少年と影 【一話読切】

大枝 岳志

少年と影

 夏真っ盛りにも関わらず、人の良さのせいでまた一つ失敗を重ねた。


「関口君、車使うんだろう?」


 そうやって部長が掛けた声に、新人の関口は私をちらりと見て、一瞬思い悩んだような顔をした挙句、


「えぇ。使います」


 と笑って答えた。私が使う予定だったのを知っていたのに最後の一台だった社用車は彼に取られ、私は電車での移動を余儀なくされた。当然だが、抗議もしなければ声すら出さなかった。そんな私を見ながら部長は


「あれ、まだいたの? 早く行って来いよ」


 と言ったきり、胸元で広げた新聞紙の中へその姿を消してしまった。

 発注ミスが原因で届かなかった夏休み用のドリルを届けるため、私はだいぶ長い時間を掛けて電車に乗った。山間にあるその小学校へ向かうために乗る電車にはクーラーが付けられておらず、蒸し暑い風を掻き混ぜる役と化した扇風機がぐるぐると回り続けていた。

 駅を降りると目の前に堂々とそびえたつセメント掘削用の大きな山が街を押し退けて我が物顔で私を迎えてくれた。削られた山肌に目を凝らしてみると所狭しとブルドーザーや掘削機が行き交っていて、何だか白昼夢でも見ているような気分になった。


 汗だくになってドリルを無事に届けると、校長は何度も「急ぎではないけれど、まぁ、けじめだから」と言っていた。これだから社会に一度も出たことのない「教員」という存在が私は好きになれなかった。

 けじめのために無駄になる金や時間を、この手の人間は想像出来ないのだろう。

 別れた妻の再婚相手も教員だった。別れる直前、とあるレストランの一席で子供の昌史も含めた彼ら三人は横並びになり、私と向き合っていた。


「あなたと別れた後はこの人と結婚します。判子、お願いします」


 妻の隣に腰掛ける如何にもおとなしそうな男は何も喋らず、ただ俯いているばかりだった。溜息を漏らしながら、私は昌史に訊ねた。


「昌史。本当に、ママについて行く方でいいのか?」


 小学五年生の昌史は魚のような目で、コーラの入ったグラスを見つめたまま何も答えなかった。


「なぁ、本当にいいのか?」


 もう一度訊ねてみたが、やはり何の答えも返ってこなかった。新しい男もずっと俯いたままで、口を開く代わりに妻だけが憎たらしい笑みを浮かび続けていた。


 そんな忌々しい記憶を反芻しているとどうしても心が重たくなった。

 山肌を走るブルドーザーを見て、私の心を轢き殺してくれたらいいのに、と願った。


 駅に着くと電車の時間までまだ三十分近くもあった。かと言ってこんな田舎では時間を潰すような場所も無さそうだった。茹だるアスファルトをとぼとぼと歩きながら、トタン屋根の並ぶ古惚けた住宅街を歩いてみた。途中で「喫茶」と窓ガラスに書かれた建物を見つけたものの、とっくの昔に潰れたのか中はがらんどうだった。


 結局三分ほど歩いただけで駅に戻って来てしまい、私は手持ち無沙汰になった。今朝、関口に「それはおかしいだろう」と言えていたらこんな目には遭っていなかった。妻と別れる前、彼女から「好きな人がいるの」と告げられた際も、「そうか」としか答えられなかった。


 ただ受け入れるだけが得意な人間は、それが慣れに変わった瞬間にただのゴミ箱になる。それは他人にとってはこの上ないほど、便利なゴミ箱だ。

 ひっくり返しても何も落ちないこのゴミ箱には、今となっては無数の汚れがこびりついている。初めからすべて綺麗にしてやり直すには、あまりに時間は限られている。


 小さな駅舎の待合室のベンチに座り、塞いだ気分でたいして美味くない缶のアイスコーヒーを飲んでいると外からボールが跳ねる音がした。

 気になって外へ目線を向けてみると、日に焼けた短髪の少年がサッカーボールを駅前の郵便局の壁を相手に蹴っていた。年は昌史と同じくらいだろうか。どうせ電車も来ないことだし、私は怪しまれないよう、暇つぶしに声を掛けてみることにした。


「こんにちは」


 そう声を掛けると、少年は急いでボールを拾い上げて私を向いた。オレンジ色のタンクトップが所々、汗で染みている。


「あの……ここで、やっていいって言われているんで……」

「え?」


 そう言うと少年は郵便局の壁を指差した。


「あぁ、ああ。いや、違うんだ。怒ってる訳じゃなくて」

「あぁ……そうなんですか」


 少年は何処か暗い眼差しと声でそう言って、再びサッカーボールを地面に置いた。


「君は奥の小学校の子?」

「まぁ、はい」

「おじさんはさ、みんなが使う教科書やドリル作ってる会社の人。光瑛社」

「へぇ……俺、引っ越してきたばかりだから、名前まではちょっとわからないです」

「いや、いいんだ。勉強なんてさ、子供にとっちゃ敵みたいなもんだからな。おじさんなんて悪の親玉? みたいなさ、あはは」


 努めて明るい声でそう言ってみたものの、少年はくすりともしなかった。じっと地面を見つめたまま、時折タンクトップを捲り上げて汗を拭っていた。


「君はどこから来たの?」

「俺は……西の方」

「西って、どこ?」

「岡山」

「岡山かぁ、いいところだなぁ。あれかな、お父さんの転勤とか?」


 少年は首を横に振り、静かな声で


「離婚」


 とだけ答えた。私は自動販売機の前まで歩くと、少年を手招きしてボタンを押せと指を差してみせた。少年は「ごちそうさまです」と一礼すると、グレープ味の炭酸ジュースのボタンを力強く押した。


