第40話 昨夜の余韻

 藤李が駿家で朝を迎える時刻、真誠も白家の自室で朝を迎えていた。


 昨晩のように吐血の気配も胸痛もなく、特に異常は認められない。

 強いて言えば胸が落ち着かいことぐらいだ。


 真誠は昨夜の藤李のことを思い出す。


 あの部屋に踏み入った時に目に飛び込んできた光景を見て、真誠は一瞬だけ心臓の鼓動が消えたと思う。


 首を絞められてもがき、顔は赤く腫れて、自分がいない間に起こったであろう出来事を想像し、目の前が真っ白になった。


 大事にならなくて良かったが、もしも自分があの場にいなかったらと思うと、ぞっとして背筋が寒くなる。


 それなのに、彼女にはあまり響いている様子がなく、少しキツイ言い方になったのは仕方ないと思う。


 天樂という男をただで済ますつもりはないが、藤李にもちゃんと、自分の行動がどれだけ危険なものだったのか反省してもらわないといけない。


 そう思って叱ったのに、どうにも彼女が泣くとどうしようもなく、胸が騒ぐ。

 すぐにでも流れる涙を止めてあげたいと、そんな風に思うのだ。


 もしも、もっと違う理由で流れた涙であれば、自分は意地悪く、その涙が流れ落ちる様を楽しめると思うが。


 そもそも、怖いもの知らずだし、無鉄砲過ぎるのでは?


 話を聞けば、見習い妓女を助けるために一人で危険な男に対峙したというし、人攫いの件にしろ、虎の件にしろ、他人のためにすぐに行動できる点は彼女の美点だ。


 だけどそれは自身の身の安全を確保してからにして欲しい。

 肝心の紫央玲と金貸しは役立たず。

 これじゃあ、目が離せない。


 だけど、男除けに関しては効果はあった。


 艶やかで黒い髪、小さい顔に活力を感じる大きく煌めく瞳、ふっくらとした唇、どれをとってもそこらの女に負けることはない。


 あぁ、でも身体は凹凸が少ないかもね。


 それを差し引いても、彼女は男の目と興味を惹きつけるだろう。

 彼女を色目で見るような男の目に入らなかったことだけは良かったと言える。


「やはり、白が似合う」


 白い絹の長裙と長衣はとても美しく、彼女の黒髪と白い肌を際立たせていた。


 どうせ着せるならば白家の白だ。

 想像した以上によく似合っていたことが喜ばしい。


 そんなことを考えていると寝室の扉が控えめに叩かれる。


「ご気分は如何ですか?」

「悪くはないよ」


 身体を起こして寝台を降り、真誠は入室してきた獏斗の問いに答える。


「それで、どこまで吐いた?」

「あの天楽という男は魯雁という男の指示で虎の密猟を行っていたようです。天樂が中心となって虎を捕まえ、売買は魯雁が行っていたそうで、その利益を天樂は受け取っていたと」


