第4話 悪夢

 もともと私は結婚できると思っていなかった。


 男を見る目がなかったから。


 働きもせず自分の楽しみばかりで借金を作って家庭を荒らし、休まず働いてくれていた母親に暴言ばかり吐いて罵倒する父親の下で育った私は、理想の男性像を描くことができなかった。結婚以前に恋愛もできないなら、そもそも夫婦生活を思い描くなんて無理な話だ。

 結局、大学を卒業するまで彼氏を作ることなく青春を終えた。


 それでも20代のころは恋愛に憧れた。

 仲の良かった友人に彼氏ができたり、会社の同期が寿退社するようになってからは自分だけ彼氏がいないのはマズいと焦る気持ちがあったからだ。

 軽はずみで始めたマッチングアプリは簡単に年下の男性と出会わせてくれた。この子と過ごす甘い時間は、男に飢えた心を潤してくれる……身を許してもいいかと感じるころも何度かあった。私にも人並みの恋ができるだけの余地があると思うとうれしかった。


 けれどそのたびに、現実は甘くないと平手打ちを食らうのだ。

 出会った男はそろいもそろってクズだった。


 ありがたいことに職場で重宝されていた私はポンポンと昇進し、金銭的にも余裕はあった。だからデートのたびに食事をおごったり、意味もなくプレゼントを買うことにも抵抗がなかった。そのたびに笑顔を浮かべて喜んでくれるのが嬉しかったのも理由の一つではある。


 けれど大きな仕事が増えてプライベートの時間を作れなくなり、デートに行く余裕もなくなってしまった。余裕はあったが、お金だけ渡して自由にさせるのは対等な関係としての恋愛とは違う気がしてしなかった。それよりも一緒にいる時間を作れないことへの罪悪感の方が勝っていた。


 現状をどう打開しようと考えても不健全な付き合い方になるのは目に見えてる。そうなる前に自然に別れた方がお互いの今後のためにもいいと感じていた。


 そして当時唯一交際に発展した男性とのデートの日、私は決意して伝えた。


「仕事が忙しくなってきたから、これからはレストランとかより、喫茶店とか軽食で済ませたい。これまではプレゼントとかも買ってあげてたけど、選んでる余裕もないの」


 夜の高級レストラン、突き放すような言葉をあえて選んで言うと明らかに不満げな顔になった。サイズがやや大きなスーツに身を包んだ彼は背伸びしている印象で、どこかちぐはぐな感じがぬぐい切れない。

 だが彼はこちらに食いつかんばかりギラリとした視線を向けて言い返した。


「は、何それ。じゃあ金だけ出してよ、予約して典ちゃんが来れなかったらそれでもいいし。来れるときだけ来てくれれば」


「いやでも、私のお金だから」


「いいじゃん、どうせ払ってくれるなら僕のお金みたいなものでしょ?予約しても来れないときだってあるって。典ちゃんは仕事できるし忙しいんだから仕方ないよ、お店の人もわかってくれるからさ」


 反論しても強引な言い分で金をせびろうとしてくる。やれやれと肩をすくめるのは私をわがままな女だと思っているからだろうか。

 その態度にカチンときたと同時に気づいた。自分はただこの男の金づるに使われているのだ。


――やっぱり男なんて頼りないクソ野郎ね。


 自然と両手を握りこんでいた。ナイフとフォークの柄が熱くなっていた。


 その間も滔々と私がお金を出すことによるメリットを語り続ける彼を無視して、私は席を立った。


「え、なに?どしたの?」


 怒りに任せて動いた私の背にも、その言葉は寂しさを感じられた。後ろ髪引かれる思いのまま、蕭蕭と降り続ける雪のなかを進んでいった。初めは勢い任せだった足運びも、やわらかく降り積もった雪にとられるようになってゆっくりになり、ついには立ち止まった。

