バグリンガル

ケン・シュナウザー

第1章

 現在地球には約一〇〇万種の昆虫が生息している。そして毎年約二万種の昆虫が新種として発表され、約五〇万種の昆虫が絶滅の淵に立たされていると言われている。

 地球は昆虫たちの惑星であると言っても過言ではない。


 今よりそう遠くない未来。科学文明社会を築いた人類はある問題に直面していた。

 ここ昨今における昆虫の異常発生である。春から夏、夏から秋にかけてチョウやガ、ハチや甲虫類、アリやトンボやバッタなど、多種多様な昆虫が夥しい数の群れを成して彼方此方で蠢いていく。その異常発生ぶりは年を追うごとに激化していき、特に大都会で昆虫たちが蠢いている様は、大の虫嫌いは勿論、どんな人間も街中を歩くことが出来ない程だ。

 問題はそれだけではない。作物を食い荒らす虫たちに農業関係者たちが、砂糖を求めて群がるアリたちに菓子職人たちが、木造住宅の梁や柱を食い潰すシロアリたちに家の主たちが頭を抱えていた。また衣服や書物の虫害も深刻化し、博物館及び倉庫業関係者は物品の保存技術の改良に急ぐ羽目になってしまうのであった。勿論、病原体を媒介するハエやカ、ゴキブリなどの害虫、ドクガやスズメバチなどの毒虫たちに人々は怯えるようになった。

 この事態について、このような噂が誠ひそかに囁かれていた。この事態を嬉々としているのは昆虫研究者や虫マニア、夏休みの自由研究に勤しむ子供、そして殺虫剤メーカーくらいであると。

 昆虫たちの異常発生が落ち着いてきたある日、日本のある都市で国際会議が行われた。昆虫学をはじめとするあらゆる学問の権威たちが世界中から集い、なぜ昆虫たちは異常発生し、そして我々人類はどのような解決策をとればいいのかについて議論するのであった。

 この昆虫の異常発生の原因は何か。地球温暖化による異常気象や環境の変化により、地球が悲鳴を上げている証拠なのか。人類による長年の自然破壊行為に対して、大自然による人類への報復活動なのか、はたまた大地震や火山の破局噴火、果ては隕石の衝突や未知の病原体の蔓延、異星人の侵略など、文明崩壊レベルの天変地異が起こる前触れなのか・・・

 様々な仮説が飛び交う中、ある科学者がこう言った。

「もしかしたら昆虫たちは何かを我々に伝えようとしているのではないのでしょうか。我々がこの世界で生きていく重要な何かを」

「ほう、それは一体何なんだ。具体的に説明してほしい」

「そうですね・・・。そうだ、現在こうして世界中の学者たちが、世界各地で起こっている共通の問題について論じているではないですか。つまり昆虫たちはあえて大量発生を起こして人類を悩ませることで、我々は国境や人種を越えて一丸となれる。こうして争いのない平和な世界を築くことが出来る。要するに昆虫たちは平和の使者なんですよ」

彼の持論は有力な説であるかのように会場にいた誰もが感じた。しかし結局彼の持論もまた仮説に過ぎず、ある者は「所詮は子供の発想だ」と一笑した。

 こうして異常発生の原因も解決策も見つからぬまま時間だけが過ぎていき、この国際会議も大昔のとある会議よろしく「会議はおどる、されど進まず」という形で終わろうとしていたその時、

「一つだけ方法があります!」

会場にいた誰もがはっとした。先程の一笑された説を唱えた科学者の隣にいた環境ジャーナリストのトオル・イワモトだった。

「一つだけ方法があるだと?」

「それは一体何なんだ」

 会場が何かを期待する雰囲気となった後、トオルはこう言った。

「この事態の原因と解決策を知る唯一の方法、それは『昆虫たちに訊いてみる』ことです」

 トオルの発言のあと、会場は静まり返り、そして爆笑の渦に包まれた。

「おいおい『昆虫に訊いてみる』だってよ。こいつ本当に正気なのか」 

「何かいいアイデアが出るかと期待していたのだが、期待した私が馬鹿だったよ」

「そりゃ最も手っ取り早い方法だと思うよ。ただし我々昆虫と会話できるのであればな」

会場では笑い声とともにトオルへの揶揄が飛び交った。それもそのはずである。「子供の発想」と一笑された先程の「昆虫は平和の使者」と論じた科学者の説よりも、トオルの発言はとても子供っぽかったのだ。

