第3話 戸部尚書
自分の左胸には大きな痣がある。
黒い、花の蕾のようなものが生まれながらに存在する。
誰かに呪詛を受けたらしい。
そしてその蕾は藤李が成長するにつれ、大きくなり、蔓のようなものが心臓から外に向かって伸びている。
どこからかその話が漏れたのか、王族の姫は呪われていると噂が流れ始めたのだ。
まぁ、そのお陰で気の進まない宴やお茶会、婚姻話を今まで避けて通り、宮仕えをしていられるので悪いことばかりではない。
それよりも気の重たい話がある。
「はぁ……聖域に行けと言われてもねぇ……」
藤李は大きな溜め息をつく。
この国は王都紫州を中心に北に白州、南に緑州、東に赤州、西に青州と五つの州でできている。北の白虎、南の玄武、東の朱雀、西の青龍がこの国に住まう神獣とされている。各州に一匹の神獣が住んでいる。聖域の奥深くに住まい、聖域を守り、その州の守護をしていると言われている。
聖域と神獣の様子を見て来いと言われた藤李だが、そもそも神獣は昔話で本当に存在するかどうかも分からない。
どこの州から行けば良いのかも分からない。
この忙しい時期に。
そして何より、今朝の夢が悪い。
藤李は頻繁に同じ夢を見る。
自分が殺される夢だ。殺された自分を憐れみ、誰かが泣いている。
それはいつも同じ所から始まり、同じ所で目を覚ます。
あんまりにもしつこい夢にあれは自分の前世なのではないかと思い始めているぐらいだ。
その夢を見た日は決まって良くないことが起こるので、今日は朝からげんなりして出勤した。
疲労と寝不足と苛立ちで考えがまとまらないうちに尚書室に辿り着く。
「随分と遠くまで行ってきたようだね、陣」
もう戻って来ないかと思ったよ、と男は言う。
藤李はありふれた陣の姓を借りて陣藤李、男と偽り、この男の付き人をしている。
尚書室に戻り、早々に嫌味の洗礼をうけることになった。
こちらには目も向けす、筆を紙に走らせ、口だけ動かしているのは戸部尚書の白真誠だ。
美しい銀糸の長髪、シミ一つない透き通る陶器のような白い肌、切れ長の目は濃い緑色をしていて、高い鼻梁に形の良い唇はまるで神話の女神を彷彿とさせる美しさがある。
銀糸の髪を束ねる濃い緑の髪紐と白い飾り玉も品があり、さりげなくお洒落だ。
「どうしたの? 耳が聞こえなくなったのかな?」
藤李はこめかみに薄らと青筋を浮かべてながらも感情を抑える。
「申し訳ありません。少々、人に引き留められました」
「随分と暇を持て余している者がいるんだね。仕事を分けてあげたいよ。今度は連れておいで」
遣い潰してあげるから、そう問われている気がしたが、相手は国王陛下なのでそんなことは出来ない。
形の良い唇からは嫌味しか出て来ない。
藤李は黙って部屋の隅に用意された机に座る。既に整理しなければならない書類が山になっている。
真誠の硯の墨が減っていのを確認して、急いで墨をする。真誠の筆が硯から離れた隙に硯ごと入れ替え、自分は残り少なくなった真誠の硯の墨を使い、作業を始めた。
各部署から回収した書類と書簡を必要な順番に尚書机に並べ、返却資料は棚に戻す。
尚書机から流れてきた書簡と書類を確認して、重要度の低く、藤李が許されているものには尚書印を押し、最後に不備がないかは尚書である真誠が確認する。
「……尚書、礼部の備品の費用が先月と比べて倍以上違いますが」
ふと目に留まったのは月末に提出される各部署の支出額の項目だ。
「いくら違うの?」
「十倍ですね」
下の桁のゼロが一つ多いのだ。
「突き返して」
書類の不備には特に厳しい戸部だ。藤李は一旦、その書類を脇に追いやり、作業を続けた。
「他の部署に不備はある?」
「工部の追加申請書がこんな所に混ざってました」
「また? 期限内に提出しなければ受理しない。来月の申請分に回して」
度々、こうして書類と書類の間に挟んで申請書を提出してくる輩がいる。
尚書である真誠の机ではなく藤李の机に上がるのだ。
どっちにしろ尚書の目に入るのだから、私の机に置いて行くのは止めて欲しい。