 空を見上げると濃鼠色の雲が舞う雪を白く光らせていた。彼は追ってこなかった。


 会計は先に済ませていた。少しでも金をせびろうと折ってくるかとも思っていたのだが、デートのときの会計はいつもそうしていたから自信があったのだろう。追いかけられるのも癪だった私にはちょうどよかったのだ。


――最後の最後までしてやられるなんて……、まったくやんなっちゃう。


 自分自身の男運のなさを再確認して、結婚はおろか交際さえ無理なのだと確信した日だった。


 その男とのデートを最後にアプリは削除。仕事に打ち込み続けた私は気づけば40代ながら後輩たちを引っ張り営業を続ける立派な仕事人間。

 自分の生活に癒しを求めるのも当然だった。だからこそ、ドラマで見るような独身貴族な生活はまさにうってつけだと思った。


 +++


 今思い返しても腹に黒いものを抱えた気分になる。まさかあのときの男が再び、しかもこんな身近に現れるとは想像もしていなかった。


「シュウタ、あなたいったい……どうして?」


「遊太ですよ、僕の本名は。どうしてもこうしても、普通に就活して採用通知をもらったので就職したまでですよ。もっとも僕はあなたがいることは知っていましたけど。すごいですねー、仕事人間の辣腕ぶりは。他部署の僕のところにまで及んでいるんですから」


 鼻につく態度でニタニタと言ってくる。最後に会った、あのレストランでのしたり顔が重なった。対処に困って思考の止まった私は、蒸し返しそうになる怒りを収めて返した。


「アプリの名前と一緒だったんで、最初は疑ってましたが実物見てびっくりしちゃいましたよ」


「噂がどんなものかはわからないけれど、言いふらされる身にもなってよね。いい気分じゃないわ」


「あれだけ優しくしてくれたのに、突然立ち上がって去っていった人に言われたくありませんねー。どれだけ恥ずかしい思いをさせられたか」


「悪いけどあなたの態度も問題よ。私を金づる扱いして、当時は学生だったから大目に見てたけどね、今さらまっとうに生きてますなんて――」


「そうだ、下宿させてくださいよ」


 責め立てる私の勢いを削ぐように、突然あっけらかんとした声が入り込んだ。


「……は?」


「あのときの借りですよ。別にいいでしょ?減るもんじゃなし」


「ちょっと冗談はよしなさいよ」


「実はそろそろ引っ越そうと思ってたところだったんですよ、なかなかいい物件見つからなくて困ってたのでちょうどいいや」


 私の制止もきかずに、名案とばかりに自分の考えを立てようとしてくる。明らかに狙っていると分かる言い分だった。

 普段から営業課の後輩たちとも雑談や冗談を話すことはあるが、プライベートに抵触することはご法度だ。しかも個人情報を扱うことも多い人間がしていると思うと、嫌悪しか湧いてこない。

 言い返してやりたくなったが、ここで誘いに乗って熱を持って言い返すと味を占めるかもしれない。冷静に、職場の先輩としての気持ちを立て直した私は一つ長い息を吐いて続けた。


「ふふ、それはちょっと無理ですね~」


 急に態度の変わった私に振り返った遊太は一瞬目が点になっていたが、すぐに笑みを戻した。


「いやいや、そんなこと言わずに~」


「もう少し探してみてもいいんじゃないですかね?ほかにも物件ありますから」


 食い下がろうとする遊太にあえて他人行儀に答えた私は、軽く会釈してその場を後にした。

 遊太は後を追ってこなかった。



 それから数週間。年末の忙しくなり始めたころに、悪夢は始まった。


 そのころ、社内ネットワークシステムに点検が必要になり、事務処理はアナログ強制になった。領収書や自費支払い請求書の申告など簡単なものとはいえ、営業ともなると仕事のたびに必要な事務処理は増えていく。ましてや課内で一番領収書が積み上がる営業一部ならなおのことだ。

