第8話 虫除け



「あれ? 帰ったんじゃなかったの?」


背後から投げかけられた声は梨花のものだ。


「うん、外の空気を吸っていて……」

「あれ、綺麗な髪紐ね。そんなの持ってたの?」

「え?」


 梨花の言葉に窓ガラスに映った自分の後ろ頭を確認すると見覚えのない髪紐が結った髪に絡んできつく縛られている。


『生憎、簪は持って来てないんだよね』


 真誠の言葉の意味にようやく気付く。


 簪の代わりってこと?

 一体何故? あれだけ私の舞をけなしたくせに。 


 そんな風に思っていると梨花に腕を引かれる。


「お願い、お酌する子が足りないの。一緒に来て頂戴」

「えぇ?」


 もう帰ろうと思っていたのに……。


 それに気になることもある。

 先ほどの怪しい男達の会話のことだ。

 虎の密猟、白州、若造は気付いていない、そんなことを言っていた。

 瑠庵から命じられた聖域調査の一か所目は決まった。


 神獣白虎の住まう白州の森は多くの虎が生息すると聞いたことがある。

 もしかしたらさっきの男達の言葉と関係があるかも知れない。


 本当に虎の密猟が行われていたら大変な事態だ。


「李、お酒、零れてるわよ」


 梨花の言葉に藤李ははっと我に返る。

 結局、梨花の頼みを断り切れずに宴へと戻って来た藤李はしぶしぶと官吏達にお酌をして回っていた。


 考え事をしていたために手元が狂い、酒が杯から溢れてしまっていた。


「申し訳ありません、すぐに綺麗にしますので」


 そう言うと、官吏は引き攣ったような笑みを浮かべて気にするな、と言う。


 お酌に回っても間に合っている、大丈夫だと、全て断られてしまい、流石に凹んだ。


 藤李の酌を断ったクセに他の女の子からのお酌は歓迎して、鼻の下を伸ばしている。


 結局胸か。


 今一度、自分の寂しい胸元を確認する。


 ちっ。


 心の中で大きく舌打ちをして、廊下に出る。


「李」


 名前を呼ばれて振り返ると宮妓長の悠泉が小走りでやって来る。


「私はこれで失礼しますね」

「えぇ~もう帰っちゃうの?」

「どうも、私の酌では酒が進まない官吏ばかりのようですので」


 目をパチパチと大きく瞬かせた後、悠泉にこにこと笑みを作る。


「それはそうかも知れないわね」


 笑顔でトドメの一撃を喰らい、藤李は心の中で泣いた。


「そんなに立派な簪を持っている貴女に、下っ端官吏は近づけないわ」


 そう言って帯に差された簪を示す。


 銀製で大きな石と緻密な彫がある立派な簪だ。

 簪が高級品であるほど、持ち主は位が高いことを暗に示しているからだ。


「なるほど」


 央玲がくれた簪を見て、下っ端官吏はびびったわけね。

 王族のお気に入りに手を出して睨まれたくはないからだ。


「今日はありがとう。出口まで送るわ」

「いえ、ここで大丈夫ですよ。ではこれで失礼しますね」


 そう言って藤李は歩き出す。


 藤李の後ろ姿を見て悠泉は驚き、目を見開く。


「簪じゃなくて、髪紐が原因かも知れないわね」


 藤李の結った髪に絡みつくように結ばれた髪紐と白い玉飾りは白家を示唆している。

 深緑色の髪紐に白の玉飾りで髪を結う人物は官吏であれば言わずと知れたあの人である。


「もしかしたら王族よりも怖いかもね」


 何せ『戸部の白蛇』と呼ばれる彼だ。

 彼に近寄れば呪われ、目を付けられればろくな死に方をしないというのは有名な噂だ。


「大変なことになりそうね、藤李様」


 藤李の正体を知る数少ない人物の悠泉は楽し気な声で呟く。そんな悠泉の声は賑やかな声に溶けて消えた。


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