 獏斗は続ける。


「それから……身重の女性や子供を虎をおびき寄せるための餌として利用していたそうです」


 苦渋の表情を浮かべて獏斗は言う。


「そう」


 まさか、本当に人攫いが関わっていたとは思わなかったな。

 これでおおよそ、藤李の推測通りになった。


 こうなると、彼女が人攫いを追いかけ回して捕まえた一件が布石だったように思えてくる。


「魯雁という男の素性は?」

「魯雁は偽名で素性は若様の読み通りでした」

「そう」

「驚かないのですか?」


 特別、表情を変えず関心がなさそうに返事をする真誠に不思議そうな顔で獏斗は訊ねた。


「ほとんど変わりないからね」

「?」


 真誠は答えるが獏斗は首を傾げる。


「場所は特定できたの?」

「はい。いつでも乗り込めますが」


 汗っぽくなった寝巻を脱ぎ、獏斗から渡された服に袖を通す。

 すると廊下から慌ただしく誰かの足音が聞こえてくる。


『お待ちくださいっ』と誰かの制止の声を振り切り、寝室の扉が乱暴に開かれた。


「真誠様! これは一体、どういうことですの⁉」


 許可なく寝室に押し入って来たのは芙陽だった。

 付き人は主人を愚行を止めきれずに項垂れ、気まずそうにしている。


「朝っぱらから騒がしいね」

「どういうことですの⁉ 姿が見えないと思っていたらまさか娼館に行っていたなんて! 婚約者である私がいるのですよ⁉」


 顔を真っ赤にして憤慨する芙陽は真誠に向かって怒鳴る。

 その手元には一枚の文が握りしめられている。


 楼主には口止めしておいたけど、どこからか情報が漏れたようだ。


 漏洩元はおおよそ検討がついているけど。


「しかも、大枚叩いて女を買ったというではありませんか」


 目元を釣り上げて芙陽は真誠を睨みつける。


「娼館に行ったらそれが普通だけどね」


 妓楼九蘭を娼館というには語弊がある。あそこはもちろん色も売るが、色よりも妓を売る場。上客であっても簡単に色は売らない。


『女を買った』という意味が『女と寝た』という意味で芙陽が使っているのであれば本来なら訂正する必要がある。事実ではないからだ。


 しかし、もう敢えて訂正する必要もない。


「婚約者がいるのですよ⁉ それなのに女を買うなんて勝手が過ぎるわ……!」


 憤る芙陽を前に真誠は大きく息をついた。


「何? ひょっとして、僕に抱かれたかったの?」

「なっ……何を言って…………ひっ」


 真誠が芙陽に向き直ると着替え途中で晒された肌に浮き上がった黒い呪印が芙陽の目に飛び込む。


 呪印を見た芙陽は分かりやすく嫌悪感を顕わにして、後ずさる。


「あれ、知ってたんじゃないの? 僕に呪印があること。呪印持ちの男は嫌だと、呪いが移って不幸になると影で散々罵っていたのに。それなのに僕に接吻を要求したり、他の女に嫉妬するのは勝手が過ぎるんじゃない?」


 絶句する芙陽におかしそうに言いながら真誠はわざと見せつけるように晒した呪印を服に仕舞う。


「出てってくれる?」


 突き放すような一言と共に一瞥すると、怒りで身体を震わせた芙陽は背を向ける。


「汚らわしいっ」


 そう吐き捨てて芙陽は部屋を出て行った。


 足音が聞こえなくなる頃には身支度を終え、机に向かって筆を執る。

 白い紙にすらすらと形の整った文字が綴られ、乾いたことを確認してから折り畳む。


「獏斗、すぐにこれを持って駿家に行って」


 真誠は文を獏斗に手渡す。


「畏まりました」

「そのまま藤李を連れてきて。君が行くんだよ、いいね?」


 下男に頼まず自分で行くようにと念を押され、獏斗は少しだけ緊張した面持ちで頷く。


「しかし、何故藤李さんを?」

「法力石を埋め込まれた虎や子供がいたら彼女の微弱な法力でないと。僕が壊すと死ぬかもしれないからね」


 真誠の言葉に納得した様子で獏斗は部屋を出た。

 一人残った真誠は部屋の窓を開け放ち、朝の清々しい空気を部屋に取り込んだ。


『そんな人じゃない』


 理由ものなく人を呪うような人ではないと藤李は言った。


「何も覚えていないくせに」


 真誠はぽつりと呟く。


 大して自分を知らない藤李が何故、こんなにも自分についてはっきりと断言できるのか不思議でならない。


 真っすぐに自分を見つめる瞳は純粋で陰りがなく、自分を信じ切っているのだ。

 そんな眼差しにどうしようもなく心が搔き乱される。


「その純粋さが仇になったわけだ。僕もよく分かってないけど」


 きっと、だから君は縛られたんだよ。


 窓から流れ込む冷たい春の風が頬を撫で、風に運ばれてきた椿の花弁が手元に落ちた。


 吐血した自分にぴったりと寄り添う彼女の身体は思った以上にちゃんと女性らしく、柔らかさを感じたことを思い出す。


手元にひらりと落ちた赤い肉厚の花弁が昨晩の着飾った彼女の唇のように思えて艶めかしく、真誠はおもむろに自身の唇を押し当てた。

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