第42話 森の奥へ

 ぐしゃっと手紙を握りしめ、芙陽は怒りで身体を震わせていた。


「何なのよ! あの男っ! 少し見目が良いからって、何でも許されると思っているの⁉」 

「姫様、落ち着いてくださいまし」

「この私に恥をかかせたのよ⁉ 落ち着いていられるわけないでしょ⁉」


 宥める侍女を怒鳴りつけても怒りは収まらない。


 匿名で届いた文を開けば、記されていた婚約者の遊興についてだ。

 高級妓楼で女を買い、朝まで楽しんだ旨が書かれていた。


「呪い持ちの分際で、私との婚約が持ち上がっただけでもありがたい話なのに」


 いずれば王妃となるこの私。


 一時でも私の婚約者になれたことを光栄に思わなければならない、呪印持ちのくせに!


 あの麗しい見目で、もし従順になるというなら傍に置くことも考えた。

 しかし、私を敬うどころか、蔑ろにし、挙句、私に嚙みついた。


 芙陽は一度はぐしゃぐしゃにした文を広げて最後の一文を注視し、ほくそ笑む。


『婚約者が気に入らなければ、手を貸そう』


 最後の一文にはそう書かれている。


「許さないわよ……白真誠!」


 憎悪の籠った声で芙陽は婚約者の名を口にする。


「それから、相手の女もよ。人の物に手を出すとどうなるか、教えてあげなくてわ」

 







 藤李は草木を搔き分けて森の中を奥へと進んでいた。

 晴れていても木々が覆い茂る森のひんやりと冷たい。


 白家の敷地内から隣接する森を奥へ奥へと進み、間もなく聖域に近い場所に着く頃だ。


 赤州と白州の狭間で虎の密猟が行われていると情報を得ている。

 その場所へと向かっていた。


「足元気をつけてよ」


 真誠が呟くように言った言葉は藤李に向けられている。


「はい、大丈夫で……うわっ!」


 足元の大きな木の根に躓き、藤李の身体が前のめりに倒れそうになる。


 ぼすっと衣の間から空気の漏れる音がして気付けば真誠にぶつかっていた。


 爽やかで少しだけ甘さを感じる香が藤李の鼻孔を抜け、身体に回された腕の逞しさに心臓が跳ねる。


 藤李の身体を受け止めて、その後、わざとらしいほど大きな溜息をつく。


「君、もしかして耳が聞こえてないのかな?」


 返事をしたのだから聞こえているに決まっている。

 嫌味を言う真誠からそっと身を離し、笑顔を張り付けて口を開いた。


「すみません、蚊の鳴く音に負けて尚書の声がよく聞こえませんでした」


 実際、蚊の飛ぶ季節ではないので蚊はいない。


 もっと早く、大きな声で言ってくれれば良かったのだ。


 真誠の嫌味を藤李が嫌味で返す様子を冷や汗をかきながら獏斗と雪斗が見ている。


 藤李は獏斗に連れられて白家を訪れた。


『随分、遅かったね』


 到着して早々、棘のある口調で真誠は言った。


 正直、馬車の中で獏斗から語られたことが今でも信じられない。


 白家の侍女、百合は過去と未来を視ることができるという。

 誰の未来や過去も好き勝手に視ることができるわけではないようだが、時折、意図せぬところで視える光景は必ずと的中すると聞いた。


 百合が視たのは真誠の死だ。


 女性を庇い、血まみれになり倒れる真誠の姿だという。

 その女性は黒い髪を振り乱し、泣きながら真誠の名を叫ぶ場面らしい。


 真誠が庇った女性が藤李ではないか、というのが獏斗をはじめとする白家の考えのようだ。


 女性の胸元には守印があり、真誠が守印を刻んだ女性が他にいないことからその女性が藤李である可能性が極めて高いそうだ。


『あの人が守印を送るぐらいだから特別に好意がある女性に違いない』


 そう思って必死なり、真誠が髪紐を贈った女性を探していたと獏斗は言う。


 今までに女性へ贈物一つしたことのない男が初めて髪紐を贈った。


 その人物が後に真誠が身を挺して庇う特別な女性ではないかと考えたようだ。


 髪紐も守印もそんな大層な理由で受け取ったわけではないけどね。

 藤李は心の中で期待に沿えず、ごめんっと謝罪をした。


 髪紐はたまたま見た藤李の珍舞が面白かったから。守印は使い勝手のいい小間使いを失いたくないからだとはっきりしている。


 藤李は小さく息をつく。


「大丈夫?」


 歩調の遅くなった藤李を気にして真誠が振り返る。


 貴方こそ大丈夫なのか、昨日吐血してたじゃん、と言いたくなるがぐっと言葉を飲み込む。


「大丈夫です、すみません。急ぎます」


 そう言って三人に遅れないように歩調を速める。


 やはり、この人が近々死ぬかもしれないなんて思えない。

 藤李は少し前を歩く真誠を盗み見て、そう思う。


 獏斗は藤李が危険な目に遭わないよう白家に留まって欲しいと言った。


 しかし、藤李を庇って真誠が負傷する未来なのであれば藤李を真誠から遠ざけた方がいいのではないだろうか?


『それでは貴女の身が危ない』と獏斗は言う。

『主が特別に想う女性を危険に晒すわけにはいかない』とも言った。


 何だか期待の込められた眼差しで見つめられ、馬車の中での居心地は悪かった。


 そんな甘酸っぱい理由じゃないんだってば。

 尚書には大事にしている婚約者がいるじゃないの。


 二人が接吻していたところを思い出して、藤李は胸の中がもやもやする。


 婚約者を差し置いて、私なんかに守印を刻んで大丈夫なのだろうか。

 私よりも芙陽の方がよっぽど守印が必要な気がする。何となく、敵が多そうだし。


 藤李は婚約者のいる男性と行動を共にすること自体、気が進まないのだ。


 自分が芙陽の立場だったら気になって仕方がないから。


 藤李の心の声は口から出ることはないが、複雑な心境は眉間のしわに現れている。


 とにかく、藤李に危害を加えようとする者がいるのだ。


 その者が結果として尚書の命を奪うことになるのよね。


 藤李がすぐさま頭に思い浮かべたのは芙陽である。

 しかし、彼女が藤李を殺したいほど憎んでいるのかといえば疑問だ。


 すると、先頭を歩く獏斗が足を止めた。

 音なく、誰かがこちらに向かってくる。


「若様」


 そう言って膝を着いたのは黒装束の男だ。


「どう?」

「捕らえられていた子供達は助け出しました。見張りの男達も捕縛済みですが、主犯はおりませんでした」


 真誠の言葉に男は答える。


 子供を助け出せたことに藤李は心底、安堵した。


「虎は?」

「五頭ほど繋がれておりますが……額に法力石があり、凶暴化している虎と大人しすぎる虎がいます」

「分かった。子供達に法力石は?」

「全て取り上げました」


 その言葉に真誠は頷く。


 宇凛と同じように自我を奪われた虎と白家の敷地で遭遇した凶暴化した虎のことを思い出す。


 法力石が及ぼす影響は二通りあるとこの報告から推測される。


「行くよ。君の出番だ」


 そう言って真誠は藤李に視線を向ける。

 藤李は頷き、虎の元へと向かった。

 

 

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