第34話 説教

 身体が怠い。


 瞼が重く、疲労で身体から力が抜けるような感覚に襲われる。

 顔にぬるいお湯に浸した手巾が当てられ、何度も顔を擦られる。


 自分で出来ると言いたくても、声を出すのも億劫なほど、疲れていた。

 湿った手巾で髪を拭かれ、椿油で艶を出し、櫛で髪を梳かれた。


「藤李、藤李、大丈夫?」


 声を掛けてくれるのは夏葉だ。


 さっきから甲斐甲斐しく世話をしてくれるのに藤李は返事もろくに出来ていない。

 何とか頷くのが精一杯だった。

 心配そうな表情の夏葉にぎこちなく笑みを作る。


「ありがとうございます」


 ゆっくり身体を長椅子から起こす。


「着替えられる?」


 藤李は頷く。


 夏葉から差し出されたのは白い上質な絹の衣だった。吊帯の長裙で肩に掛かる細い帯は濃い緑色、裾には金糸の刺繍をあしらい、肌触りが良く、軽やかだ。

腰の帯も深い緑色で飾り紐の鮮やかな青色は美しく、緑色の帯と共に白い衣によく映える。


 鈍い動きで袖を通し、帯を締めるのは手伝ってもらった。


 宇凜の法力石を破壊しただけなのに、酷い疲労感で一杯だ。

 眠気は多少良くなったが、身体が酷く怠い。


「髪は何もしないでって言われてるからこのままにするね」

「ありがとうございます、手伝ってくれて」


 誰に?


 という疑問が浮かぶが大して気に留めず、夏葉にお礼だけ言う。

 何とか着替えを済ませて、用意された靴を履く。


「藤李、何でこんなに綺麗なのに隠してたの?」


 その問いには苦笑いで誤魔化す。


「待っててね」


 そう言って夏葉は汚れた手巾と桶を手に部屋を出た。


 藤李は二人掛けの広い椅子に再び横になる。


「話さないと……」


 さっき見聞きしたことを尚書に報告しなければ。

 そう思うのに動けない。


 横になると再び眠気が襲って来る。


「くたばった?」


 聞き慣れた声が上から降ってくる。


「くたばってません」


 嫌味っぽい言い方に藤李は条件反射のように応えた。


 そこにいたのは白い外套を頭から被った真誠である。

 身体を起こそうとするが、腕に力が入らない。


「弱った虫みたいな動きだね」

「誰が死に掛けの虫ですかっ!」


 失礼な人だな、もうっ!


 藤李は顔だけ動かして真誠を睨む。

 すると急に脇に手が入り、身体が浮き上がる。



「きゃっ」


 突然の浮遊感に藤李は小さく悲鳴を上げる。


「そんな状態になるの分かってるくせに何で法力使うわけ?」


 藤李を抱き上げて真誠は歩き出す。


 また俵担ぎかと思いきや、横抱きにされている。

 藤李は落ちないように反射的に真誠の首に腕を回した。


「僕の首絞めないでよ」


「締めませんっ! 心配なら降ろして下さい」


 しかし真誠は藤李の言葉を無視して廊下を進む。

 廊下に出ていた妓女達が何事かと、視線を向けてくる。


 ただでさえ、頭から外套を被ったまま店内をうろついている不審者で注目が集まっているというのに、こんな風に女を抱いて廊下を歩いているのだから視線が集まるのも無理はない。


「お願いですから、降ろして下さい。報告したいことも……」

「後で良いって言ったでしょ。手当が先」


 顔に塗っていたそばかすと泥を落とし、ようやく腫れた顔を冷やすことが出来た。

 着替えるまでの間に夏葉が冷やしていてくれたので、かなり楽になっている。


「痛い?」

「大したことありません」

「そう……ほっとしたよ」


 その以外にも優しい言葉に藤李は驚いた。


 どきっと胸が高鳴り、落ち着かない気持ちになる。


「顔の形、絶対変わってると思ったんだけど、案外大丈夫そうだね」


 違った。


 心配してくれてるのかと思ったけど、意地悪を言いたいだけだな、この男。

 本当に首絞めてやろうか。


 思わず真誠の首に回す腕に力を込めたくなってしまうのをぐっと堪える。


 部屋に入ると真誠は藤李を二人掛けの椅子に優しく降ろした。


 落とされなかったことには安心する。

 隣りに腰を降ろした真誠は藤李の顔を覗き込む。


「……口、切れてるよ」

「つっ……」


 そう言って切れた口角に触れられ、びくっと身体が跳ねた。

 触れられた瞬間、痛みが走り、藤李は顔を歪める。


 真誠はそれを見た瞬間、目を大きく見開き、その後、薄く細めた。

 光の無い瞳に藤李は寒気を覚える。


「く、口の傷はすぐ治りますから、大丈夫です」


 藤李は怖くなって視線を逸らす。


「首は?」


 気遣うような優しい声音で真誠は言うと藤李の首に顔を近づける。

 白い首に男の手の痕が薄ら赤らんで残っていた。


「もう、大丈夫ですからっ」


 近い、近い、近い!


