第26話 そして話は拗れていく

 何故、すぐに来て下さらなかったのですか⁉」


 癇癪を起した女は本当に面倒極まりない。

 高い声を張り上げる芙陽に表情を変える事無く真誠は答える。


「立て込んでたんだ」


 素っ気ない真誠の言葉に芙陽は憤りを全面に押し出す。


「私が怖い思いをして震えているというのにっ⁉ 虎に襲われて怪我までしたのですよ⁉」


 怒鳴りながら自身の長裙をたくし上げて赤くなった膝を晒す。


 正直、どこが怪我なのか分からない。


 藤李の両足の指にはいくつもできた水ぶくれが破けていて、踝の皮は擦り剥けて血だらけで痛々しかった。


 あそこまで耐えろとは言わないが藤李の根性を見習った方がいい。


 あの痛々しい足を見た後では芙陽の怪我など怪我ではないように思う。


「せめて怪我がないかくらい訊ねるべきではないですか⁉」

「別の者が聞いたはずだけど? 大したことないから必要ないと言ったのは君でしょ?」


 藤李の治療をしてすぐに雪斗をこちらに送った。


 大した事ないから必要ないと芙陽本人に言われて部屋を出たと聞いている。


 芙陽は押し黙って真誠を睨み付けた。


「では、何故あの女を助けに行ったのですか?」


 あの女とは藤李のことを指している。


「あの娘は当主代理の客人。死なれたら困るからだよ」


 木蓮が藤李を気に入っているため、万が一のことがあったら非難されるのは真誠である。


 それに藤李に死なれては真誠も困る。


 ようやく使い勝手のいい小間使いを得て仕事の能率が飛躍的に上がったのだ。

 戸部の者達も藤李を好いているし、尚書室と戸部室の橋渡し役をしているため、真誠が机から離れなければならない時間が減るし、他の者も同様に余計な所作に時間を取らなくて済む。


 他部署からの書類の受け渡しも藤李が請け負うことによって効率が上がった。

 藤李は今までになく評判のいい小間使いである。


 仕事を教えたのも使えるようにしたのも真誠だ。なのに自分のいる家で死なれては寝覚めが悪すぎるし、死なれては仕事に大きく支障をきたす。


 どこを怪我したのか分からないような芙陽よりも虎から逃げ回る藤李を優先するに決まっている。



「本当にそれだけですの?」


 疑惑の視線を向けて芙陽は言う。


「他に何があると思うの?」


 死なれたら困る他に理由などない。


「あの女に気があるのではなくて?」

「……は?」


 一瞬、言葉の意味が分からず間の抜けた声が出てしまった。


「馬鹿馬鹿しい」


 真誠は呆れた声で溜息をつく。

 女は特に男女を色恋に絡めて考え過ぎる。


 それも鬱陶しいから嫌なんだよ、女って。


「あら、違いますの?」

「当たり前でしょ」


 嫌悪感を示す真誠に芙陽はにんまりと笑みを浮かべる。


「それは良かったですわ。仮にも自分の婚約者が側使えの恋人に横恋慕しているようなことがあっては困りますもの」

「……恋人? 誰が、誰の?」


 品の無い笑顔を扇でさっさと隠して欲しいと思っていた矢先、芙陽の口から出た一言に真誠は眉を顰める。


 何を言っているんだこの女は。


 一体、いつ、誰が、誰の恋人だと言った?


「あら、ひょっとして……ご存知ありませんでしたの?」


 勝ち誇ったような笑みを浮かべて芙陽は言う。


「あの生意気な女……貴方の側使いの獏斗、だったかしら。あの者の恋人だそうですわよ。東屋で彼女本人の口から聞いたのですから」


 無表情のまま衝撃を受ける真誠の腕に芙陽は絡み付く。


「私、真誠様があの女を妾にでもするつもりなのではと疑ってしまいましたわ。でも、側使いの女に手を出すような愚かな真似を真誠様がなさるはずありませんものね?」


 芙陽はそう言って顔を近づけてくる。


「未婚の名家の姫が……はしたないんじゃない?」


 唇が触れる前に真誠が芙陽の唇を手で遮ると彼女は不快感を露わにする。


 不快なのはこっちの方だし、なんなら不愉快だよ。

 口に出さなかっただけ自分を褒めたい。


 真誠は何かを叫ぶ芙陽の言葉を聞えぬフリをして部屋を出る。

 向かうのは獏斗の元だ。


 一体、どういうことなの?

 あの二人、以前から知り合いだったってこと?


 確かに、親し気な雰囲気に違和感を感じていたが、芙陽の言葉を聞いた後なら納得もいく。


 しかし、獏斗に恋人がいるなどと聞いたことがない。


 しかも、相手が藤李だって?


