第30話 彼女の知らない彼の一面
俺の脳を痺れさせる甘美なる環奈の吐息を味わっていると、やがて彼女はすがるような視線を送って口を開ける。
「なんで、ダメなの?」
「……知らないのか?」
「うん……私、知らない。なんで?」
切ない表情で俺に答えを求める環奈。
まるで、親に知らないことを聞く子供のようだが、俺の体に伝わるこの感覚は、彼女が幼い女の子ではいことを教えてくれた。
答えを知りたいなら、
教えてあげるだけだ。
俺に後ろから抱きしめられている彼女は綺麗な目で俺をずっと捉え続ける。下手をしたら吸い込まれてしまいそうな深い青色の瞳の下にはツンとした形のいい鼻。そして、その下には
ツヤのある唇。
その果実を
俺はなんの躊躇いもなく貪った。
「っ!」
これまで味わったことのない甘い味がした。
俺の心を癒すような優しい味。
彼女は
目を瞑ったまま、俺を受け入れてくれている。
これは単なるキスだ。
転生前は、関係を持つ時に飽きるほどしていたはずなのに、
どうしてこんなに心が温かくなるんだろう。
この時が永遠に続けばいいのにと、心のどこかで囁いた。
だが、
俺の幸せはそう長く続かない。
外から野球ボールが飛んできてガラスを割った。
ものすごい音がした。そのはずみに、環奈は俺の舌を強く噛んだ。
「っ!」
「んはっ!ご、ごめん!樹、大丈夫?」
「は、ああ。俺は平気だ」
「結構強く噛んだと思うけど……本当にごめん。私……初めてだから、その……どうすればいいのかわからなくて……」
「いや、いいって。それより怪我はないか?カーテンのおかげで破片は飛んできてないと思うが……」
「私は……大丈夫よ」
自分の髪をいじりながら申し訳なさそうに答える環奈の様子を見た俺は安堵のため息を一つつき、彼女を解放してあげた。
すると、環奈は名残惜しそうに俺をチラチラ見ては、誤魔化し笑いを浮かべる。そして遠慮がちに訊ねる。
「もうそろそろ帰る?」
「あ、ああ。そうだな。でも、このままでいいか?ガラス割れちゃってるけど」
俺が窓の方に指差して言うと、環奈は悩ましげに腕を組んで考え考えした。
すると、外から予想外の人物2人が現れた。
「やっば……戸開いてるし、中に人いるのかな……」
「今日の日直は環奈だから、もし怪我したらマジで許さんから!」
「ごめんごめん……」
野球部のユニフォームを着た真斗と金髪の葉山である。
金髪の葉山は俺たちの様子を見て、目を丸くした。そして俺に対して人差し指を立てて問う。
「な、なんでお前が環奈と一緒にいんだよ!?」
戸惑う葉山の表情を見て、俺はこともなげに言う。
「立崎に頼まれて日直代わりにやってるだけだ」
顔色一つ変えずに放った俺の言葉を聞いた葉山は俺と環奈を交互に見て、蔑んだ目を向けてきた。
「俺の幼馴染に何か変なことしてないんだろうな」
また俺をいじめる時のように見下す態度をとる葉山に俺は敵意のない話し方で言ってあげた。
「別に、何もなかったよ」
俺がもし、普通の高校生ならこの状況にうまく対処できるはずがないんだが、転生前の記憶を引き継いでいる俺は一味違う。
いわゆる大人の余裕ってやつだ。
隣の環奈が謎の視線を俺に送ってくるのがちょっと気になるが、今はこの場を丸く収めるのが大事だ。
「い、いや……何もなくないだろ……近藤さんの口から血、出てるし……」
「え?ほ、本当だ」
「ご、ごめん!俺が飛ばしたボールのせいで……」
野球部のユニフォームを着た真斗は頭を下げて、謝罪した。
まあ、彼が飛ばしたボールに直接当たったわけじゃないが、かといって無関係だとは言えない。
彼は俺がボールに当たっていると思っているだろう。
頭を上げて、恐る恐る俺を見つめる真斗に俺は小さく息を吐いてから口を開いた。
「わざとやったわけじゃないということは知ってるけど、次からは気を付けろ」
「あ、ああ……これから注意する」
再び頭を下げる真斗。葉山は彼と俺を交互に見ては、唇を噛み締めて悔しそうな表情を浮かべた。
環奈は、少し驚いたように俺を見つめて口を半開きにしている。
しばし経つと、警備員さんや他の先生、野球部の顧問などがここにやってきて色々と質問してきた。
