第2章

 都会から遠く離れた人気のない山里にある一軒の大きな家。ここがイサム博士の自宅兼研究所である。元々この家は博士の親戚が別荘として買ったものなのだが、その親戚が亡くなった後、家の引き取り手がいなかったのでそのまま博士が貰ったのだと言われている。内部は幼少の頃と変わらず、昆虫の飼育ケースが犇めき、更に薄汚く散らかっている感じが如何にも貧乏学者という雰囲気を醸し出していた。一応、博士は研究論文が海外の著名な研究者たちから評価されており、これにより研究費を稼いでいるのだと思われるが、一方で生活費が研究の犠牲になっていたようだ。

 イサム博士の研究所に到着したトオルは期待と不安に駆られていた。今回の会議で各国の著名人たちに博士のことを大々的に語ってしまったため、もしここで例の研究が失敗してしまっては大恥をかいてしまうのだ。そんな複雑な感情を抱きながら玄関をくぐると、いきなり冴えない顔の小男が飛び出してきた。

「おお、トオルはんでっか。久しぶりやな」

この胡散臭そうな関西弁で話す小男こそ、イサム・ハラダ博士である。

「よう博士、『直ぐに来てほしい』とあったから大急ぎで来たぞ」

 トオルは先程の会議でのあれこれを博士に伝えた。

「ほお、それはご苦労さん。しかしワテもとうとう世界の救世主となる時が来たようでんな」

どうやら昆虫好きな博士もまた、この度の異常発生騒動に興味津々だったようだ。しかも「世界の救世主となる」と豪語していたことから、この騒動に対する取り組みが本気のようであることが伺える。

「トオルはん、いよいよワテの長年の研究の成果を見せたるで」

そういうと博士はトオルをこの家の地下に連れて行った。

 地下にあったのは得体の知れない巨大な装置だった。まるで一昔前のSF映画とかに出てきそうな巨大なマシン・・・といえば簡単に伝わるだろうか。そんな装置を前にして、博士は自慢げに胸を張って立っていた。

「これは凄いメカだな。博士、コイツは一体何なんだ?」

「聞いて驚かんといてや。これぞワテの自信作、昆虫語翻訳装置『バグリンガル』や!」

博士の自信に満ち溢れた叫び声が地下室中に反響した。

 昆虫語翻訳装置。この言葉を聞いてトオルは期待に胸が高鳴ると同時に、安堵感を覚えた。これで会議で自分の言ったことが少なからず嘘ではなくなった。そして「バグリンガル」という名前は「虫」を意味する「バグ」と「二種類の言語を話すもの」を意味する「バイリンガル」を組み合わせたのであろう。本来「バグ」というのは精密機械にとっては忌み語同然なのだが、ネーミングセンスを重視した博士のアイデアだから仕方がない。

「この機械はどうやって昆虫の『言葉』を訳するのだ?」

「ええ質問やな。まずこのステージに対象となる昆虫を置く。その昆虫をサーチカメラが観察し、人工知能が昆虫の種類や雌雄を特定するんや。そして昆虫の脳波を読み取ることで昆虫の感情を分析し、そして最終的に昆虫の『言葉』を人工音声で我々の言語に訳する。まぁ、大まかにいえばドエラい科学力を駆使してのテレパシーを使うてるようなもんやな」

「へぇ、昆虫の脳波から感情を読み取るのか。しかし驚いたな。こんな小さな昆虫にも脳波があって感情も持っているとはな」

「それなんや。昆虫は我々人類のような高等生物と違うて言うほどの知能はないと言われてるかもしれんけどな、昆虫の脳ほどハイスペックな代物はないんやで。我々人類の脳には一千億程のニューロンで構成されているのに対して、昆虫の中でも大きな脳を持つと言われているミツバチのニューロンは九十六万程、ショウジョウバエのニューロンは十万程だと言われておる。このように人間のと比べたら昆虫の脳なんてちっぽけなもんなんやけどな、そのちっぽけな脳を駆使して昆虫たちは考え、そして世界を学んできたんや。事実、かなり複雑に出来ている昆虫の脳は古くより脳研究の題材となったんや。あと昆虫の感情についてもおもろい研究報告がある。イギリスの研究チームがマルハナバチに餌である砂糖水を与えていくうちに喜びを体で表現する、すなわちマルハナバチはポジティブな感情を持つことことが判明したんや。それ以前にもミツバチがネガティブな感情を持つことがわかっていたんやけどな、ポジティブな感情を持つ昆虫がいたんやで。さらにマルハナバチは天敵に襲われた後だと、餌を与えられた個体の方が恐怖体験からの回復が早かったことから、ポジティブな感情がネガティブな感情を打ち消すこともわかったんや。」

