楽園へ 【一話読切】
大枝 岳志
楽園へ
神と人との間が今よりもずっと近かった昔の事だ。
人々は神に与えられた安息の地で村を作り、神に従いながら慎ましく暮らしていた。
村の側を流れる川の恩恵を受けながらも、土地特有の天候に激しく左右される事もあり、村はたびたび飢饉や疫病に襲われていた。
それでも、そこは神に与えられし土地。
天国へ行く為の試練だと信じながら、人々は決してその村を離れる事なく飢えや疫病に耐え忍んでいた。
洪水による疫病が人々を蝕んでいたある夏、出所不明のある噂が村を駆け巡っていた。
「村を出て東へ向かうと、神の園があるらしい」
その噂を聞いた村の人々は、かつて神によって先祖が追放された楽園を各々に思い描き始めた。
飢饉も疫病もなく、労働に追われる事もない永遠の楽園。
人々はその光景を思い描くたびに唾が喉を通り過ぎ、気が付けば焦がれ始めていた。
繰り返す洪水、飢饉、疫病。そのために村の者達が山ほど死んで行った。我々は長い間これだけの試練を耐えたのだから、楽園へ向かう事を神はお赦しになってくれるはずだ。
そうしてついに、鍛冶屋の男が園を目指して村を出て行った。
――――見つけたら必ず、帰って来る。
そう言い残して村を出た男は、とうとう戻って来なかった。
男を探す為、その家族の者達が今度は東を目指す事になった。
――――見つけたら必ず帰って来ます。
そう言い残し、村を出て行った。
しかし、家族の者達は初めから戻って来る気などなかったのだ。
楽園を見つけたから、あの人は帰って来ないに違いない。そう思い、自分達が楽園へ行ける事に期待で胸を膨らませていたのだ。
そんな家族を見送る村人の中には、彼らの後姿を妬ましく眺める者さえあった。
それから数日が経ったが、男の家族もそれから二度と村へ戻って来る事はなかった。
すると今度は村の青年団が行方をくらました家族の捜索へ出ると言い始めた。もちろん、村を出たきり彼らは戻って来る事はなかった。
どうやら、本当に東に向かえば神の園があるらしい。
村の噂は確信へと変わり、彼らはひとり、またひとり、と姿を消して行った。
杖がなければ歩けないような足腰の弱り切った年寄りさえも村を出て行き、村はやがて無人となった。
そこへ一人の盗賊がやって来た。
人のない村があるらしいとの噂を、盗賊仲間から耳にしていたのだ。
歩き続けて五日目に、噂通りの無人の村に辿り着いた。おまけに人々の消え去った家には数々の装飾品や酒が残されていた。
盗賊は金銀財宝を身につけ、残されていた酒を呑み、大声で気分良く歌をうたい始めた。
この村のすべてがオイラのものさ。
一国一城を持ったのさ。
文句があるやつぁ言ってみな。
ここには誰もいやしない。
調子を付けてそう歌いながら、寂れた通りの古びた金物屋の前を通り過ぎようとした矢先だった。
誰もいないとばかり思っていた盗賊だったが、突然「君」と声を掛けられた。
声を掛けた男は金物屋の横にある朽ち果てた白い長椅子に座り、羊皮で出来た古びた本を読んでいた。
皺だらけの顔に、大きなツバのついた黒い帽子を被っている。
盗賊は無人だとばかり思っていたため、驚きのあまり声を上げた。
「なんだい! あんた驚かせるんじゃないぜ」
そんな声に男は無表情のまま、盗賊をじっと眺め始めた。
男の小さな目は奥深く、そして暗かった。
暖かな日だったのにも関わらず、盗賊は男の目に寒気を覚えた。
あまりの寒気に身体をさすりながら、盗賊は男に尋ねた。
「あんた、村人はみんな出て行ったんじゃなかったのかい?」
「誰かの噂を聞いてね、村の者は確かに揃いも揃って出て行ったよ」
「なんでも、ここから東に向かえば楽園があるって噂じゃないか」
「どうやら、そうらしいね」
「あんたは何で出て行かなかったんだい?」
そう尋ねると、男は奥が深く暗い瞳を一気に輝かせて、にやりと微笑みながらこう答えた。
「悪魔だからさ」
その途端に風が震え出し、晴れていた空に黒い雲が立ち込めた。
盗賊は急激に変わった空模様に恐怖したが、何故か男から視線を外せずに固まってしまった。
すると、男は身動きの取れない盗賊にこう尋ねた。
「君は、これからどこへ行くつもりだい?」
盗賊は唇を震わせながら、半ば無意識にこう答えていた。
「……東の、園へ」
すると男は微笑みを絶やす事なく顔を手元の本へと戻し、静かに次のページを捲った。
盗賊は金銀財宝をその場に投げ捨て、青褪めた顔でゆっくりと歩き始めた。
こうして、東を目指す者がまた一人村から消えて行った。
村を出て行った盗賊の背中が見えなくなった頃、誰もいない通りには男の不気味な笑い声だけが高らかに響き渡っていた。
楽園へ 【一話読切】 大枝 岳志 @ooedatakeshi
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