第3話 再会
次の日、私は予約した不動産の前に立っていた。
秋も深まった10月の正午。ビルの間を流れる風が、どこ連れてきたのか半枯れの木の葉を連れて吹き抜けていった。
久々の女子会はなかなか終わりどころが見つからず、二次会三次会と続いていき、家に着いたころにはすっかり夜が更けていた。
帰ってすぐ、酔った頭でマンション購入について調べた。瑠美がマンションを買った話が頭を離れず、いっそ引っ越してしまおうという気持ちが強くなったのだ。
重要な選択の時ほど、酔っている頭の方が冴える質だったので、ものの数十分で内見候補と面会の予約を決めてしまった。
これが男に対して発揮されていれば、どれほどよかったかと何度思ったことか。浮かんだ青臭い煩悶を買いだめしていたワインで流し込んで、そのまま眠ってしまった。
肌を刺すような風にゾワリとする。もしかすると鈴木財閥傘下との顔合わせよりも緊張しているのかもしれない。ざわつく背筋を落ち着かせるように深呼吸をして、きれいな内装が丸見えのガラス扉に一歩踏み出した。
そして5時間後、もろもろの説明を受けたり、いくつか内見している間に、4つ目の物件で『これだ!』と決めた。新築でまだ完成はしていなかったが、参考に見せてもらった類似のマンションは印象がよかった。
一回りも二回りも年上の女性に迫られ怖気づいた様子の担当者は、努めてにこやかに返した。
「もう少し見てからでもいいと思いますが……」
「いえ、ここがいいです。ここにします!」
「そこまで興奮なさらなくても大丈夫ですよ」
獲物を逃がすまいとする勢いの私を落ち着けるように両手で制した。
店頭窓口に戻るまでははやる気持ちが勝っていたが、提示された頭金を見ると落ち着いてきた。そこでようやく年下の男性の前だということを思いだした。
――ちょっと恥ずかしいことしちゃったな
パリッとノリのついたスーツを着こなす向かいの男性は、何やら細かく印字された資料を確認していた。先ほどまでの威勢がしゅんと収まった私は、図らずもその面構えにドキリとする。彼はやがて印象のいい笑顔で顔を上げた。
「資産を十分お持ちですし、年収も申し分ありませんね。ローン審査も問題ないと思いますよ」
「ありがとうございます」
さわやかな担当者に言われて悪い気はしない。一抹の不安があった私は胸をなでおろした。
これから私だけのリッチな生活が始まるのだと思うと楽しみだ。
「それで、具体的な引っ越しの日取りとかって……」
「外装はほぼ完成しているので、所定の手続きを踏めば来年の夏ごろには転居可能かと思います。まだ時間はあるので急ぐ必要はありませんが、今のうちに書類や契約などの処理は進めてしまって大丈夫です。あ、のちほど物件の契約書お渡ししますね」
「そっか、他の手続きも必要になりますよね……。書類って細々しすぎてて、ちょっと苦手なんですけど」
「必要な手続きをまとめたパンフレット等はお渡ししますし、不明点ありましたらサポートしますのでおっしゃってください。それと必ずやってもらわないといけないのが確定申告ですね」
会社員だとめったに聞きなれない単語。唐突に現れた未知のイベントの存在に少したじろぐ。京香が『結構大変なのよね~』と愚痴っていたアレだ。
「確定申告ですか……やったことないですね」
「普段はお勤めの会社が代理で行っているものですが、主たる収入外に副収入を一定以上得ていたり、生命保険やローンの控除制度を利用する際に必要になってきます。不動産ローンも該当しますね。控除を受けるためには今年の確定申告書類や源泉徴収票のほか、住宅借入金等控除証明書が必要になります。ただこの書類が届くのは来年の10月ごろになりますから、そのころに別途手続きが必要になります」
淡々と述べられる言葉は、単なる文字の羅列としか耳に入ってこなかった。手慣れた仕事の話ならいざ知らず、わからないことにはとんと弱い。長いこと一つの営業のことしか考えてこなかったからか、突然の新規イベントに思考が止まってしまう。
ただ、すぐにできない手続きがあることはわかった。ゆっくり噛みしめるように頷きながら、私は担当者に目を向けた。
「なるほど、わかりました。忘れないように気を付けないと、ですね」
「そうですね、せっかくの資産が余分に使われてしまわないように」
こちらの心配を察してか、担当の青年はグッと拳を握って励ますように言った。
――誰かに似てるなと思っていたけど……、推しのカズキくんだわ