 精算処理された書類などの確認や見直しの要請は経理が行っている。通常の閑散期は部長への確認で事足りることが多いのだが、繁忙期になると担当者への確認も徹底しなければならなかった。会社創設当時から続く、企業ブランディングのための戦略ともいえた。


 だが、このときばかりは私にとって悪習でしかなかった。

 営業最前線の一部で班のリーダー。当然のように領収書をたくさん切っていた私には処理する書類が多くあった。つまりはその確認を求めに経理の人間がやってくるのだが……。


「関口さんのマンション、内装見てみたんですけど。結構僕好みだったんですよね。僕なら家具をこんな風に配置して~」


 私の書類確認にやってくるのはいつも遊太だった。

 しかもしつこくマンションのことについて尋ねてきて、あろうことか住むことを前提にした話までし始めた。


「ねえ、なんで住所まで知ってるの?」

「そりゃあもちろん、書類に書いてありましたから。当たり前じゃないですか」


 呆れる私は何も言えなかった。悪びれずに笑う遊太の態度に寒気がした。だが後輩たちに見られているかもしれない場所であけすけな態度をとるのもどうかと思い、強い口調で返すことができなかった。


「関口さんのマンションなら会社からの距離もちょうどいいし、どうせ部屋余ってるんですよね?」


「まだ引っ越してから日も浅いし、忙しくてね。荷解きできてないし、そもそも荷物多いから余ってる部屋なんてないわ」


「荷物なんて整理すれば意外といらないものが見つかったりしますよ。なんなら手伝いに行きましょうか?」


「女性には見られたくないものもあるの。うちの後輩に頼むことにしてるから大丈夫よ」


「じゃあ整理終わったら家見に行ってもいいですよね?」


 やめてほしい、という意志を言外に込めても遊太はなかなか引き下がらない。

 埒が明かないと悟った私ははっきりと告げた。


「さすがにそこまでされるのは嫌だし、悪いけどごめんね」

 

 デスクに置いてあったお気に入りのマグカップを持って、共有のコーヒーコーナーに立ち去った。



 だが悪夢は始まったばかりだった。


「ほんといい加減にしてほしんだけど……」


 残業を片付けてエレベーターに乗ったその日は心底疲れていた。

 相変わらず遊太の口説きは続いていた。


「前にも言いましたよね?住所は知ってるんです、断っても無駄ですよ」

「いいかげん部屋の整理も終わりましたよね?押しかけちゃおうかな」

「彼氏がいるわけじゃないんですよね?いいじゃないですか、一人くらい増えても」

「一人で過ごす夜って、寂しくないですか?夕飯一緒に食べてあげますよ、あのマンションなら美味しい夕飯作れそうですし」


 遊太は決まって、私が一人でいるところを狙って話しかけてくるようになった。はじめは書類確認のためと理由をつけたりもしていたが、途中からそれもなくなり、休憩室、エレベーターホール、廊下と、所かまわずやってきた。完全に私狙いだった。

 遠回しだった言葉も露骨なものに変化し、私は迫られるたび言葉を変えて断った。連日の案件に加えて本来部長のみで済む書類確認もしなければならない状態で、私も返事の棘を隠しきれなかった。


 それにも構わずに猫なで声で寄ってくる彼の言葉は、頭の中をなめくじのように這いまわる。遊太の軽薄な笑みと、さんざん私と母を苦しめた父の顔が重なり、苛立ちは募るばかりだった。

 そのうち言い返すのも馬鹿らしくなった私は迫られても言葉少なに返すようになった。単純に面倒だった。

 どう受け取ったのか知らないが、遊太はそれで諦めることはなく、むしろ嬉しそうな顔になって迫るのをやめることはなかった。


 今日も同じように迫られ、こみあげる怒りを我慢しながら遊太を追い返してやった。


――帰ったら絶対にワインを飲んでやる。


 強く心に誓って目を閉じると、だんだんと怒りが落ち着いてくる。

 私がどれだけ怒気をはらませようと、日常は気にせず過ぎていく。気づけば新年を迎えようというのに、こんな気持ちでいては来年の仕事に支障が出かねない。このままではダメだと思った。


