第6話 制裁1
2月。年明けムードが落ち着いた週半ば。
仕事のピークが収まって一息ついていると、当然のように私の席に遊太がやってきた。
「どうも関口さん」
「あら、書類の確認なら課長にどうぞ」
うやうやしく腕を回して課長席の方を指さしてやるが、遊太はやはり離れようとしない。もはや定番となった隣の席に勝手に座った。
「営業課長に用なんてありませんよ。それより、マンションの近くに美味しいレストランが出来たそうですね。テイクアウトに美味しそうな安いセットが売ってたので、今日一緒にどうですか?」
開口一番そう言う彼の顔には軽薄な笑みが浮かんでいた。今すぐに握りこぶしを顔面に叩き込んでやりたかったが、なんとか本音を押し殺した。
自分は大人なのだと言い聞かせて、逆に笑い返してやった。
「ふふ、相変わらず冗談が上手ね。でも無理ね、あなたにはあの部屋は持て余してしまうもの」
「そんなことありませんよ、僕ならあの部屋を上手にコーディネイトできます。それに一人寂しく過ごす夜を楽しませられますよ」
年が明けてからエスカレートしていった文句はさらに露骨で、直接的なものになっていた。先月までだったら発狂していたに違いないが、今日の私は意気込みが違う。遊太がふんぞり返って言うセリフを鼻で笑って、無感情な視線で向けてやる。
すると遊太は何を思ったのか、急に顔を近づけてきて語り始めた。
「ねえ典美さん、そろそろ認めてもいいんじゃないですか?あなたにはもう僕くらいしかいないんですよ、目を向けてくれる人間が。結婚するつもりはないとか言いながら手広い部屋にしてるあたり、欲が見え見えなんですよ。大事に育てるための男を連れ込もうっていうのがね。
彼氏がいるわけでもないのにマンション買うような人間がやることなんてそれくらいでしょ?一人寂しく過ごす夜を忘れたい。仕事から帰ってきた自分を優しく受け止めてくれる人が欲しい。そう顔に書いてます。
でもね、そんな人待っているだけじゃやってきません。高望みすぎなんですよ。スペック高い人はすぐに理想を追いかけて失敗するんだから。
でも大丈夫、僕が救ってあげます。典美さんみたいな人、僕たくさん救ってあげてましたから。好きな映画も一緒に見てあげるし、どこかの公園で優雅な午後を過ごすこともできます。きっと帰るのは僕の方が早いでしょうから、夕飯作って待ってます。好きなお酒とか、つまみを用意して、お風呂も沸かしておきますよ。そうすればゆっくりと疲れも取れてよく寝れるでしょうから。ああ、お金の心配は大丈夫です。僕、経理ですから、上手くやりくりしてみせますよ」
可愛げを含ませた声音が耳元で震える。興奮で気分が高まっているのか、私を堕とせるという確信があるからなのかはわからない。にやにやしながら自信満々にそう言う彼に私は再び呆れながら言った。
「そんなわけないでしょ?私を誰だと思ってるのかしら、課長に聞いたことないのね」
「何の話ですか?意味が分かりませんね。どうせ営業部で無駄に予算を使いまくってる金食い虫なんでしょ?知ってますよ、関口さん名義の領収書。一人で処理するような金額じゃないですもん、明らかに金にがめつい人だ」
聞き捨てならないセリフに、私は肩にまで迫った遊太の身体を押し返して毅然と言い放った。
「失礼な人ね、私は自分に与えられた仕事をきちんとこなしているんです。人のことなんて気にかけてる暇なんてないから、自分の金額が大きいのか小さいのか分からないわ。自分がどんな仕事をしているかのほうがよっぽど大事ですから」
想定とは違う反応だったのか、固まってしまった遊太に私は間髪入れずに言い募った。言い合いを聞きつけたのか周りがざわめき始めた様子だったが気にしない。
「なによ経理だから上手くやりくりしてみせますって。あんたのお金じゃない、私が私の力で稼いだお金よ。それを独身でワーカホリックな行き遅れ女だからってつけこんで、あわよくばマンションに棲みついてお金使おうだなんて、虫のいい話だわ。
たしかに私は婚期逃した上に男運のなさが手伝って、結婚生活なんて毛ほども見えちゃいないけどね、そんなことどうだっていいわ!私の人生なんだから私の自由にさせなさい。
私にだってね、慕ってくれる人は多いし、頼りにしてくれる上司だっているの。一人映画だって一人散歩だって余裕でやってやれる、できる女なの。
ええ、そうですよ。私がこの会社のメインフラワーですよ!自分で言うのもなんだけど、私みたいな期待の星に釣り合うのはね、あんたみたいに仕事とプライベートの分別も付かない人間じゃないの。あんたなんか経理の風上にも置けないわ。うちも落ちたものね、人のお金を適当に持ち逃げしようとしちゃうトンチンカンを雇ってしまうなんてね。人の個人情報をのぞくよりも、やるべき仕事をきちんとしなさいよ」
途中から声高に、そして少し大げさに言い放ってやる。さすがにここまで言われることを予想していなかったのか、慌て出した遊太は途中で私の口を止めることもなかった。代わりにバカにされた腹いせとばかりに言い返してきた。