 しかしトオルは周囲からの揶揄にめげず、主張し続けた。

「確かに馬鹿げているように聞こえるかもしれません。しかしその方法を実現しようとしている者がいることを知っています」

「ほお、そいつは一体誰なんだ」

「私の知人で『新時代のアンリ・ファーブル』との呼び声高い昆虫学者、イサム・ハラダ博士です」

そしてトオルはイサム博士について延々と語り始めた。

 イサム・ハラダは幼少期から虫が好きだった。その虫好きぶりは常人の倍以上と言っても過言ではない。小学生の頃、教室の彼の机の中からは大量のカマキリやコガネムシが出てきて、教師や周りの児童を困らせたことがあった。別に他の生徒から嫌がらせを受けていた訳ではない。イサムが自ら持ち込んで机の中に隠しこんでいたのだ。自宅の部屋には様々な虫を収容した飼育ケースが犇めき、時々虫たちがケースから逃げ出すので、家族を困らせたこともあった。大学院に進学し、念願の昆虫学者になった時にトオルとイサムは知人の関係となった。この時のイサムは最早昆虫に残りの人生を捧げるかのような意気込みであった。これは同僚からの噂なのだが、何せ恋人が出来たものの、彼女そっちのけで昆虫に愛情を注いでいたので、彼女も愛想を尽かした程である。まあ、彼は昆虫が恋人のようなものだから仕方がないのかもしれないが。それからというもの、イサムはトオルとの交友を除けば、人間との関係は完全に疎遠となっており、最早隠遁同然の生活を送っているかのようであった。

 そんな彼が現在熱心に取り組んでいることは「昆虫との会話」の研究である。これはトオルだけに明かしてくれたことだが、かつて犬や猫の言葉を翻訳する機械があったように、昆虫にも特殊な言語存在し、それを解読できる装置を開発出来るのではないか。実際コオロギやスズムシ、キリギリス等のオスは鳴くことにより自分の存在を周囲にアピールし、メスを誘ったり縄張りを示している。またホタルは発光することでメスを誘い、ミツバチはダンスをすることで意思伝達をすることが出来、アリはフェロモンを分泌することで仲間たちに餌の在り処を伝えることが出来る。このように昆虫には我々人類の言語能力に匹敵するかそれ以上のコミュニケーション能力を駆使することが出来る。なので近い将来、昆虫と人類がコミュニケーションをとることが可能になるというのが彼の見解である。

 トオルは一通り、イサム博士について説明した。さっきまでトオルの発言を嘲笑したり揶揄していた者たちは皆、一斉に黙って彼の説明に耳を傾けた後、大変納得したような素振りを見せるのであった。何せ先程の「昆虫は平和の使者説」を唱えていた科学者より子供じみたように聞こえていたはずの彼の発言が、今度は科学者の説より十分真面目に聞こえていたのだ。イサム博士の研究が実用化されたら、昆虫大量発生の謎の究明は勿論、今後は昆虫研究や養蜂業、果ては小学生の自由研究の場面で役立つこと間違いなしである。しかしそのような研究者が今回の会議を含めて、表舞台に姿を現さないのは、彼の説明にあったように人間関係が疎遠となっていたのに加えて、ここ最近は例の研究に年月をかけて専念していたのが最もらしい理由だろう。

「先程は君の主張を嘲笑ったりしてすまなかった。しかしこの研究が事実だったら、是非イサム博士とやらに期待したいところだ」

「ありがとうございます。博士にも後で伝えておきます」

 こうして異常発生の件は「イサム博士の研究の成果次第」という結論に至り、会議は終了した。そしてトオルが会場から出た直後、スマホに着信が入った。どうやら博士から「直ぐに来てほしい」という旨の連絡であった。トオルは直ちにタクシーを拾って、博士のもとへ急いだ。

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