青年の気遣いもよそにそんなことを思って店を後にした。
+++
その後、具体的な書類手続きを始めた。会いに行けるのをいいことに、オタク心をくすぐられた私はわざわざ窓口まで行って書類の書き方を教えてもらった。
推しのアイドル似の不動産社員に微笑みかけられながら、その他の手続きを進めていった。
そうこうするうちに新しい仕事が始まり、再び秋の風を感じるころ。
ようやく届いた住宅借入金等控除証明書を完成したばかりの新築マンションで受け取ると、募った達成感が押し寄せてきて嬉しくなった。
――ここから私の独身貴族生活が始まるんだ
街路樹に色が混じり始めた10月。不動産に勇み足で臨んだのを思い返しながら、私は踊る足取りでエレベーターに乗り込んだ。
大手商社だけあって、職場の入っているビルはそこそこ大きい。書類提出先の経理課は営業部よりも下の階にある。昔はエレベーターを待つのが億劫で階段を使ったりしたけれど、最近はもっぱらエレベーター移動だ。
浮足立った私を乗せた鉄の箱は、ポンと飛行機内で聞いた音を鳴らして止まった。ゆっくりと厳かに開いた扉を責め立てるように、パタパタと足音を立てて降り立つ。ちらと振り返ると、唖然と口を開けた数人の社員が閉まるエレベーターに連れていかれた。
いい年した女性が下手な踊りをしているように見えたかもしれない。恥ずかしさを咳払いでごまかして、私はエレベーターに背を向けた。
――経理課はどっちかな……
2階フロアは総務課と経理課が併設している。8階建ての6階にある営業課よりも低いからなのか、若干暗い。すりガラスが天井まで伸びた廊下の左側の部屋はまだ明るかったが、右側の部屋は灰色のカーテンを閉めているかのように暗かった。電灯に照らされて漂う埃がチラチラと見える。左右に伸びる廊下には所狭しと段ボールの山が築かれていて、今にも崩れ落ちてきそうだった。箱に貼られた紙が少し取れかかっていた。
『各位 接触注意、近日中に廃棄予定 総務』
――相変わらず激務みたいね
事務処理に追われる総務課は基本的にデスクワークだが、外部とのやり取りもそれなりにある。営業課や企画開発課が取引相手なのに対し、総務の相手は自社社員がメインになる。だからと言って外部とのやり取りがないわけではない。採用通知を見て応募してくる希望者や会社設備の管理点検を担う事業者の相手を務めるのは総務だ。ただでさえ雑務が多いのに急な対応にまで追われる彼らには、自分たちのテリトリーを整理する時間もないらしい。
経理課も同じようなものだ。社員の領収書処理や請求書の清算、契約書内容の確認など、内部外部に関わらず職務上携わる内容は多岐にわたる。
とはいえ、どちらの課にも顔を出すことはほとんどない。今回のように提出するものがあればこちらから出向くこともあるが、何もなければ訪れることはないのだ。
慣れない場所に戸惑いながらたたずんでいると、壁の途切れからひょこっと顔が飛び出してきた。
「あれ、典美じゃない。どうしたの?」
コーヒーカップを持った薫子が奥から歩いてきた。湯気の立つ黒い液体にガムシロップを入れながら混ぜている。器用なものだ。
「薫子、経理ってどっち?」
薫子は現在、総務課所属だった。いろいろなところを転々としている彼女でも、数日いれば実家同然らしく、和らいだ雰囲気が漂っている気がする。
「そっち、壁側。全体的に暗い方ね」
「何それ、皮肉?」
「窓際よりはいいじゃない」
「あなたは窓際なんかじゃないでしょ、あの席あったかそうだし」
「ただの事務員よ、いつまでも私を使わないでほしいわね」
少しだけ声を上げて抗議の意見を言った薫子の視線の先、左側の部屋の奥で総務部長の正司がチラチラとこちらの様子を窺っていた。私たちの2つ下の世代で、たびたび助けてもらった薫子には頭が上がらないのだ。
「ほどほどにしてあげなね」
「私は何もしてないわよ?」
軽口を言って別れ、経理課に足を向ける。部屋に入ってみて、暗い理由がブラインドをきちんと下げているからだとわかった。
しばらく来ていなかったのもあって、経理課には顔なじみがいない。誰に声をかければいいかわからず、手近な社員に声をかけた。
「すみません、年末調整についての書類を持ってきたんですけど」
「あ、はい。僕が対応します、こちらへどうぞ」
入り口近くで作業していた男性社員に案内され、簡単な打ち合わせスペースに通された。『どうぞ』と一声かけられ、軽くお辞儀をしながら先に座る。
「経理の高本です」
