8:その『手』に『価値』を

 今宵の主役のスタート地点。

 ナナヌイ第四ビルを見下ろす、のっぽなビル屋上に春の夜の風が吹く。

 とはいえ、緑の風も花の薫りもない。ビルの谷間を奔り昇る、無機質で硬質な臭いばかりだ。


「どうしてこう、感動も喜びもない香りなんかね」


 支・ひなたには、その正体が分からない。

 例えばコンクリート表面を舐めると味わえる風味なのか、と不機嫌を加速させながら短い前髪を風に遊ばせる。

 手摺りにもたれながら、目を落とすのは携帯電話。

 映しだされるのは、


『前回に続いて、またもスイートアンカーが先陣を切る形となりました。

 現在、目標であるオフィスへ侵入した模様ですが、監視カメラが不調のためか、内部状況は不明瞭であります』


 現在進行形である今日の仕事進捗だ。

 無事に『世間の死角』から、スプリングテイルが侵入を果たしたようだ。

 彼が、画角から逃れる理由は幾つかある。


「スイートアンカーの実績作り、なのかな」


 背後に、突然に掛けられた言葉も、その一つ。

 驚かされた苛立ちに、目元をなおさら曲げて振り返る。


「音もなく近づくとか……だから怪盗は嫌いなんよ」

「ど派手にチンドン騒ぎすれば良いわけ? それって怪盗かい?」


 火の付かない煙草を銜えた細身のスーツ姿が、困ったね、と肩をすくめて敵意をかわしている。


「それで、現役最頂点がなんの用? リネン・マスタさん」


 現代怪盗界最上位を指す『マスター』の名を肩に掛ける男、迩達・麻繰じたつ・まぐりの姿であった。


      ※


「棘が鋭いよ、ひなちゃんさあ。前年度MVPが電撃復帰。興味、沸くでしょ。

 あーあ、警察の皆さん目を覚まして雪崩込んでいるよ。大丈夫?」


 革靴底を鳴らし、隣に並んで下を覗き込んでは愉快そうな声を。


「そろそろ終わる頃だし」

「なら派手に脱出して、彼らを外に誘導する頃合いか」

「なんで?」

「爆破するんでしょ? さすがに故意に巻き込むなんて……え? するの?」

「……現場にいるのがアンタらだったら、躊躇なくだけどね」

「こっわ、あっはっは」


 煙草を手の平で包み隠せば、興味深げに少女へ横目を向ける。


「で? なんであの超新星は表に出てこないんだい?」

「言った通り」

「俺が? 新人相棒の実績作りかあ……先方は納得するかい?」

「なにを、よ」

「今回の仕事、ターゲットの娘さんから頼まれたんだろう?」

「どこから聞いた?」

「これでも協会役員だからね。些事であれば耳に入るよ」

「……じゃあ、その子が父親からスプリングテイルの名前を聞いた事も?」

「推察だけど。じゃなきゃ、直接会いになんかいかないだろ?」


 けれど、と麻繰は首を傾げる。


「それと、新人を矢面に立たせることはイコールになるのかい?」

「矢面じゃない。最適解なんよ」

「へえ。つまり、ターゲットの『望む処』を的確に、って?」


 つまり、それは。


「稀代のサラブレットかつ昨年度MVPの『若き英雄』が盗むよりも」

「そ。無名で背後もない、ただの新人の盗んだ方が」

「価値を与えられる、か」


 盗まれる側が望むのは、手元の価値を膨らませること。

 単純な金額では、スプリングテイルに天秤は傾く。

 であるが、彼と自分の臨むのは、針を逆に向かせることであるから。


「……諦めてないんだね」

「諦めたわよ。諦めさせられて、けれど彼女が現れたんよ」

「運命的な話だ。こっちには破滅的だけど」

「ええ。首を洗っておけ、ってね」


 不機嫌と揶揄される目つきを、今ばかりは攻勢に塗って睨みつける。


「アンタらが作り出した『虚構の価値観』をぶっ壊してやる」


 そうなれば『数多の背景』を持つスプリングテイルもまた、その『価値』を減じるのだから。


「だから、スイートアンカーなんよ」


      ※


 みやの父が望む処は『現金ではない安全な資産』であった。


「つまり、倒産も離婚理由も、全部ウソだったんですか……⁉」


 聞かされたスイートアンカーは、前提の転倒に、狼狽してしまう。

 対する父親は、柔らかい物腰で首を縦に。


「もちろん。業績はなにも問題はない。つい先日に大きな損失を出したのは間違いないけどね」

「けれど、浮沈に関わる程度じゃあない」

「ええ。なんのための保険なんだ、って話ですよ。けれど、妻が感情的になってしまって」

「け、けど、じゃあ離婚なんて……!」

「まあ、家庭を顧みない仕事人間、と言われたら反論はできませんでしたよ。親権も、当然向こうだ。ま、あれですよ」


 要約すると、少女には目眩のする事実が浮き彫りになる。


「彼女は離婚する理由を探していたんですよ。若い彼氏がいるんでしょう?」

「自称事業家のね」

「え? 自称って……」

「ビジネスモデルの紹介やら、人脈の仲介やら……金回りは良いみたいだから、食う着るに困ることはないんじゃないかな」

「けれど、そんな怪しげなお仕事じゃあ、いつどこで……」


 充分な収入が途絶えた時に、あの子はどうなってしまうだろうか。


「だから、このぬいぐるみをあなたに……スプリングテイルに盗み出して欲しかった」


 怪盗の手を経由することで『価値』が生まれるだけに留まらず、厳格な所有者登録が為されることとなる。

 つまり、


「お金に困った母親が勝手に換金したりしたら、関わったお店諸共、刑法のお世話になるからね」

「ええ。安全を保証された『資産』を、あの子に渡したいんです」


 事情は呑み込めた。

 であるが、師匠たる相棒の意図がなおのこと読み取れなくて。

 不安げな目を向けると、彼は笑って手を叩く。


「だからこそ、スイートアンカーなんですよ」

「いや、しかし……」

「そうですよ、スプリングテイル! 今のお話なら、あなたのほうが……!」

「ようく聞いてくださいね。細かい事情は省きますけど、なんとこの子!」


 怪盗の『左』手が、肩に置かれる。


「親の形見を取り戻すために、警察庁に『仕掛ける』つもりなんですよ!」

「なんと」

「自分のような満身創痍と違い、将来性も発展性もバツグン!」


 手の平は、熱くて少し湿っていて、けれど力はなくて。


「信じてくれませんか、佐仲さん」


 彼の、自分に対する信頼の熱だ。

 期待と信用を一身に浴びて、胸が震える。

 冷えるよりも温かいほうが、足は前に出るものだ。


「みやちゃんのために、私も頑張りますから……!」


 父親は目を笑みに和らげて、娘の『友人』を抱き掲げてくれた。

 そっと、けれど確かに受け取る。

 重みを。

 子を思う親の気持ちを、余さんと溢さんと。

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