 昆虫の知能と感情に関する博士の説明にトオルは興味津々であると同時に、驚きを隠せなかった。

「でな、実はワテもこの度の異常発生が気にのうて色々と調査してみたんやけど、エラく驚いたわ。こやつらは根無し草のごとく飛び回っとるんやない、明らかに何らかの『意思』を持って活動しとるんやと。」

「何らかの『意思』だと・・・」

「せや。しかもここ最近の異常発生でそれが顕著となっておる。特定の種類の昆虫がある場所に限定するかのように異常発生が起きとってな、アリのようにフェロモンで場所を伝える昆虫ならまだしも、明らかにそうでないバッタやカブトムシまでもそんな風になっとるんや。それでワテ思ったんやけど、もしかしたら昆虫たちは年々、知能を発達させておるんやないかと。まぁ、まさか人間並みのおツムを持つのは流石に無理やけどな」

博士の言葉にトオルは唖然とした。何せここ最近の昆虫は知能が発達しつつあるというのだ。たかが昆虫一匹と侮ってはいけない。トオルは心の中で念じるのであった。

「さて、前置きが長くなったようやな。ではお待ちかねのバグリンガルのテストプレイといこか」

 お待たせしましたと言わんばかりに博士はバグリンガルのメインスイッチを入れた。巨大なマシーンが不気味な唸り声を上げ始めた。

「実験第一号はこのミツバチはんや」

博士は冷蔵庫の中で冬眠状態となったミツバチを取り出し、ステージに設置した後、透明なドーム型の蓋を置いた。博士によるとこのミツバチは知り合いの養蜂家からの借り物らしい。温度が暖かったのか、次第にミツバチは元気になっていった。

「今、センサーがミツバチはんの動作や脳波を読み取っている。そこから人工知能が感情を分析し始めているところや」

さっきまで不気味な唸り声を上げていたマシーンは、今モールス信号のような単調な機械音を発している。暫くして、バグリンガルは急に黙り込んだ。

「解析が終わったようやな。いよいよ昆虫の言葉を聞くことになるで」

博士は胸を躍らせながらスピーカーをオンにした。するとスピーカーが言葉を発し始めた。

「おや、もう春なのかな。急に寒くなったから眠りについていたのだが・・・」

スピーカーから中年女性の声が聞こえてくる。

「おっ、これがミツバチの言葉なのか・・・。しかし女性の声にセットされているのか」

「このハチは働きバチなんや。ハチやアリは女系社会といわれて、基本的にメスが社会を担っとるんや。オスは生殖活動に駆り出されるのでんな。このバグリンガルの人工知能には様々な昆虫のデータが搭載されている。そこから昆虫の雌雄や幼虫・成虫を判別した後、自動的に性別・年齢に合わせた人工音声をセットするのや」

博士が説明している間にも、スピーカーからは中年女性の声が鳴り響いていた。

「ねぇ、ここは一体どこなんだ? 仲間たちがいる巣箱じゃないのか!」

博士は機械を停止し、ドームからミツバチを取り出し、すぐさま飼育ケースにしまった。

「どや、バグリンガルの出来は? 現段階ではこのサイズやけど、いずれ改良していけば誰でも持ち運び可能になるんやさかいな」

「イサム博士、これはすごい発明ですよ! これはノーベル賞間違いなしです! これさえあればあの異常発生の謎が解ける日はそう遠くないですよ!」

「そりゃおおきに。これにてワテが救世主となる時にリーチがかかったようやな」

こうして異常発生の謎を解明する男と彼の活動を見届けようとする男は高笑いするのであった。

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