい! この無礼もの!」
怒鳴り散らす芙陽の腕を押さえつけているのは央玲だった。
後ろには百合の姿があり、百合に通されたと思われる。
「無礼はどっちだ。この女はお前のような者が手を上げていい相手じゃない」
央玲が凄むと、芙陽は一瞬、震え上がった。
獏斗に支えられる藤李と芙陽の間に割って入り、獏斗に藤李を連れていくように促し、芙陽を牽制する。
「っ……ど、どこの誰だか知らないけど、許さないわよ!」
顔を真っ赤に染めて、真誠と央玲を睨みつけ、芙陽は踵を返す。
その後ろを侍女が追い、姿が見えなくなる頃、ようやく皆が肩の力を抜いた。
「なかなか苛烈な婚約者だな」
同情的な視線を感じ、真誠は溜息をついた。
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