第91話 敗北者は離れたところから輝きを見る
怒鳴り続ける人は、工事現場で現場監督にこっ酷く叱られた30代のデブ男。
「葉山翔太!お前みたいな人間クズが社会に出たらよ!この世の中はもっと腐ってしまうんだよ!俺みたいな我慢して泣き寝入りする善良な人がもっと傷ついてしまうんだよ!」
2階にある翔太の部屋からでも鮮明に聞こえてくるデブ男の声に、二人は体が固まる。
「兄貴……これは一体……」
「全部近藤のせい……全部近藤のせい……」
とっくに壊れて布団を被っている翔太を見て夢も希望もない表情で小さくため息をつく真凜。
だが、彼女に隙を与えまいと、デブ男は続ける。
「葉山のクソ野郎!開けろ!殺してやる!早く開けろ!」
続くデブ男の叫び。
この場に置いて頼れる人は存在しない。
「おい……葉山翔太!てめえはこの世の中におけるガン細胞のような存在だよ!お前みたいなクソが調子こいて他人をいじめたら、またてめえみたいな他のクズ予備軍がそれを見習って同じことを繰り返して、俺みたいな正しい人が被害を被るんだ!」
「な……なにを言ってるんだあいつは……」
デブ男にバレないように布団の中で小声で呟く翔太。
デブ男はそんな彼に聞こえよがしに言う。
「お前を最も残虐なやり方で殺してやる!そして、お前が近藤樹たちにやったように、お前の姿をネット上にばら撒いて、DQN野郎に恐怖を植え付けてやる!あはは!!そうすれば、世の中で寄生するお前と似た人たちが自分もいつ殺されるか知らない恐怖を感じるんだろうな!!あははははは!!」
「ああ……」
「兄貴……」
翔太は布団の中でお漏らしをしてしまう。
「ああああああ……あああああああああ……俺のせいじゃない……俺のせいじゃない……俺のせいじゃない……俺のせいじゃない……俺のせいじゃない……」
極度の緊張状態の翔太にトドメを刺すデブ男。
「俺が生まれたのは、お前を殺すためだああああああああああ!!!!!」
そして、デブ男は玄関ドアを壊す勢いでまた叩く。
恐怖に襲われた翔太の部屋。
恐怖映画に出てきそうなこのシチュエーションは5分間続く。
その間、真凜と翔太はなにも喋らず、爆発寸前の心臓を抑えていた。
すると、興醒めしたデブ男がため息をついて、さっきより小さな声で話す。
「なんだ。誰もいねーのかよ!ちぇっ!」
そう言ってデブ男は、持ってきたナイフを2階のベランダに投げつけた。悔しい気持ちをなんとか紛らすための行動だったが、ナイフは、翔太の部屋と繋がっているベランダに落ちてしまった。
鋭い音がしたので、真凜はそれが刃物であると一発で気づき、さらに体を震わせる。
兄はというと。
すでに気を失っている。
こんな感じで10分ほどが経過した。
周辺からお隣さんたちが話している声が漏れ聞こえる。
ということは、デブ男はここから去った可能性が高い。
どうしよう。
両親に知らせようか。
警察を呼ぼうか。
いろんな思惑が交錯する中、
真凜の頭の中には一人の男の姿が浮かんだ。
だけど、その男はすでに遠くへ行ってしまった。
「私のせいだ……私が……」
もちろん、自分の兄は自業自得だ。
だけど、
近藤樹とのことは……
「……」
唇を噛み締める真凜は、何か決心したように握り拳を作り、玄関へと向かう。
震える手をなんとか落ち着かせて、力強くドアを開ける真凜。
そこにはデブ男はおらず、お隣さん数人が心配そうに彼女を見つめる。
「あの……大丈夫?」
「ここで結構大きな声、聞こえたけど」
と聞いてくるお隣さんに真凜は
「大丈夫です……」
そう答え、玄関扉に鍵をかけて走り出した。
良心の呵責を覚える真凜だが、走る速度は実に早い。
彼に会って話がしたい気持ちもあるが、