「営業一課の関口です。よろしくお願いしますね」
「……ああ、関口さんですか!お噂はかねがね」
向かいに座った高本は、一瞬間をおいて笑顔を見せた。初めのかっこつけたような口調から一転、まるで旧友に再会したときの挨拶のような明るさだった。
経理と言う職掌から遠い印象に疑問を感じつつ、改めて目の前の男を見る。
気のいい笑顔を浮かべた顔に、眉の下がった目元。撫でつけるようにセットした髪が特徴の営業と違い、癖毛を軽く整えただけの頭には軽さが感じられる。それと裏腹に理知的な銀フレームの眼鏡と、背筋を伸ばして座るさまはいかにも経理という感じだ。スーツも壮年の男性よりは色が明るく、革靴も新しめだ。全体の印象としてはかっこいいよりはどちらかというとかわいい部類の顔立ち。アイドルグループだったら黄色い声援が飛んでくるだろう。
身長の低さと童顔気味なのが相まって若く見えすぎるのかもしれない。
――犬系男子ってやつね、カズキくんと同じ
現実と偶像は区別するタイプだったが、たびたび推しに似た人間と実際に会うとまだまだ私にも春はあるのかもという期待がよぎる。もう20歳若かったら間違いがあったかもしれない。
だが、枯れ切った想いはよみがえってくることがない。理想が近すぎると、現実は霞んで見えるものだ。
それに目の前の男からは、カズキたちアイドルのような純真さとは違うものを感じた。
私は淡々とした口調で手元の書類を机に置き、本題を進めた。
「今年の年末調整で必要な書類、一式が入ってます」
「わかりました、お預かりしますね」
言いながら書類の内容をぺらぺらと何度も見返す遊太を無遠慮だなと思って見ていると、目の色が変わったように感じた。
「へえ、マンション購入されたんですか」
「ええ、もういい歳ですし。終の棲家と思って」
「もったいないなぁ、関口さんならいいお相手見つかると思いますけど」
「ううん、いいの。仕事ばっかりだし、この先も結婚するつもりないから」
「そうですかぁ」
そっけなく返すと高本も気のない様子で返してきたが、どことなく雰囲気が変わった気がする。話し方がねっとりとしているような……、気のせいだろうか。手元の資料の文字を追う目にも、品定めするような高慢さが漂っている。それに口元を抑えるような姿勢になったのも妙だと思った。
「あの、もういいでしょうか?そろそろ……」
私は早々に切り上げようとたまらず声をかけた。仕事にも戻りたかったし、何となく嫌な予感がしたのだ。
答えを待たずに立ち上がると同時、けん制するように資料から顔を上げてこちらを見てきた。
「まさかあの関口さんがね~」
「……?」
職場には不似合いな声がした。若く、明るい、こちらの庇護欲を誘うような。強者に対して甘えるような声。
どこから聞こえたのか、疑問に思う間もなく座ったままの男を振り向くと高本がこちらを見て笑っていた。
「まだ思いだせませんか?僕ですよ、僕」
「は?いや、ちょっと何を言っているのか」
「ひどいなぁ、あんなに遊んだじゃないですか。忘れちゃったんですか?」
唇ととがらせて不満をあらわにする高本だったが、質問の意味が分からなかった。第一、彼と会ったのは今日このときが初めてのはずで、遊んだ記憶があるわけがない。そもそも甘えたような声も、忘れたのかという質問も、初対面の人間に向けるような質問ではない。
浮かべたままの笑顔は、まるで気に入った女を狙う男のような顔だった。
――初対面の人間……
ふとそこで、脳をかき乱されるような感覚が走った。
平和に流れる音楽が途切れ途切れになるような、漫然と流れていた映像にノイズが走るような、突然の不快感。
パッと身を引くと、パンプスのヒールがソファの端に当たった。バランスを崩して倒れかけるも踏みとどまる。改めて顔を見ると、彼は先ほどとは前傾になってこちらをじっと見ていた。
背を丸め、両肘を膝に置いている。その顔には軽薄そうな笑みが浮かび、生意気に曲がった眼がこちらを見ていた。ぞんざいに広げられた資料の1枚が、応接用の黒いローテーブルからはみ出しているのも直そうともしない。完全に私を見ている。
「まさか、シュウタ……?」
ふと忘れたはずの名前が口から出る。まだ青さを求めていたころの、若い過ち。
「ようやく思い出してくれたね、典ちゃん」
彼の口端が上がっていくのが分かった。
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