俺がファールボールに当たって傷を負ったということになればおそらく大事になってしまうだろう。
そういう流れに持っていくこともできるが、俺もそこまで鬼じゃないので、怪我人はいないということにしてあげた。
職員室で先生と話しをした後、俺たちは帰路についた。
X X X
神崎家
家についた環奈は、鞄を下ろしてリビングに向かい、早速ソファーに腰掛けた。このソファーは樹が食事をするために訪れた際に彼が座ったものである。
「樹と一緒に下校したかったな……」
そう小声で言って、隣にあるクッションを抱きしめる環奈。
翔太は真斗と遊ぶ約束をしたため、樹と二人きりになったが、彼は何食わぬ顔で家へと向かった。
「樹って本当に……すっごいよね……」
今日は今まで知らなかった彼の一面を知ることができた。
『環奈、男の前でそんな顔は見せちゃダメだよ』
その声を聞いた時は身体中に電気が走ってしまった。
言葉一つで、自分があんなふうになるなんて初めてだったと、環奈は余韻に浸るように熱いため息をついた。
これまで見てきた近藤樹という男の印象は優しくて頑張り屋な男だった。
だが、今日の彼は、まるでか弱い羊に牙を立てる狼のようであった。そんな彼は、自分の唇を貪った。
慣れた動き。
これからどうなるんだろう。
この先に何が広がるんだろう。
と、あの時は爆発寸前の胸を落ち着かせることもできずに、未知の世界に想いを馳せてみた。
不思議なのは、嫌という気持ちは全くなかった点。
「はあ……」
それだけじゃない。
自分の未熟さゆえに、彼の舌を思いっきり噛んでしまい、傷を負わせた。だが、彼は動揺する様子は見せず、急にやってきた葉山とその友達に対して堂々と振る舞った。
クラスでキスした直後で、気が動転してしまい何も言えずじまいだった自分とは違い、樹はとても大人しかった。
『別に、何もなかったよ』
高校生離れした言動。怯まない勇気。
彼の言葉は二人を圧倒していた。
その場面を思い出す度に、心がもどかしくなる。
そんな彼が
自分の体と唇を……
環奈は静かに自分の胸にそっと手をのせてみる。
自分の細い指などあっという間に飲み込ませてしまうような大きな胸だが、彼の手は違った。
自分のものとは比べ物にならないほどの広い手で、遠慮なしに……
「っ!」
ずっと身体中を駆け巡っていた電気は、特定のところに集まり、より強い刺激へと変化していく。
近藤樹。
自分を導いてくれる男。
あんなにイケメンで優しくて、身体もよくて、男らしい。
ああ、
嗚呼……
これは
お母さんでも惚れてしまうわ。
ふと、そんなことを思いながら、身悶える環奈であった。
その瞬間、環奈の携帯が鳴った。
どうやら誰かからメッセージが来たようだ。
彼女は一人の時間が邪魔されたことで若干イラついた様子で携帯画面を確認する。
送ってきた人は幼馴染である真凜。
メッセージ内容に目を通した環奈は明るい表情になる。
『環奈ちゃん。土曜に時間大丈夫?中間報告しよう!♡』
中間報告。単語だけじゃ理解し難いが、後ろのハートが全てを物語っていた。
環奈は早速返事をした。
『いいよ。私も色々話したいことあるし』
簡潔に返事をした環奈に早速またメッセージを送ってくる真凜。
『マカロンめっちゃおいしいカフェ知っているから、昼にご飯食べてから一緒に行こう!!!』
真凜のメッセージを読んでいる環奈の口は徐々に吊り上がる。
真凜は自分の心を打ち明けられる数少ない人だ。
(立崎)由美と(三上)有紗もいるが、彼女らは真面目な印象なので、こんな話はあまり向いてないかもしれない。
自分と樹の話を聞いてほしい。
自分と樹の関係を知ってほしい。
その全てを伝えられる気心の知れた友人がいることに環奈は大きな喜びを覚えた。
『うん!行こう!すごく楽しみ!』
今、環奈の心は満たされている。
これまで感じたことのない漲ってくるこの満足感をどうすればいいのか少し迷っている環奈は、
落ち着きのない歩き方で、トイレへと向かった。
追記
啓介の家に行く日とちょうど被りますな
★4000行きたいのでご協力いただければ、嬉しいです!
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