6:勝算も、道標も、何一つこの手に無くたって

「来たぞ! 新人が一人だ!」


 群衆の声の通り、先鞭はスイートアンカーであった。

 アンカーランチャーを用いて街灯柱にワイヤーを結びつけ、その上を滑るように突っ込んで来る。


 大方の予想、期待を裏切り、新人は単騎で現れたのだった。


「は、速いですね……!」


 靴底に設けたアタッチメントで以て、径一〇ミリの撚鉄線をレールと為し、彼女は夜を奔る。

 頬を裂く春風も、背後へ吹っ飛んでいく風景も、甲高い足裏の悲鳴すらも。

 致死を匂わせる速度だ。

 けれども、


「訓練の通りです!」


 目も、体も、恐怖心も。

 この五日の詰め込みで慣らされた。


 だから何のこともなく飛びあがり、街灯を蹴って勢いを殺す。

 ただし、地表アスファルトを踏みしめるに、遅れを生まない程度に。

 完全に停止してしまえば、高所において、危機に包囲されてしまうから。


「囲め! 進路を塞げ!」

「相手は新人だ! 舐められるなよ!」

「先輩! 俺、あの新人には『舐められ』てもいいかなって!」

「どっちかというと『られたい』かなって!」


 着地を見事に決めたなら、喝采に呑まれて警官隊の怒号が響く。

 頭数でおおよそ二十人。車両が大小合わせて六台、バリケードとして公道ごと進路を塞いでいる。


 目的地は、その先に閉ざされる巨大な格子門であり、さらに先の大邸宅。

 暗がりという死角を許さぬよう、投光器に照らし上げられた不夜の要塞。


 怪盗としてのスタートラインと定めた。

 目的に至るための、第一歩となるターゲット。


「あのスプリングテイルの相棒とはいえ、たかが新人一人だ!」

「身のこなしも素人同然! 取り押さえろ!」

 

 そう、たかが、だ。


 屈強で訓練十分な大の大人が、二十人。

 侵入を拒まんと立ち塞がるセキュリティの頑健。

 潜む闇を消し去らんと照らし上げる投光器は無数。


 たかが、である。

 行く末に目線を向けるなら、たかがこの程度。

 だからスイートアンカーは目を強く、口元を厳しく、


「スイートアンカー見参です!」


 名乗りをあげ、駆け出すのだ。


      ※


 人々の耳目が、煌びやかな今宵のステージに注がれていく。

 故に、舞台袖の闇は深く、誰の目が届くこともない。

 

 そんな、舞台から僅かに外れた人寂しい交差点。その信号機上。

 黒革で上下を揃え、目元を隠すマスクを風に揺らし、彼は微笑む。


「見えています、協会長?」


 耳に当てた携帯電話に語れば、呆れた声が返る。


『中継でね。正面から乗り込んで……強行突破かい?』

「そんな無茶はさせませんて」

『派手な突入はデモンストレーションというわけか』

「ええ、まあ。勝手口方面にゴミ集積場があって、そこからお邪魔しようかと」

『確かに先方の意向で、敷地内に警官は配されていない』

「わざわざ、そんな隙を作ってくれるんだから、新谷小路先生には頭が下がります」

『大方、さっちゃんにしてやられた、去年の意趣返しだろうさ』

「あれから建て直して、セキュリティ万端らしいですねえ」


 議員先生の俗っぽい負けず嫌いが、好ましく愉快で、思わず笑ってしまう。


 スプリングテイルの視線の先には、警官隊に追われながら件の入り口を目指す相棒の姿。


「すごい顔でしょ」

『ああ。必死で、自分の手に余ると分かっていながら、負けまいと願う……良い顔だ』

「僕は恵まれたデビューでしたから……彼女の境遇と同じだったら、あんな顔できませんよ」


 歓心を溢す。

 この胸の熱が、勢い増すのを自覚しているから。


 逃げる少女は、しかし次第にマージンを失われる。

 であるが右に左に体を廻し、伸びる手から身を躱していく。


『いい身のこなしだ』

「体幹が強いんですよ。バク転バク宙も、ちょっと教えたら軽々できましたし」

『それは有望だ。ほら、柵を超えた』


 走る勢いのままごみ集積場に蹴りあがり、柵に手をかけ、握力に任せて倒立回転で塀内へ。

 足裏が芝生につけば、膝を曲げてそのまま芝生に転がり、衝撃を吸い込んでいく。


「うん。満点だね。教えた通り」

『だがね、ここからだよ』


 警官たちは塀を越えて追いすがり。

 宅内に控えていた警備会社員が溢れ出てきて。


 行く手と引き手を遮られてしまった。


『完全包囲、だね』

「そのうえで、まだ諦めない。打開策を探るでもなく、意志だけで突破しようとしている」


 一言で表すなら、


「気が狂っている」


 あの見据える目が、抗う口が。

 この胸の炎に、絶え間なく燃料を投入してくれる。


『年頃の女の子に、失礼な物言いだ』

「これでも、控えめな言葉を選んだつもりですけどね」

『狂っている、が? それこそ狂っているだろう』

「そんなことありませんて」


 なぜなら。


「譲れない一を勝ち取るために『全て』を敵に回すと、簡単に……進学先でも決める程度の逡巡で決断したんですよ」

『メディア、警察、政界に財界。なんなら』

「ええ。僕に弟子入りなら協会をも、かな」


 それら全てを。


「信念だけでもって、現実を殴りつけようとしているんだ」


 勝算なんか。

 道標さえも。

 何一つ持ち合わせずに。


「正しく、好ましく、気が狂っていますよ」

『一目惚れか。紹介した甲斐があるね』

「ええ、感謝します、協会長。ご采配の通りです」

『よしなさい。ただの偶然だよ』


 そういうことにしておけ、という言外の微笑みに、こちらも言葉を止める。


『であるが、その『お姫様』が大ピンチじゃあないかい?』

「ええ。ええ、その通りです」


 いくら、意志で現実を殴ろうと、人垣を破る力は『今はまだ』ない。


「デビューに星を、復帰に華を、飾りに行ってきますよ」


 笑うと、音もなくアスファルトに足をつき、疾駆を開始する。

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