 胸の中に黒い靄が重く渦を巻いて広がっていく。

 心臓の脈がやけに速く感じられ、何故だか分からないが非常に苛立ちを感じる。

 ムカムカとする胸の中が重く、息苦しさを感じるほどだ。


「どういうこと」


 廊下を進みながら真誠は呟く。

 何でこんなに腹立たしいのか、自分でも分からない。


「恋人? ……本当に?」


 にわかに信じがたい内容に真誠は眉間のシワを深く刻み込み、微かに痛む左胸を押さえた。







一方、駿家に着いた藤李達は料理に舌鼓を打っていた。


「あぁ……面倒なことになったな」


 そう言ってぽつりと呟くのは鈴羽である。


「鈴さん? 何か言った?」


 藤李は隣に座る鈴羽に訊ねる。

 鈴のような綺麗な声はいつ聞いても心地良い。


「いや、何でもないさ。それより、料理は口に合うか?」


 広々とした机に並んだ料理は駿家自慢の料理人が腕を振るった力作だ。


「どれも凄く美味しくて感動してます」

「嬉しいねぇ」


 満面の笑みでもぐもぐと口を動かす藤李はまるで小動物のようで愛らしい。

 いつものような男装ではなく女性らしい格好をしてそばかすを拭き取り、現れた時は女神かと思った。


 てっきりいつもの男装で現れると思っていたため、度肝を抜かれた。


 黒く艶やかな長い髪はまるで絹糸のように美しく、上に羽織った長衣から覗く肩にかかった細い吊帯が色っぽい。腹部を帯で締め、華奢な身体の線が浮き上がるようで抱き締めたらどうなるか想像を掻き立てる。


 そんな邪な心を鈴羽はなんとか封じ込め、隙あらば華奢な肩に向かいそうになる腕をどうにか理性で押しとどめている。


 でなければ向かいに座り、ガンを飛ばしてくる男に殺されてしまう。

 文字通り、一族郎党皆殺しになりかねない。


 手を出すにしても慎重にことを運ばなければならないのだ。


「ふぁ……」


 食事が始まりしばらく経つと隣りに座る藤李が小さく欠伸をする。

 そんな様子も可愛らしい。


「無理するな。朝も早かったし、昨日も夜は遅かっただろ?」


 そう言って藤李を気遣うのは央玲だ。


「そうさせてもらおうかな」

「無理しなくていいさ。湯に浸かってゆっくり休んでくれ」


 小さく頷いて藤李は客室に下がっていく。


「俺もこれだけ頂いて下がらせてもらう」


 央玲は盃を傾けて酒を飲み干す。


「料理人達に美味かったと伝えてくれ」

「もちろん」

「お前にも迷惑かけて悪かったな……うちのが……」


 申し訳なさそうに央玲は言う。


 こうしていつも兄はあの妹に振り回されているのだろう。

 今回は何事もなくて良かったが、肝は冷える。

 思っている以上にこの兄は苦労していると見た。


「気にすることはないさ。明日は改めて白家を訪ねるんだ。疲れてるんだろ? 早めに休めよ」

「お前もな」


 そう言って央玲も部屋へと下がっていく。


 央玲の背中を見送り、鈴羽は天井を仰いだ。


 藤李が男装して宮仕えすることになった日からどこかの悪い虫がつくのではないかと危惧していた。



 いくら男の格好をしていても鈴羽には女にしか見えない。脱がされたらそれで終わりだ。しかし、よっぽど官吏達の目が悪いのか今の今まで藤李は小間使いとして働けている。


 安堵もするが、官吏達の目の悪さに呆れてもいた。


 これなら朝廷にいる限り、変な虫がつくことはないと安心していたというのに、まさかの大きな虫がついてしまった。


「白真誠か……」


 超特大の悪虫である。


 そこらの下級官吏や下級貴族であればひと睨みすればそれで済む。

 駿家とはそれなりに名の知れた金貸しでそこらの貴族に名前や資産で劣ることもない。


 しかし、白家の直系で一族次期当主となれば話は違う。


 分が悪い。


 だが、あの男は男装をした小間使いの藤李と今日の藤李の区別がついているのだろうか?


 別人だと思っているのであればこんなに間抜けなことはない。

 真実を知った時に鼻で笑ってやろう。


「そういえば婚約したと言っていたな」


 鈴羽はふと思い出す。


 あの男は少し前に赤家の姫との婚約が決まり、町中が異様な騒ぎだった。

 家同士の繋がりのために結んだ婚約だ。

 正妻は赤芙陽になるだろう。


 いくら藤李が欲しくても藤李を妾にすることは出来ない。

 自分は頑張ってどうにか手に入れられるかもしれないが、あの男には既にそれができない立場にある。


 あの男に勝算はないことが分かっているのに何故か心配で仕方がないのだ。


「女に興味ないって噂は嘘か」


 手元の盃を弄ぶと水面に波紋が広がる。


 女嫌いは有名な話だがどうも違うらしいことが判明した。


 自分が髪紐を贈ったことを知らしめて『自分が見初めたのだから手を出すな』と分かりやすい威嚇をしたのだ。


 呪われた白家の若君。近づけば呪いが飛び火し、不幸なり、彼に睨まれれば死を迎えるという噂だ。


「噂通りであれば俺は近々死ぬかもしれないな」


 鈴羽は薄く笑って酒を煽った。

 

 





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