それ以上に、針の筵のような自分の家から抜け出したい気持ちも勝るとも劣らない。
X X X
樹side
相変わらず俺は筋トレ中だ。
世俗を離れ、携帯も知り合いとやりとりする以外は使っておらず、まるで修行僧になったつもりで体を鍛えているのだ。
日曜日である今日も俺のルーティンに変わりはなく、朝にはジョギング、そして昼がくるまではパーソナルジムを経営するための本を、昼からはみっちり筋トレ。
もうすぐ自宅謹慎が解かれる。
学校に行けば、俺はどんなふうに見られるんだろう。
まあ、俺は人を殴ったんだ。
きっと多くの人が俺を避けることになるだろう。
問題児として、先生に監視されながら不自由な学校生活を送ることになるだろう。
でも、それらは俺にとってなんのダメージも与えない。
俺を苦しめるのは、
学のやつ。
啓介は俺を嫌いになってないと花音が言ってくれた。
でも、学は……
「ふう……」
学のやつのことを思うと、筋トレに身が全然入らない。
もうすぐ夕食の時間だ。
スポーツドリンクを飲むべく上半身裸状態で俺は部屋を出た。
リビングに入ると、すごい光景が目に入った。
「母さん……なんだよこれは?」
「あ、樹!筋トレ終わった?」
「あ、ああ……そうだけど、この寿司はなに?」
目に見えるのは、ものすごい量の寿司。優に10人前は超えそうだ。
父さんはキッチンにあるテーブルに飲み物や割り箸などをセッティングしている。
「おお、樹、お前も手伝ってくれないか?」
父さんに言われて俺は小首を傾げて答える。
「知り合いでもくるの?」
「ふふ、サプライズだよ」
「サプライズ?」
俺が聞き返すと、ちょうど玄関からチャイムが鳴った。
「あら、きたみたいよ!」
「そうだな。樹!行ってこい」
「俺が?」
「ああ。そのまま行ってこい!」
なので、俺は言われるがまま、玄関へ向かい、扉を開けた。
すると、そこには
「「こんばんは!」」
環奈、学、花音、立崎、三上、環さんが明るい表情で立っていた。
「みんな」
戸惑う俺に、環奈が前髪を掻き上げて、笑いながら言う。
「樹、SNS見てよ」
「SNS?」
「うん」
「携帯、部屋にあるけど……」
「今すぐ見てほしいの。私が貸してあげるから」
「お、おう」
一体、何を俺に伝えたいんだろう。
疑問に思う俺に環奈が近づき、俺に携帯を渡してくれた。
「樹の名前で検索して」
「お、おう」
あの忌まわしき事件があってから、SNSのアプリは開かないようにしていたのだが、まあ、彼女の命令なら致し方あるまい。
なので、俺はSNSの検索欄に俺の名前を記入して検索する。
「なっ!!なんだこれは!!!!!!」
俺は開いた口が塞がらなかった。
俺が葉山を殴って事件で、俺の知っている情報から、俺の知らなかった情報までいろんな書き込みがあり、炎上騒ぎになった。
俺と花音のツーショット写真、葉山を貶す内容と彼の個人情報、ファンタジアの原作者が啓介であること、先生が葉山に脅迫されて俺にだけ罪を被せたこと、葉山が過去の俺たちに暴行を加える動画と画像、インタビューを受ける学。
しばしの間、俺は立ったまま指を動かし、それらの書き込みを一通り見た。
「近藤くん気づくの遅い!」
腐女子こと三上がぶんむくれて文句を言った。
「まあ、そのおかげでこんなサプライズができたわけだから、よしとしましょう」
立崎が俺をフォローしてくれた。
自宅謹慎くらって以来、頭を空っぽにするために、ニュースとかSNSとか全然見てなかったわけだが、一人くらい教えてくれてもいいじゃないか。
俺は自嘲とも苦笑ともつかない笑いを浮かべていると、花音が言う。