「ちゃんとやってますよ!僕は経理の仕事得意なんですから。言ったでしょ?課長に用なんてないって。自分のところに回ってくる書類はすぐに片付けていますし、昔から単純作業はちょちょいでしてね。今までにも問題が起きたことは一度も……」
自慢げに語り始めようとした遊太が立ち上がり、両腕を腰の位置に置いた。
しかし、右腕は何かに当たり上がらず、遊太が不思議に思うよりも先に低い怒声が響いた。
「どの口が言っとるんだ!さっさとやり直さんか!」
至近距離の爆弾に跳び上がって驚いた遊太は、右後ろにそびえる巨体につかみあげられた。その勢いに目を白黒させていたが、ようやく相手が誰だか分かったようだった。
「か、課長!?いつからそこに?」
判然としない様子の遊太をよそに、私はにこやかな笑顔で男に呼びかけた。
「あら、経理課長の周防さん。お元気ですか?」
厳つい顔で筋骨隆々な男は、部下をにらみつける態度とは変わって柔和で優しい笑顔を浮かべてこちらを振り返った。
「やあ、関口くん。面と向かって話すのは久しぶりだね。相変わらずの辣腕ぶりだと、孝一が自慢してきたよ」
「うちの営業課長は口が達者なので、いつも評価に色がついて広まるんです。おかげで私の仕事の山は全然低くなってくれません」
「ははは、わが社のエースの仕事が途絶えないことはいいことだ。妻の友人がまだまだ前線に立ち続けていると思うと鼻が高いよ」
「そういう薫子は、もう少し2人の時間を楽しみたいそうですよ」
「む、そうか。妻がそう言うなら私も仕事の配分を考えんといかんな」
「そうですね、まずは社員の刷新からしてはいかがでしょうか?」
「そうするとしよう――」
目の前で起きていることが信じられない様子で固まってしまった遊太は、穏やかに話している間ずっと周防に吊り下げられていた。向き直った周防に向かって、絞り出すような声で訊いた。
「いい、いったい、どういう……」
「どうもこうもあるか!彼女たちのチームがわが社で一番大きい取引をしとるんだ。失敗すれば経営が傾くほどのな。それほどの働きをしている彼女が切る領収書が少ないわけないだろうが!」
彼にとっては衝撃の事実だったのか、襟首をつかまれたまま情けない顔を浮かべた。私は追い打ちをかけるように横から静かに言った。
「言っておくけどこれでも減らしているの、昔の方が大変だったわ。課長が言うには、朝から夜までやっても終わらなかったそうよ。今では電子計算ソフトだとかクラウドだとか、経理処理システムや社内のやり取りもずいぶん楽になったって聞いたし。だから経理処理が大変になるわけがない。
なのにここ最近、取引先から苦情が来るようになったの、『処理が正しく行われていない件がある』って。しかも1件とかじゃない、10件以上よ。急いで履歴を調べたら、経理処理の段階でのミスがいくつか見つかって、どれもあなたが処理したものだった。すぐに上司に報告して、周防さんに伝えてもらったわ」
「な、そんなはずは……」
「周防さんも驚いていたわ、まさか自分を通さずに進んでしまっている案件があるとは思っていなかったでしょうね。ちょっと仕事ができるからって、上長の認可を得るっていう単純なお仕事もできないなんて」
わざとらしく言う私に言い返そうとする遊太だったが、首を絞めている上司によってそれはかなわなかった。
「明らかな職務怠慢、おまけに他人のプライバシーを侵害することをした上にあまつさえ自分のいいように使おうとしているとは。営業課長の孝一からも、彼女の心労は先方への謝罪をしなければいけない上に、お前のしつこさでストレスを感じているのだと言われたが、会話を見て納得した」
そこまで言って周防は改めてその厳めしい顔を遊太に近づけてすごんだ。
「厳重注意で済むと思うなよ。このまま第一会議室に来てもらう」
「……だ、第一会議室?あの部屋は普段は使われてないのでは……」
「表向きはな、内々に処理したい機密案件を処理する場合は別だ。あの部屋はこのビルで一番重いからな」
「おもい……?何がでしょうか」
「内に籠る空気と下される罰が、だ」
ひぃっ、と喉の鳴る音が小さく響く。周防の脇に控えていた部下に両腕をつかまれて、経理課の一団はそのままエレベーターに消えていった。
ドアが閉まり、上階に進んでいくのを見届けると、溜めていた息がふうっと出ていく。額に滲んだあぶら汗に確かな手ごたえを感じていた。
すると後方からちらほらと拍手が起こり、やがて部屋中を満たした。様子を見守っていた経理課と総務課の社員が、仕切りの向こうで思い思いに歓声を上げているらしい。
中をのぞくと満面の笑みで私を湛える薫子の姿もあった。横にいる白川総務課長はこれからが大変だろう。人事異動は総務課の仕事だ、どこに移すかの検討を始めなければならないのだから。
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