 銀糸の髪が藤李の胸元を掠めるくらい近い距離に顔があり、急に緊張してしまう。


「ねぇ、君。自分がどれだけ危険な状況だったか分かってるの?」


 優しかった声音が急に冷ややかなものに変り、藤李は久し振りの感覚に身震いする。

 藤李が戸部で働き始めたばかりの頃、よくこの冷たい声で諌められたことを思い出す。


「自分の身もろくに守れないくせに、他人を助けるために身体を張るなんて無茶な事して。君、死ぬところだったんだけど。分かってるの?」


 藤李の目を真っ直ぐに見つめて真誠は言った。


 深い緑色の瞳から怒気を感じ、凄く怒っていることが分かる。

 そこまで言われて改めて自分の無鉄砲な行動が危険だったと実感が湧いて来る。


「顔は腫れただけ。首は絞められただけ。大した事なくて良かったね。でも命は奪われたらその一言では済ませられないんだよ」


 声に滲む怒りと、真誠の言葉が胸に刺さる。


 そうだ、私……尚書が来てくれなかったら死んでいたかもしれない……。


 そう思うと身体震えて目尻に薄らと涙が滲む。

 絞められて首に触れると脈が大きく動いていることに安堵する。


 ここを圧迫されて、息が出来なくなって……本当に苦しかった。


「君が首を絞められている所を見た僕の身にもなってくれる? 息が止まるかと思ったよ」


 怒りと呆れが混ざり合う声で真誠は言う。


 文句のような小言を言いながら、藤李の目元に浮かぶ涙を指先でそっと拭ってくれる。


「……浅はかでした……危ない所を助けて下さり……ありがとうございます」


 もう過ぎたことなのに今になって恐怖で身体が震える。


 もしかしたら、本当に死んでいたかもしれない危険な状況だったことを改めて考えるとぞっとする。

 感謝の言葉も語尾が震え、怖い想像をして涙がぽろぽろ零れてくる。


「君の度胸は買ってあげるけど、後先考えないのは問題だよ」


 真誠はそう言って長い腕を伸ばし、藤李を近くに引き寄せた。


「っ……⁉」


 驚いて身を硬くするが、優しい香りがふわりと鼻孔を擽り、伝わってくる温もりが心地良く、不思議なことに凄く落ち着く。


 優しく背中や髪を撫でられるとその心地良さに目を細める。

 身体の強張りは解かれ、頭を真誠の胸に預けて無意識に額を擦り付ける。


「……自分で危険なことに首突っ込んで、危険に晒されて、人に助けられて、情けなくない?」


 そんなこと、言われなくれも分かっている。


 そう言いたいのに、こんな風に優しくされたら噛み付く気も起きない。

 言葉は決して優しくないのに、藤李に触れる彼の指先はとても優しい。


「目の届くところでしてよね。そういうのは」

「…………はい……ご迷惑をお掛けしました。もうこれ以上は尚書にはご迷惑をお掛けしませんので……」


 そう言うと真誠は藤李から身を離す。


 そこには物凄く不機嫌そうに顔を歪める真誠がいた。

 凄まれて藤李は身を竦ませる。


 先ほどの説教とは違う種類の憤りを感じるのは何故なのか。


「あの、助けて頂いたことには感謝しておりますが……そもそも、何故尚書がここに……?」


 藤李は聞けずにいた疑問を上司に投げかける。


 この人、何でこんな所にいるんだろう。


「僕も聞きたいことがあるんだけど」


 そう言って真誠は罪人に尋問でもするかのような冷たい声を発する。


「き、聞きたいこと……とは?」


 真誠は懐から皺くちゃになった紙を取り出して広げて見せた。


「何、これ?」


 真誠の手にある紙に藤李は見覚えがあった。

 何故、これを真誠が持っているのかという疑問が浮かぶ。


「これは一体どういうこと?」


 真誠から手紙の内容を指摘され、仕事でも感じたことのない異様な圧に藤李は顔を引き攣らせた。



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