「世俗を離れて筋トレに邁進する師匠……とても格好いいです!私も師匠に倣い、スランプに陥ったら、師匠と共に缶詰になって筋トレを……」
「いや、しなくていいから……」
俺が早速否定すると、花音は頬を少し膨らませたが、やがてにっこりと笑む。
「樹、見ない間に少しは成長したかしら?ふふ」
そう話しかけたのは、環さんだ。
色気が増した気がする。
いつもは、ここらで環さんに一発食らわせるところだが、今日の俺は一味違う。
「はい。自宅謹慎の間、いろんなことを学ぶことができました」
すると、環さんは頬を緩めた。しかし、やがて拗ねたように頬を少し膨らませてふいっと目を逸らす。
「ふん〜そうなんだ。まあ、いいわ。本当……いつまで待たせる気よ……」
環さんはもどかしそうに息を吐いて、腕を組む。強調される胸は、なんだか以前より大きい印象を受ける。
まあ、彼女の言ってる意味は俺と環奈くらいしかわからないだろう。
後で壊れるまで仕込んでやろう。
そう思っていると、突然、裸になっている上半身に極上の柔らかさが襲ってくる。
環奈が俺に飛び込んできたわけである。
「環奈……」
「私、樹の彼女だから、樹のために頑張った!」
彼女が俺のために具体的に何をやったのかは分かりかねる。だって、環奈は言ってくれないのだ。
だけど、これ一つだけは確かた。
身震いしながら、俺を強く抱きしめる環奈はきっと、俺を助けるために、血の滲む努力をしたのだろう。
だから、今は何も聞かず、
彼女を抱きしめ返してやろう。
そう思った上半身裸状態の俺は、環奈の背中に腕を回して、強く抱く。
「っ!」
環奈は最初こそ驚いたが、やがて、俺に自分の体の全てを委ねた。
そんな俺たちを見て、学が人差し指を立てて俺に向ける。
「近藤樹!!」
「な、なに」
環奈を抱いてる俺が気に食わないのか、それとも何か話したいことでもあるのか。
俺が心配そうに学を見ていると、彼が口を開いた。
「俺とお前は対等な関係だ!俺もその気になれば、お前を助けられる!これまでお前に助けられっぱなしだったけど、今は違うからな!」
と言って満足気に鼻で息を吐く学は、俺を見て優しく微笑んでまた口を開く。
「全く!手のかかるやつだ。樹!」
「お、お前……」
本当、ずるいやつだ。
環奈あたりから涙を必死に堪えていたのに、そんなこと言われたら、もう我慢ができなくなるじゃねーか。
「バカが……俺はお前のことを下だと思ったことは一度もないんだよ!」
そう言う俺の頬には涙が流れていた。
しばし感動的なシーンが流れた。
落ち着きを取り戻した俺が環奈を離してあげると、腐女子こと三上が視線をあっちこっちに移動させながら言う。
「そういえば静川くんは?」
実は俺もずっと気になっていた。
「お兄様は、ここに向かう途中、編集者の方から電話がかかってきまして……おそらくもうすぐ来ると思います!」
なるほど。
啓介も来てくれる事実に嬉しさを覚える俺は、前に立っているみんなを手招き、中に入れた。
X X X
真凜side
「私が入る空間はない……あそこに私の居場所なんかない……話しかけられない……」
樹の家の近くにある電柱に隠れてさっきの樹たちのやりとりを全部聞いた真凜は、悲しそうに呟いた。
「私……なにやってるんだろう……今までなにをやってきたんだろう……」
と、電柱を握っている手により一層力を入れながら真凜は顔を俯かせる。
「私……私……」
エメラルド色の目を潤ませる真凜。
そんな彼女の後ろから、聞き覚えのある声と単語が聞こえてくる。
「この敗北者」
追記
今日も長かった!
真凜、どうなるんかな
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