「君は礼儀がなってるな」

「お父さん、そういのスゲーうるさいから」

「へぇ。お父さんと一緒に来たの?」

「違う」

「そっか……なぁ、座りなよ」


 待合室のベンチに横並びに座ると、微かに風が吹いて湿った香りがした。空は晴れ渡っているがこれから一雨来るのかもしれない。


「おじさん、こんな所で何してんの?」

「夏休みのドリルが足りなくてさ、届けに来たんだ。校長先生に怒られたよ」

「けじめって言われた?」

「あはは、そうそう。何回も言われてまいっちゃったよ」

「あの校長、みんなからスゲー嫌われてるよ。ドリルなんて宅急便で送ればいいと思うけど……」

「大人だとなぁ、中々そうもいかないんだよ」

「なんで?」

「なんで? なんでって、さぁ……なんでなんだろうな」

「大人ってさ、なんで自分たちでも分かってないこと平気でするの?」


 その言葉が胸に重く圧し掛かった。自分でも分かっていないこと、例えば何故妻の事実をありのまま受け入れることが出来てしまったのか。何故、別れる直前まで子供のことを気に掛けてやれなかったのか。その理由は分からないままなのに、すべてが起こり、そして過去になってしまっている。

 私は返答に詰まり、こんなことを答えてみた。


「大人なんてさ、この世界にいないんだよ」

「は? おじさん大人じゃん」

「なんていうかな、子供のままみんな実は変わらないんだよ。大人にならなきゃいけない時は大人になるってだけで」

「ふーん……全然分からないけど、だったらしっかりして欲しかった」

「しっかり? 誰に?」

「お母さん。俺、全然何も分からないままいきなりこんな田舎に来ることになったから……友達もまだ全然出来てないし」

「なんだよ、みんなに「あーそぼ」って言えばいいんだよ」

「無理だよ」

「なんで?」

「ハブられてるから……岡山の言葉喋ったらめちゃくちゃ馬鹿にされて……頭に来てクラスのヤツ殴った。それから、ずっと無視されてる」

「視野が狭いんだよ、そいつら」

「そうなのかな。お母さんは地元がこっちらしいんだけど、全然助けてくれないし……新しいお父さんと一緒になって外で遊んで来いって毎日うるさくて」

「お父さん、何してる人なの?」


 少しずつ話し始めてくれた少年の心を閉ざさないように優しく訊ねると、少年は突然黙り込んでしまった。薄暗い駅舎の券売機をじっと眺めたまま、ごくりと唾を飲む様子だけが伝わって来る。蝉の声がジリジリと左右から聞こえて来ると、カンカンという踏み切りの音も聞こえて来た。


「ごめん、電車来ちゃったみたいだ。話してくれてありがとな」

「あぁ、はい。ジュース、ありがとうございました」

「勉強、がんばって」


 そう言うと、少年は最後に首を傾げて小さくはにかんでみせた。

 電車が近づく音がして改札の中へ入り、振り返ると少年が駅舎を出る所だった。駅舎を出てタンクトップを捲り上げて汗を拭く背中を見た瞬間、私は息が止まりそうになった。


 少年の背中には無数の痣の跡があった。中にはまだ出来たばかりだと見える紫色の痣まであった。それを見つめながら、私はホームに辿り着いた電車に乗り込んだ。声を掛けたくなり、胸の奥から熱いものが溢れるのを感じた。

 駅舎の外へ出た少年に誰かが声を掛け始めた。男だ。年は四十半ばで、私とそう変わらない年齢だった。髭面でオールバックの男は夏だというのにも関わらずタートルネックのロングTシャツを着ていて、首からは金色のチェーンがぶら下がっていた。


 男と少年が立ち話をしていると思った矢先、男は少年の腕を掴んで何処かへ連れて行こうとし始めた。少年は嫌がる様子で抵抗する。それと同時に電車のドアが閉められる。少年は首を振りながら、必死に何かを叫んでいるようにも見えた。男は怒った表情で少年に何かを伝える。その途端、少年は嫌がるのを止めた。電車が動き出す。景色がゆっくりと、二人から離れて行く。


 遠く小さくなって行く少年は、その場に立ち尽くしたまま泣いているように見えている。

 思わず胃の奥の方から熱くなった声がせり上がるが、走り出してしまった電車ではそれを伝える相手はいなかった。


 景色はぐんぐんと離れて行き、やがて二人の姿は見えなくなってしまった。

 せり上がった声を、自分の心に押し込んだ。そのまま誰も乗っていない車内の窓を拳で叩くと、まだ高い陽の光がガラス越しで微かに震えて見えた

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