――まずは無事に帰ることね。


 エレベーターが到着を告げる音を鳴らす。扉の先にはいくつかのグループがいて、年の暮れの挨拶を交わしていた。

 お偉い方はすでに有休を使って年末の時間を楽しんでいるに違いない。年齢だけで言えば同じ立場にいてもおかしくない私だったが、足で稼ぐ方が性に合っているので気にならなかった。それよりも気苦労の絶えない年末になってしまったことにがっかりしていた。


 自分が周囲からどう見られているのかは、何となくわかっているつもりだ。40歳を超えても第一線で後輩たちを導いていく。私が憧れた働き方であり、蒸発した母の姿でもあった。


『自分の楽しめることは全力でやる、たとえそれが世間からずれたことであっても』


 酒にまみれる父に向かって言い放つ背中は、この世の何よりもかっこよく、そして美しかった。自分の信念を曲げずに進む彼女は、結局自分を腐った父に押し付けて、そのままどこかへ行ってしまった。経験したくなかった喪失だったが、代わりに私が強く生きるための種になっている。


――これも運命、なのかもしれないわね。


 心の独白につい笑みがこぼれる。首に下げた入館カードを外しながら、年の離れた後輩社員たちに見られないよう足早に出入りゲートに向かう。


 ふと嫌な予感がしてちらと後ろと振り返ると、灰色のスーツに身を包んだヤツが屈託なく笑いながら同僚と歩いていた。その同僚とはあまり仲が良くないのか、一方的にヤツが話しては笑うだけで、話しかけられている同僚はスマホをいじりながら生返事を返しているだけだ。意に介さず話し続けるヤツがはたと前を見た瞬間、私と目が合った。


――まさか。


 そう思うと同時、ヤツが意味ありげに微笑を浮かべる。そしてふと、犬のような可愛げのある笑顔を見せて、通りがかりの女性社員にお疲れ様でした、と言っている。全くふざけたヤツだ。


――このまま何事も起こらないでほしいんだけど……。


 背中に走る冷えた感覚を意識しないよう、足早にゲートを抜けて駅に向かおうとしたが、思い立って近場のカフェに入った。ときおり後ろを確認していたけれど、見知った顔は見つけられない。

 会社の人間でこの喫茶店を利用している人間は数少ない。一時は癒しを求めて毎日のように通っていたくらいだが、理由の一つに知り合いが少ないことがあった。

 レトロな内装で、昔ながらの喫茶店代表みたいなこの店に、遊太のようなちゃらんぽらんが来るとは思えない。先ほどまでの嫌な気配がないことにほっと胸をなでおろしながら、やってきたコーヒーを一口飲んで息を整える。


 どっしりとした深みのある風味に、心がじんわりと解きほぐれていく気がした。いつもならアルコールで面倒ごとを忘れるのに、大好きなワインもこのところ飲めていない。せっかく新居に持ち込んだワインセラーに並んだ自慢のワインも、いまだ栓が開いていないのだ。


――やっぱりワインは絶対ね。


 そう思いながら会計に立とうとすると、カランカランと店のドアが開いた。


「すみません、一人なんですけど」


 甘えるような犬声が耳に入って、とっさに頭を下げた。遊太だった。

 なぜこの店に?という疑問をよそに、キョロキョロと内装を物色しながら店の奥に案内されていく。気づかれないようメニューごしにその姿を見送ると、さっさと会計に立って出口に足を向けた。


――もう最悪……。


 不安な心をさざ波立たせるセリフが何度もフラッシュバックする。そのたびに苦い唾が込み上がってきて吐きそうになった。駅までの道も不安でしかなく、つけられてないか、さんざん確認しながら電車に乗り込んでマンションに帰った。


 ワインを開ける気にはなれなかった。

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