そんな風に思っていると戸部の扉が叩かれ、数人連なって入室してきた。
「し、書類を提出しに、参りました」
上擦った声で若い官吏が言う。
緊張しているのか肩が上がって、涙目になっている。
「こちらで貰います」
藤李が声を掛けるとほっとしたように表情を緩めて紙束を差し出してくる。
「貴方、工部の人ですよね?」
「は、はい。そうですが……?」
「追加の申請書がこちらに混ざっていました。来月に回してもよろしいですか? 分からなければ確認してきて下さい」
そう言って差し出された紙束と一枚の申請書を交換する。
「す、すみません」
「あの、自分はこちらの書類の提出が遅れてしまって……」
別の官吏に差し出された書類に目を通し、藤李は手元に置く。
「これは大丈夫です。このまま受け付けます」
「ありがとう!」
俺も、自分も、と何故か藤李の机の前に列が出来る。
こんなことが起きるのは理由がある。
「用が済んだらさっさと出て行ってくれる? 気が散る」
真誠のドスの効いた声でひと睨みすれば、若い官吏達は震え上がって蜘蛛の子を散らすようにバタバタと出て行く。
開けっ放しにされた扉をそっと閉める。
多くの部署のほとんどの官吏達は戸部尚書である白真誠を恐れている。
女性以上に麗しいご面相、長身ですらりと長い手足、見ているだけで充分な存在なのだが、大貴族の白家直系の若様で、最年少十歳で官吏登用試験に合格した神童である。
顔良し、頭良し、大貴族の時期ご当主の超金持ちと三拍子揃ったこの世の男の羨望の的のような人物なのだが、彼には呪われているという噂がある。
側にいるものは呪いが移り、次々と不幸になり、命を落とすという。身体には黒い痣があり、呪いに蝕まれている証拠だと噂で聞いた。
身体のどこにあるのかは分からない。少なくとも首から上は綺麗な顔しかついていない。
こんなに好条件が揃っていると言うのに二十四歳で未だに独身であるのもそれが理由らしいが、最近になって同じく大貴族の赤家の姫と婚約したと聞いた。
実におめでたいが、口を開けば嫌味しか出て来ないような男でお姫様が不憫でならない。
藤李も今年で二十歳になる。世間的には行き遅れと呼ばれる年齢に足を踏み入れそうだが、そんなことを気にしている余裕はない。いずれは結婚しなければならないが今はまだそんなことは考えられない。
尚書の婚約者がどのような女性かは知らないが、所帯を持ったら少しは優しくなるかもしれないと藤李は期待している。
本当に見目麗しいなこの人。
呪われていると噂もあるが、この顔で高位高官なら呪いあっても構わないのでは?
むしろ恵まれすぎる故に、人から妬まれないようにするために神様から与えられたハンデなのでは?
そんな風に思っていると紙から剥がれた真誠と視線が交わる。
「何? 暇ならこれも片付けてくれる?」
一刻も早く結婚してその刺々しい言い方が治れば良いと心から願う。
藤李は溜め息を付いて仕事を再開する。
「ねぇ」
「何でしょうか?」
仕事中、唐突に話し掛けられる。
「今夜の宴は出るの?」
「宴……?……あぁ! 忘れてた!」
藤李はがたんっと椅子を倒す勢いで立ち上がる。
「うるさいよ。出席するの? しないの?」
春の訪れを祝う観桜宴が今夜は開かれる。
会場には灯篭が並び、官吏達には食事と酒が振る舞われ、宮女達が楽や舞を披露し、夜桜を愛でるのだ。
すっかり忘れていた!
呑気に書類整理している場合じゃない。
藤李は書類を捲る手の動きを早めて、集中する。
「君達にも席は用意されてるけど」
「いえ、自分は出ません。ですが今日は早めに上がらせても頂きます」
「そう」
気のない返事が返ってくる。
藤李は官吏ではないので官吏達と同じ席に着くことは出来ない。しかし、小間使いや後宮の侍女達が使えるような隅には席がある。豪華ではないが酒やお菓子も振る舞われる。しかし、そんなことをしている暇はないのだ。
藤李は今夜、宮女達に混ざって舞を披露しなければならないのだから。
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